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未来への道を拓くためにすべきこと
(詩編143)
永原アンディ
今日の詩は143編です。 どのような状況に置かれても希望を持って未来に向かって歩みを進めることのできる秘密が書かれています。期待して読んでゆきましょう。
1. 正しい者は一人もいない (1-4)
1 賛歌。ダビデの詩。主よ、私の祈りを聞いてください。嘆き願う声に耳を傾けてください。あなたの真実、あなたの義によって私に答えてください。
2 あなたの僕を裁きにかけないでください。生ける者の中であなたの前に正しい者はいないからです。
3 敵は私の魂に追い迫り私の命を地に踏みにじりはるか昔の死者のように私を暗闇に住まわせた。
4 私の霊は萎え果て私の内で、心はおののいている。
ここで注目したいのは、詩人が「私たちは誰も神様の前で主張できるような正しさを持ち合わせてはいない」と言っていることです。このことを私たちもまずしっかりと自覚する必要があります。
詩人が、神様は自分の訴えに耳を傾けてくださるだろう、と考えるのは自分にその価値があるからではなく、神様の憐れみが罪人の自分にも向けられると信じているからです。そしてその憐れみこそ、神様の真の在り方であり、正しさであると信じているのです。
3,4節で歌われているように、彼の置かれている状況は大変厳しく、自分を脅かす者たちによって、死者が葬られる墓の中のような暗黒状態で、心も魂も萎縮してしまっていると訴えています。
詩人は、確かに神様の正しさの基準からすれば罪に定められても当然の自分ではあるけれど、今の苦境は神様による裁きや罰ではないと知っているのです。だから憐れみを求めることができるのです。
私たちも、このこと認めることによって、余計なことを考えずに、神様の憐れみを求めることができます。そして憐れみを求めることが、暗闇の中で明るい未来に向けての第一歩です。
2. 思うのは過去の恵み (5, 6)
5 私は過ぎ去った日々を思い起こしあなたの行ったことを一つ一つ思い返し御手の業に思いを巡らします。
6 あなたに向かって両手を広げます。私の魂は荒れ果てた大地のようにあなたを慕います。〔セラ
昔、讃美歌や聖歌を歌う教会にいた時に歌った歌が突然脳内に蘇るという老人あるあるが、最近よく起こります。その中に「数えよ主の恵み、数えてみよ主の恵み」というリフレインのある「のぞみも消えゆくまでに」(聖歌604)という曲があります。詩編103編2節「わたしの魂よ、主をたたえよ。そのすべての計らいを忘れるな」からインスパイヤされた歌詞です。
詩人はここで、そのことを実践しているわけです。そして私たちも、過去に主がしてくださった恵みを思い起こしてみることを勧められているのだと思います。
私たちは神様の過去の恵みを忘れて、今の苦難の中で神様はどこにいるのか?何をしてくれるのかと簡単に疑う者です。神様の恵みは私たちの体にとって空気のようなものかもしれません。私たちの感覚では、空気は当然あるもので普段は気にも止めません。そもそも空気は私たちが作り出せるものではなく、しかもそれはさまざまな気体の混合したものです。その濃度のバランスが崩れれば、もはや人は生きることができなくなるほど奇跡的にバランスが保たれていて、それ自体も神様の恵みだと思います。
それでも大抵の人は空気のバランスについて神様に感謝したりはしないでしょう。神様の恵みはあまりにも多く豊かなのに、人はすぐにそれに慣れて忘れてしまうのです。そして、神様を疑い、心の平安は消えてしまうのです。
私たちが今共にここにいて、共に神様を礼拝していることも、神様の恵みによる奇跡なのですが、それに気がついている人はどれくらいいるでしょうか?
