弱者と強者の立場を逆転させたイエス様

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弱者と強者の立場を逆転させたイエス様


シリーズ「障害者と相互依存の神学」第3回 (ヨハネによる福音書9:24-41)

池田真理

 この箇所は、生まれつき目の見えない人の目をイエス様が癒して目を見えるようにする話です。前回このお話しの前半を読んで、イエス様は私たち全てに平等に愛を注いでおられるのに対して、私たちは障害を持つ人々を差別しているということをお話ししました。

 障害を持つ人々を取り巻く社会の状況は、イエス様の生きた古代と比べれば現代はかなり改善しました。それでも、驚くほどに、残念ながら、この箇所に登場する人々の差別的な言動は現代にも通じるものがあります。障害を持つ人々を子供扱いしたり、彼らの言葉を軽んじたりして、彼らのことを意志を持つ個々人として尊重しないことが現代でも見られます。そして、聖書や讃美歌や説教の言葉にも差別は入り込んでいて、障害を罪の結果とする間違いを助長し、障害を持つ人々を抑圧してきたということをお話ししました。

 今日は、この話の後半に入りますが、ここからは、目を癒された人の反撃が始まります。反撃と言っても、彼は攻撃しているのではなく、彼が当然持っている権利を用いているだけなのですが、それまで彼を見下してきた人々にとっては屈辱的に感じられることでした。彼はイエス様と改めて出会い、新しい人生を始めます。

 それでは読んでいきましょう。まず24-34節です。

A. 弱者と強者の立場の逆転(24-34)

24 そこで、ユダヤ人たちは、目の見えなかった人をもう一度呼び出して言った。「神の前で正直に答えなさい。私たちは、あの者が罪人であることを知っているのだ。」25 彼は答えた。「あの方が罪人かどうか、私には分かりません。ただ一つ知っているのは、目の見えなかった私が、今は見えるということです。」26 すると、彼らは言った。「あの者はお前にどんなことをしたのか。お前の目をどうやって開けたのか。」27 彼は答えた。「もうお話ししたのに、聞いてくださいませんでした。なぜまた、聞こうとなさるのですか。あなたがたもあの方の弟子になりたいのですか。」28 そこで、彼らは罵って言った。「お前はあの者の弟子だが、我々はモーセの弟子だ。29 我々は、神がモーセに語られたことは知っているが、あの者がどこから来たのかは知らない。」30 彼は答えて言った。「あの方がどこから来られたか、ご存じないとは、実に不思議です。あの方は、私の目を開けてくださったのに。31 神は罪人の言うことはお聞きにならないと、私たちは承知しています。しかし、神を敬い、その御心を行う人の言うことは、お聞きになります。32 生まれつき目が見えなかった者の目を開けた人がいるということなど、これまで一度も聞いたことがありません。33 あの方が神のもとから来られたのでなければ、何もおできにならなかったはずです。」34 彼らは、「お前は全く罪の中に生まれたのに、我々に教えようというのか」と言い返し、彼を外に追い出した。

1. 弱さによって培われた強さ

 この箇所を読むと私はワクワクしてしまうのですが、皆さんはどうでしょうか?それまで社会で無視されてきた人が、権力者を前に、とても力強い証言をしています。ユダヤ人指導者たちはこの男性が本当に目が見えなかったのに見えるようにされたということを信じようとせず、彼の言葉を疑い、彼の両親まで呼び出し、さらにもう一度この人を呼び出して問いただしました。この男性は、彼らに呆れているようです。「私はもう説明したじゃないですか。でも、あなたがたは私の言葉を信じなかったし、信じる気はないのでしょう?」と。この人は差別や侮辱に怯まず、権力者を恐れず、皮肉すら交えて反論していて、とても堂々としています。

 そして、さらに、この人は自分の身に起こった奇跡が人間を超えた力によるものであり、そんなことができるのは神様しかいないということにまで思い至っています。だから、イエスという方はユダヤ人指導者たちが言うような罪人であるはずがなく、神様からの遣いに違いないということまで冷静に考察しています。

 この人がこのように力強く冷静に話すことができたのは、彼が目が見えるようにされてから急に手に入れた能力ではなく、以前から持っていた彼自身の人格であり知性だと思います。それは、目が見えないという弱さを持ち、人々からの差別や抑圧、物乞いをするしかないという屈辱を受けながら、彼が見失わなかったものです。また、その中でこそ培われた正義感や勇気やユーモアという力だったのかもしれません。

2. 強さによって生まれた弱さ

 この人とは正反対な様相を見せたのが、ユダヤ人指導者たちです。彼らはこの男性を最初から見下していて、彼から何かを学ぼうという意図も意志も全くありませんでした。彼らはこの男性がまさか自分たちに反論してきたり、自分の考えを述べてきたりするとは想定していなかったのだと思います。なぜなら、彼は目が見えない物乞いだったのであり、自分たちと対等に意見をぶつけ合う能力などないと決めつけていたからです。彼が自分の身に起こったことを論理的に整理して考察し、自分なりの意見を持つということさえ想定していなかったかもしれません。それは全て、彼らの間違った思い込みと偏見と傲慢さでした。そして、それこそが彼らの弱さになりました。彼らは、その傲慢さのあまり、正義も真実も分からなくなったのです。

