イエス様の望み

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イエス様の望み

(ヨハネによる福音書8:48-59)

池田真理


 今日はヨハネによる福音書のシリーズに戻って、8章最後の部分を読んでいきます。イエス様とユダヤ人指導者たちの議論は、ここでクライマックスを迎えて一旦終わりになります。今日の箇所で印象に残るのは、イエス様がご自分を信じようとしない人々のことを諦めず、彼らに語りかけ続けている姿です。イエス様がそうなさったのは、私たち全てに対して願いを持っておられたからだと思います。今日の箇所から、そのイエス様の願いは三つの言い方ができることが分かります。まず48-51節を読んでいきましょう。

A. 私たちが命を得ること (48-51)

48 ユダヤ人たちが、「あなたはサマリア人で悪霊に取りつかれていると、我々が言うのも当然ではないか」と言い返すと、49 イエスはお答えになった。「私は悪霊に取りつかれてはいない。父を敬っているのだ。しかし、あなたがたは私を敬わない。50 私は、自分の栄光は求めない。私の栄光を求め、裁きをなさる方が、ほかにおられる。51 よくよく言っておく。私の言葉を守るなら、その人は決して死を見ることがない。」

 ここで議論になっていたのは、イエス様がご自分のことを神様と同等の存在としたことです。ユダヤ人指導者たちは、イエス様の言葉をよく聞かずに、イエス様が神様であるはずがないと決めつけて、イエス様の頭がおかしいのだと考えようとしていました。

 今日の箇所の特徴は、このようなユダヤ人たちからの批判に対してイエス様が反論した後で、イエス様がひとこと招きの言葉を付け加えていることです。ここでは51節です。

よくよく言っておく。私の言葉を守るなら、その人は決して死を見ることがない。(51)

ご自分のことを否定し非難する人々に対して、イエス様は救いの道を示そうとされていました。ここに、イエス様が私たち全てに対して持っておられる強い願いが表れていると思います。

 「私の言葉を守るなら、その人は決して死を見ることがない」とは、どういう意味でしょうか?少し、これまでのイエス様の言葉を思い返してみましょう。まず、5:24にはこうありました。

よくよく言っておく。私の言葉を聞いて、私をお遣わしになった方を信じる者は、永遠の命を得、また、裁きを受けることがなく、死から命へを移っている。(ヨハネ5:24)

8:24にはこうありました

「私はある」ということを信じないならば、あなたがたは自分の罪のうちに死ぬことになる。(ヨハネ8:24b)

このように、イエス様が言われる命とは永遠の命のことで、反対に、死ぬということは私たちが罪の中にとどまる状態を指します。つまり、イエス様の言われる命とは、肉体の命とは異なるものです。肉体が生きていても、自分の罪に囚われたままなら、私たちは死んでいるのと同じです。反対に、私たちが神様の愛を受け取って、神様を愛して生きるなら、肉体が生きていても滅びても、私たちは神様と一緒にいることができます。それが永遠の命です。

 イエス様は、私たち全てにその命を手に入れてほしいと願われました。私たちが、神様に愛されていることを確信して、神様を愛して、この世界に生きている間もこの世界を去った後も、神様と共に生き続けることができること以上に素晴らしいことはありません。イエス様は、それが神様の望みであると知らせるためにこの世界に来られ、十字架でそれを証明してくださいました。

 私たちがこの命を受け取るために必要なのは、自分が自分の力では生きられず、神様の愛を頼らなければ生きられないと認めることだけです。私たちは自分を正しく導くことができず、自分自身を神様であるかのように過信してしまうものです。それが自分も周囲の人間も不幸にする私たちの罪であるということを、知らなければいけません。

 それでは次に進みましょう。52-56節です

B. 私たちが希望と喜びを持つこと (52-56)

52 ユダヤ人たちは言った。「あなたが悪霊に取りつかれていることが、今はっきりした。アブラハムは死んだし、預言者たちも死んだ。ところが、あなたは、『私の言葉を守るなら、その人は決して死を味わうことがない』と言う。53 私たちの父アブラハムよりも、あなたは偉大なのか。彼は死んだではないか。預言者たちも死んだ。一体、あなたは自分を何者だと思っているのか。」54 イエスはお答えになった。「私が自分に栄光を帰するなら、私の栄光はむなしい。私に栄光を与えてくださるのは私の父であって、あなたがたはこの方について、『我々の神だ』と言っている。55 あなたがたはその方を知らないが、私は知っている。私がその方を知らないと言えば、あなたがたと同じく私も偽り者になる。しかし、私はその方を知っており、その言葉を守っている。56 あなたがたの父アブラハムは、私の日を見るのを楽しみにしていた。そして、それを見て、喜んだのである。」