私たちは、生まれてからずっと毎日、多くの選択をして人生を進んできました。その多くのそれぞれの選択の結果が、ここに共にいて神様を礼拝しているという結果を生んでいるのです。そして、もしそれを選ばなければ自分はここにいなかっただろうというような選択も多くあったはずです。そしてそれらの選択にしても、迷いもなくそう選んだというものはそう多くはなかったはずです。
つまり、これは自分の正しい選択の結果ではなく、神様の憐れみによる導きの結果だということです。
多くの危機を回避でき、災害に遭っても救い出されて来た私たちです。神様の憐れみによる導き以外の何ものでもありませんから、決して皆さんに恩を着せようとしていうわけではありませんが、わたしの進路選択のうち、一つでも別の選択をしていたらユアチャーチはこの世に存在していなかったわけです。
そのことを思うと、神様が、詩人同様、私というその裁きに耐えることのできない罪深い者をご自身の計画に巻き込んで用いてくださったことへの感謝の思いと共に、これからも同様に導いていただけるに違いないと思えるのです。
忘れてしまいやすいことは、反復して思い起こすしかありません。皆さんも、たとえば寝る前に神様の恵みを五つ思い出して忘れないようにノートに書くとかして、恵みを明日への糧としてください。
3. あなたはわたしの神・わたしはあなたの僕 (7-12)
7 主よ、すぐに答えてください私の霊は絶え果てました。御顔を私から隠さないでください。私は墓穴に下る者のようになってしまいます。
8 朝に、あなたの慈しみを聞かせてください私はあなたに信頼しています。歩むべき道を知らせてください。私はあなたに向かって魂を高く上げます。
9 主よ、敵から私を助け出してください。あなたのもとに私は逃れます。
10 御旨を行うすべを教えてください。あなたは私の神です。あなたの恵み深い霊が平らな地で私を導いてくださいますように。
11 主よ、あなたの名のゆえに、私を生かしあなたの義によって私の魂を苦しみから引き出してください。
12 あなたの慈しみによって、敵を消し去ってください。私の魂を苦しめる者をことごとく滅ぼしてください。私はあなたの僕です。
なんでそんな酷い目にあっているのに主を信頼し続けられるのか?前の部分でお話しした通り、神様への信頼は、過去の数えきれないほど多くの恵みに基づいているものだからです。それがどのような状況であれ、全能の神様に介入できないような状態はひとつもありません。
だから詩人は「あなたの慈しみを聞かせてください。私はあなたに信頼しています。歩むべき道を知らせてください。私はあなたに向かって魂を高く上げます。」と神様に呼びかけます。わたしはこれこそが礼拝の心だと思うのです。私たちが、そのような信頼を持って礼拝するなら、神様はさらに多くの恵みを表してくださるのではないでしょうか?
それが実現するために、今日のテキストを通して、1)自分の(神様の憐れみに頼るしかない)罪深さを自覚すること、2)それにもかかわらずいただいた多くの恵みを思い起こし、覚えていることをお勧めしてきました。
そして、最後にもう一点お話ししておきたいことがあります。それは、「私たちと神様」ではなく、「わたしと神様」という個人的な関係を確立していただきたいということです。そこで、この部分の対になった二つの言葉に注目したいと思います。それは、「あなたはわたしの神」「わたしはあなたの僕」です。
さまざまに背景の異なる、しかも欠けの多い私たちです。そのような私たちが同じキリストの体として良い関係を築くことができるのでしょうか?最近の池田牧師のメッセージを通して、そのために私たちが気付くべきことを教えられて来ました。その土台として気付いていなければならないことを、この二つの言葉はさし示しています。
どのような人とであろうと、この土台なしに良い関係を築くことは不可能です。神様との間にしっかりとした関係を築けていないなら、良い人間関係は築けません。最後にイエスがペトロに向かって言った言葉を紹介します。自分に語られていると思って聞いてください。そして日曜日の、また日々の個人的な礼拝を通してイエスとの強力な個人的な関係を築いてください。
20 ペトロが振り向くと、イエスの愛しておられた弟子が付いて来るのを見た。この弟子は、あの夕食のとき、イエスの胸元に寄りかかったまま、「主よ、あなたを裏切るのは誰ですか」と言った人である。
21 ペトロは彼を見て、「主よ、この人はどうなるのでしょうか」と言った。
22 イエスは言われた。「私の来るときまで彼が生きていることを、私が望んだとしても、あなたに何の関係があるか。あなたは、私に従いなさい。」(ヨハネによる福音書 21:20-22)
(祈り)神様、あなたが今日まで、その憐れみによって多くの恵みをくださってきたことを覚えて感謝します。
深い罪を償うこともできない私たちのために、あなた自身が十字架につけられ身代わりとなってくださった私たちの人生最大の恵みをありがとうございます。
私たちが、あなたが日々に与えてくださった恵みを思い起こし、あなたを信頼して最後までこの世の歩みをまっとうすることができるように導いてください。
あなたはわたしの神、わたしはあなたの僕です。
感謝して、イエスキリストの名によって祈ります。
要約
困難の中にあっても神様を信頼して力強く歩み続けるために必要なのは、自分の罪深さと神様の憐れみを知ること、過去にいただいた神様の恵みを忘れずに思い起こすこと、神様との個人的な関係を築き上げることです。
話し合いのために
1. イエスを主と信じることができたこと以外の最も大きな恵みは何ですか?
2. なぜ過去にいただいた恵みを忘れずにいることが大切なのでしょう?
子どもたち(保護者)のために
何で詩人が困難の中でも神様を信頼することができたのか話してあげてください。今まで、神様がどんな素晴らしいことをしてくださったか、子供達に聞いてみましょう。一人でも神様に祈ることができることを伝え、勧めてください。