 このように、イエス様が起こした奇跡は、強者と弱者の立場を逆転させました。というよりも、それまで弱者とされてきた人が本当は弱者などではないことを示し、逆に、それまで強者とされていた人たちの強さは偽物であると示したと言えます。盲目だった人は、人々には存在しないかのように扱われてきましたが、最初から神様に愛されている一人の大切な人であり、その知性も人格も尊いものでした。反対に、ユダヤ人指導者たちは人々に神様のことを教えてきましたが、本当は神様のことを全く理解しておらず、自分たちが神であるかのように尊大に振るまい、人々を抑圧するという大きな過ちを犯していました。イエス様は、強い者の力を奪い、弱い者に力を与えます。その力は人を強制的に支配する権力ではなく、どんな立場に置かれても、どんな状況においても、神様を信じて希望を失わない力です。

 さて、でもこの結果、この男性は彼の共同体から追放されてしまいました。イエス様はこの結果を予想されていたのでしょうか?それは分かりませんが、続きを読むと、色々なことが想像できます。35-38節を読みます。

B. イエス様に呼び出され、古い共同体を捨てる(35-38)

35 イエスは彼が外に追い出されたとお聞きになった。彼と出会うと、「あなたは人の子を信じるか」と言われた。36 彼は答えて言った。「主よ、それはどなたですか。その方を信じたいのですが。」37 イエスは言われた。「あなたは、もうその人を見ている。あなたと話しているのが、その人だ。」38 彼(は)、「主よ、信じます」と言って、ひれ伏(した。)

 この人がこの後どのような人生を送ったのかは、何もヒントがありません。でも、何かしらの形で、イエス様を信じる共同体に加わったのは間違いないと思います。彼の古い共同体には彼の居場所はなくなりましたが、そこはもう彼の属するべき場所でもなくなっていました。彼は、イエス様を信頼することによって、新しい生き方と新しい自分の居場所を見つけました。イエス様がそのように彼を呼び出してくださったからです。私たちはここから二つのことを学べると思います。一つはこの男性の立場で、もう一つはイエス様の立場で考えてみると分かります。

 まず、この男性の立場になって考えてみると、私たちがイエス様を信じる決心をするということは、それまで自分が属していた古い共同体を捨てる決心をすることでもあるということが分かります。それは、信仰を持たない家族や友人と縁を切るという意味ではありません。そうではなく、もっと心の深いところで心の向きを変えて、価値観を転換するということです。それまで自分中心に生きてきた人間がイエス様中心に生きるようになるということは、とても大きな価値観の転換です。そして、その価値観が家族や友人が持っている価値観と異なるなら、彼らと自分が大切にしていることや目指している方向が違うということを認めていかなければいけません。分かり合えないことも出てくるかもしれませんが、それでも互いに愛し合うことに支障はありません。イエス様を愛するということは、うまくいかない家族や友人のことも愛するということだからです。

 ただ、この男性の場合のように、元から対等に愛し合う関係がなく、相手の悪意から逃れるために関係を断絶するしかない場合もあります。DVや虐待のある関係がこれに当てはまります。また、この男性が受けたような障害者差別や、最近お話しした人種差別、その他様々な差別を受ける時、私たちは差別主義者たちに従順である必要は全くありません。そのような差別主義者たちが多い共同体なら、そこから逃げられる術があるならば、そこを捨て去ることは何も間違っていません。

 そこで必要になるのが、イエス様の立場になってこの箇所を読むことです。私たちは、イエス様の代わりになって、差別されたり孤立させられたりしている人に会いに行って、「あなたは間違っていない」と伝え、一緒に生きる道を用意する使命を与えられています。社会に居場所がないと感じる人に、イエス様の元には場所があるということを伝える使命です。また、教会という共同体がそのような場所でいられるように、どんな人のことも温かく迎え入れる居場所となれるように、私たちは常に努力する必要があります。それは、私たちがこの場所で集う時だけでなく、私たち一人ひとりがそれぞれの置かれている場所で、イエス様の代わりになることも意味します。学校で、職場で、家族の中で、あらゆる生活の場で、私たちはイエス様の代わりにそこに派遣されています。私たちは皆、ただイエス様に罪を赦された罪人に過ぎず、偏見から自由になりきれませんし、私たちの愛は小さなものです。それでも、イエス様が私たちを呼び出して、安心して弱いままでいられる居場所をくださった喜びを知っているなら、私たちもそのイエス様の愛を運ぶ小さな器になれます。