 ここでも、ユダヤ人たちの的外れな批判に対してイエス様が反論した後、最後の56節でイエス様は彼らが理解することを願って語りかけています。

あなたがたの父アブラハムは、私の日を見るのを楽しみにしていた。そして、それを見て、喜んだのである。(56)

前回読んだ箇所では、イエス様はユダヤ人たちが自分たちの父はアブラハムであると言ったことを否定していましたが、ここでは彼らに「あなたがたの父アブラハムは」と語りかけています。イエス様は、彼らが本当にアブラハムのことを尊敬していて、アブラハムの何を見習うべきなのか理解していたら、自分の言葉も理解できるはずだと期待し、諦めていなかったのだと思います。

 でも、この56節のイエス様の言葉は少し不可解です。「アブラハムは私の日を見るのを楽しみにしていた。そして、それを見て喜んだ」とは、具体的に何のことを指しているのでしょうか?

 まず、イエス様が言われる「私の日」というのは、この言葉が他の箇所で使われる時の意味から、世界の終わりにイエス様が全ての人を裁く日を指していると考えられます。いわゆる最後の審判の時ということです。私たちは「最後の審判」と聞くとどうしても恐ろしいイメージを持ちますが、その必要はありません。神様は、私たちのうちに正しい人は誰もいないことを知っておられ、私たちを憐れみ、できるだけ多くの人を救おうとされる方です。イエス様が十字架で死なれたのは、そのような神様の憐れみの大きさを私たちに示すためでした。だから、ここでイエス様が言われた「私の日」というのは、最後の審判の時を指しているのと同時に、イエス様を通して神様の憐れみが示される時を指していると言えます。

 それでは、その日をアブラハムが楽しみにしていて、それを実際に見て喜んだとは、どういう意味でしょうか?少しヒントになる箇所を読みたいと思います。ローマの人々への手紙4章です。

16 …アブラハムは、神の前で、私たちすべての者の父であって、17 「私はあなたを多くの国民の父とした」と書いてあるとおりです。彼はこの神、すなわち、死者を生かし、無から有を呼び出される神を信じたのです。18 彼は望みえないのに望みを抱いて信じ、その結果、多くの国民の父となりました。「あなたの子孫はこのようになる」と言われているとおりです。19 およそ百歳になって、自分の体が死んだも同然であり、サラの胎も死んでいることを知りながらも、その信仰は弱まりはしませんでした。20 彼は不信仰に陥って神の約束を疑うようなことをせず、むしろ信仰によって強められ、神を賛美しました。21 神は約束したことを実現させる力も、お持ちの方だと、確信していたのです。(ローマ4:16-21)


アブラハムは、神様が約束を破ることはない誠実な方だと信じており、不可能を可能にする方だと信じていました。だから、自分にどうすることもできない現実を前にしても、希望を失わずに、神様のしてくださることを楽しみに待つことができました。このことは、ヘブライ人への手紙11章にも書かれているので、読んでみます。

8 信仰によって、アブラハムは、自分が受け継ぐことになる土地に出ていくように召されたとき、これに従い、行く先を知らずに出て行きました。…11 信仰によって、不妊の女サラも、年老いていたのに子をもうける力を得ました。約束してくださった方が真実な方であると、信じたからです。12 それで、死んだも同然の一人の人から、空の星のように、また海辺の数えきれない砂のように多くの子孫が生まれたのです。13 この人たちは皆、信仰を抱いて死にました。約束のものは手にしませんでしたが、はるかにそれを見て喜びの声を上げ、自分たちが地上ではよそ者であり、滞在者であることを告白したのです。(ヘブライ11:8-13)

神様がアブラハムに約束したのは、アブラハムが多くの国民の父となるということでしたが、それは単に彼の子孫が数的に増えて物質的に繁栄するという意味ではありません。アブラハムの信仰から学び、その信仰を引き継いでいく者がたくさん現れるという意味です。私たちもその中に含まれており、私たちはアブラハムと一緒に、神様が約束された地に向かって旅をしています。そこは、神様の国です。神様の国は死後の世界ではなく、今ここにも存在していますが、世界の終わりの時までは完全な形では実現されません。そこは、私たちが生きているうちには辿り着けない遠くにあるものであると同時に、私たちの日常の中で確かに存在します。私たちの日常の中にある神様の国とは、死んだも同然の者に命を与え、無から有を作り出し、絶望の中で希望を生む神様の力です。私たちは、神様の国が完全に実現するのをはるか未来のこととして楽しみにしながら、日常の中で表される神様の力を確かに感じて喜び、希望を持つことができます。

 イエス様は、私たちが、主は良い方であり、約束を守る誠実な方であると確信して、アブラハムと同じように、希望と喜びを持って生きることを望まれています。

 それでは最後の57-59節を読みましょう。

C. 私たちが神様の愛を知ること (57-59)

57 ユダヤ人たちが、「あなたは、まだ五十歳にもならないのに、アブラハムを見たのか」と言うと、58 イエスは言われた。「よくよく言っておく。アブラハムが生まれる前から、『私はある。』」59 すると、ユダヤ人たちは、石を取り上げ、イエスに投げつけようとした。しかし、イエスは身を隠して、神殿の境内から出て行かれた。

 イエス様は「アブラハムが生まれる前から、『私はある』」と言われています。この「私はある」という言葉は特別な表現で、旧約聖書で神様がご自分のことを人々に示すときに使われた表現です。「私は主である」「私は神である」ということを意味しています。つまり、イエス様はここで、旧約聖書で証しされてきた神は自分のことであると宣言されたということです。言い換えれば、イエス様は、この世界を創造した神様と自分は同等の存在で、アブラハムが生まれる前からずっと自分はこの世界を守り導いてきたのだと言われたということです。

 人々は、そんなことがあるわけがないと、イエス様のことを信じませんでした。そして、神様を冒涜した罪でイエス様を殺そうとしました。イエス様は、彼らがそういう反応をすることは、これまでの彼らとのやりとりからも、よく分かっていたはずです。にもかかわらず、このようにご自分のことを宣言されたのは、それが真実であると彼らに伝えなければならなかったからです。イエス様と神様は一体で、イエス様は神様の意志を私たちに伝えるためにこの世界に人間となって来てくださいました。神様はこの世界を造られた最初から私たちを愛しておられると示すことが、イエス様の使命でした。

 イエス様は、8章の最初の方でこう言われました。

「私は世の光である。私に従う者は闇の中を歩まず、命の光を持つ。」(ヨハネ8:12)


私たちが自分の心の闇に負けず、社会の暗さに負けずに、神様の愛を信じて、神様の愛を実現していくことが、イエス様の望みです。その働きを担うことは、私たち自身の希望であり救いでもあります。希望の源は、私たちの中にあるのではなく、イエス様の中にあります。私たちには不可能に思えることでも、私たちが生きているうちには結果が見られなくても、神様はご自分の良い意志を実現するために、私たち一人ひとりを用いてくださいます。イエス様が人々に語り続けたように、私たちも諦めずに、与えられたそれぞれの持ち場で、神様の愛を語り続けましょう。

(祈り)主イエス様、どうか私たち一人ひとりの心に、今あなたが入ってきてください。あなたが共におられることを、分かるように示してください。あなたに従って、希望を失わず、喜びを持って、それぞれの人生を歩むことができるように、導いてください。あなたの愛を人に伝える喜びを、私たちにさらに教えてください。私たちにできることはごくわずかで、間違えることも多いですが、それでもあなたが愛してくださったように互いに愛し合うことができるように、私たちを作り変えて導いてください。主イエス様、あなたのお名前によってお祈りします。アーメン。

要約

この箇所から分かるイエス様の望みは三つです。まず、私たちが肉体の死を超えた本当の命を手に入れること。第二に、私たちが尽きることのない希望と喜びを持って生きること。第三に、時を超えて私たちを守り導く神様の愛を知ることです。イエス様はこれらのことを、ご自分を捕らえようとしていた人々に向かって語り続けました。。

話し合いのために

1. イエス様のくださる命とは?

2. アブラハムが持っていた希望と喜びとは?(ヘブライ11章も参考に)

子どもたち(保護者)のために

イエス様がくださる命とは、イエス様の愛を受け取ってイエス様を愛して生きる関係を持つことです。それは体の死を迎えても、途切れることなく続く関係です。子供たちに、体の死を超えた命とは何か、難しいかもしれませんが、一緒に話してみてください。「死んだら全て終わり」ではないということ、生きているうちからその命は始まっていることを伝えてください。