 それでは最後の部分を読んでいきましょう。39-41節です。

C. 弱くないと分からないもの (39-41)

39 イエスは言われた。「私がこの世に来たのは、裁くためである。こうして、見えない者は見えるようになり、見える者は見えないようになる。」40 イエスと一緒に居合わせたファリサイ派の人々は、これを聞いて、「我々も見えないということか」と言った。41 イエスは言われた。「見えない者であったなら、罪はないであろう。しかし、現に今、『見える』とあなたがたは言っている。だから、あなたがたの罪は残る。」

 この箇所全体を通して言われてきたことは、目が見えなかった人には理解できたことが、目が見えて富も権力も知識も持っていた権力者たちには理解できなかったということです。それが、ここでイエス様の言われる、「見えない者は見えるようになり、見える者は見えないようになる」ということです。「見えない」という言葉を神様を理解しないことと同義とするのは、実際に目が見えない人たちに対して差別的です。でも、この箇所全体を通して、目が見えないなどの障害を持つことは罪でも何でもなく、むしろ目が見えなかったことがこの男性を強くしたということが言われてきました。障害によって社会的に弱い立場にされていたことが、逆にこの人の心をイエス様に結びつけました。反対に、肉体的にも経済的にも不自由のない生活をしていた権力者たちは、イエス様のことが理解できませんでした。

 パウロは、コリントの人々への手紙第一の1章で、こんなふうに言っています。

18 十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、私たち救われる者には神の力です。…22 ユダヤ人はしるしを求め、ギリシア人は知恵を探しますが、 23 私たちは、十字架につけられたキリストを宣べ伝えています。すなわち、ユダヤ人にはつまずかせるもの、異邦人には愚かなものですが、24 ユダヤ人であろうがギリシア人であろうが、召された者には、神の力、神の知恵であるキリストを宣べ伝えているのです。25 神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからです。…27 神は知恵ある者に恥をかかせるため、世の無学な者を選び、力ある者に恥をかかせるため、世の無力な者を選ばれました。28 また、神は地位のある者を無力な者とするため、世の無に等しい者、身分の卑しい者や見下げられている者を選ばれたのです。(1コリント 1)

 神様が人間になられて、人間のために罪人として裁かれ処刑されるという出来事は、多くの権力者たちには理解不能でした。彼らは、より多くの権力と富を持つことが強さと正しさの象徴だと思っていたからです。だから、全ての人を支配する力を持つ全知全能の神が、なぜその力を放棄して、弱くなって、不名誉な死を遂げなければならないのか、理解できませんでした。だから、イエスが神であるはずがないとも考えました。

 でも、病気や障害に苦しんできた人たちや、病気や障害以外にも様々な理由で人からの差別や無理解にあって孤立してきた人たちは、イエス様に希望を見出しました。そして、イエス様こそが自分たちを救うことのできる神様だと受け入れました。彼らには、イエス様が自分たちと同じように無力な存在となられ、肉体的な苦しみと精神的な苦痛、死に至るまで、共に分かち合ってくださったのだと分かりました。神様は、確かに私たちの嘆きと叫びを聞いておられたのだと分かったのです。

 私たちは、自分自身の強さに頼っている限り、イエス様を理解することはできません。私たちに必要なのは、自分の弱さと小ささに打ち砕かれて、そのままで神様の前に出ていくことです。そして、「あなたが必要です」と叫ぶことです。イエス様は、私たちにご自分の霊を注いで、私たちには分からなかったことを分かるようにし、新しい可能性に導いてくださいます。私たちは、誰といても、ひとりでも、どこにいても、どんな状況でも、イエス様に希望を委ねて、歩み続けられます。それが、本当の強さです。

(祈り) 
主イエス様、あなたは十字架の上で無力になられました。
それは、私たちが悪意や不正義を止めることのできない無力な者であるからです。
でも、あなたは復活されて、私たちが無力感や絶望に支配される必要はないと示してくださいました。
私たちは欠けの多い者ですが、あなたに造られ、あなたに似た者としてあなたに愛されています。
一人ひとりのことを、あなたは知っておられます。
どうか私たちが、あなたに与えられたそれぞれの場所で、あなたがくださる安心と希望を、私たちの周りの人たちに届けることができるように用いてください。
あなたの霊をもう一度私たちに注いで、私たちの心をあなたに一直線に向けさせてください。
主イエス様、あなたのお名前によってお祈りします。アーメン。


要約


<キャシー・ブラック著「癒しの説教学−障害者と相互依存の神学」を読むシリーズ第3回>障害を持つ人々は社会的弱者にさせられていることが多いですが、その経験によって彼らは不正義に敏感で、正義を求める力を持っています。権力や特権を持つ社会的強者は、弱者が力を持つことを嫌がりますが、それこそが強者の貧弱さです。自分の弱さを認め、神様の愛こそが真の強さを私たちに与えてくださるということを認めましょう。社会的強者であるか弱者であるかに関係なく、そこから私たちの新しい人生が始まります

話し合いのために

1. この人の強さとは?

2. 私たちが「見る」べきものとは?

子どもたち(保護者)のために

目が見えるようになった人のことを、なぜ人々は嫌がったのだと思いますか?話し合ってみてください。