主への私たちの意志を歌う新しい歌

Francesco Rosselli, CC0, via Wikimedia Commons
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日曜礼拝・英語通訳付

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主への私たちの意志を歌う新しい歌

(詩編145)

永原アンディ

1. この詩の特徴

 今日の詩は145編です。詩篇はいくつかのまとまった詩集に分類できるのですが、145編は138編から続いている、各詩の冒頭に「ダビデの詩」という題が置かれているのでダビデ詩集と呼ばれている詩集の最後の一編です。ダビデ詩集は、一つの詩の中にも、期待と共に絶望が、信頼と共に不信、賛美と共に嘆きが歌われていることが多く、わたしたちも自身の置かれた状況と信仰のギャップや、内にある神様への信頼と不信をリアルに感じながら読んできました。 しかしこの最後の一編は今までの内容を踏襲するでもなく、まとめというわけでもなく、独立した異色な詩です。またこれは119編と同じように、各節の最初にヘブル語のアルファベットを順番に当てる技巧を用いています。この詩には、今まで切々と、あるいは絶叫するように発せられてきた嘆きの言葉、懇願、絶望、恨み言は全くありません。その代わりに、主に様々な仕方で仕えて行こうという、個人としての、また共同体としての強い意志と、主はどのような方なのかという宣言が美しく織り合わされている詩です。

 前回の144編に「神よ、私はあなたに新しい歌を歌おう 十弦の竪琴であなたをほめ歌おう」というフレーズがありました。
そしてこの145編こそが、その「新しい歌」であると教会は理解してきました。 それはどのような意味で「新しい」のでしょうか。 この歌は、144編までにあった悲嘆や苦難を隠して、無理に肯定的な表現だけで信仰を取り繕った歌ではありません。むしろ、144編までに言い表されたあらゆる現実を認めた上で、それでも神様の素晴らしさは何にも比較することができないこと、そして私たちがその神様に応えてしてゆきたい意志を言い表すことを歌うことによって私たちの信仰の新しい章を開く、という意味で新しい歌なのです。

2. 主はどのような方か(3,8-10, 13-20)

 今日は内容を明確にするために、内容に従って分けて読みますが、それだと全体の調和を感じにくいかもしれません。どうぞ今週、今日のお話を思い出しながら自分で通して読んでみてください。
それでは、まず主がどのようなお方だと宣言している部分に目を向けてみましょう。  

3 主は大いなる方、大いに賛美される方。その偉大さは計り知れない。
8 主は恵みに満ち、憐れみ深く怒るに遅く、慈しみに富む方。
9 主はすべてのものに恵み深くその憐れみは造られたものすべての上に及ぶ。
13 あなたの王権はとこしえの王権あなたの統治は代々に。
14 主は、倒れそうな人を皆支えうずくまる人を皆立ち上がらせる。
15 すべてのものがあなたに目を向けて待ち望むとあなたは時に応じて食べ物をくださる。
16 あなたは手を開き命あるものすべての望みを満ち足らせる。
17 主は、その歩まれるすべての道で正しくあらゆる御業において慈しみ深い。
18 主は、ご自分を呼ぶ人皆にまことをもって呼ぶすべての人に近くおられます。
19 主を畏れる人たちの望みをかなえ彼らの叫びを聞いて救ってくださいます。
20 主は、ご自分を愛する者を皆守り悪しき者はことごとく滅ぼします。

もう詩編を数年続けて読んできて、主がどのようなお方かということを詩人たちがどのように表現してきたか、皆さんにとってはどれも聞き慣れた事柄でしょう。ここに目新しいことは書かれてはいません。けれども、その一つ一つを異なる恵みとして一つ一つ心に刻みつけておくことは大切なことです。なぜなら、私たちの前に立ちはだかる問題は様々だからです。そのときに自分にとって、主のどのようなところが自分への力、助け、あるいは慰めになるのかは、置かれた状況によって変わります。

偉大な方(3)

恵みに満ち、憐れみ深く怒るに遅く、慈しみに富む方 (8)

すべてのものに恵み深く、造られたものすべてものに憐れみを及ぼす方(9)

世界の王、統治者 (13)

求める弱い者を助け、必要を満たす方、失望させない方 (14-16)

正しく慈しみ深い方(17)

近くにいてくださる方(18)

望みをかなえ叫びを聞いてくださる方(19)

惜しみなく与えてくださる方、守ってくださる方(20)

 例えば、18節は孤独を感じているとき、主は誰よりも近くにいてくださることを近くにいてくださる方であることを思い起こさせてくれます。17節は差別や不正に苦しむときに、主の正義が表されることを期待して待ち望む力を与えてくれるでしょう。

 この詩の各節の最初にヘブル語のアルファベットが順番に当てられていることを先にお話ししましたが、それは単に技巧を凝らすというだけではなく、記憶を助けるための工夫でもあったのだと思います。

 今のあなたにとって、神様はどのような方でしょうか?誰かにあなたの信じる神様はどのような方ですかと問われたら、あなたはどう答えますか?

3. 私(彼ら)は・・・します


それでは、先ほど読まなかった部分に目を向けて行きましょう。

1 わが神、王よ、あなたを崇め代々とこしえに御名をたたえます。
2 日ごとにあなたをたたえ代々とこしえに御名を賛美します。

4 代々、人はあなたの業をほめたたえ力強い御業を告げ知らせます。
5 私はあなたの威厳ある栄光の輝きと奇しき業の数々を思い巡らします。
6 人々は恐るべき力を述べ私は偉大な御業を物語る。
7 彼らはあなたの豊かな恵みの思い出を語りあなたの義を喜び歌います。

10 主よ、造られたものはすべて、あなたに感謝しあなたに忠実な人たちはあなたをたたえる。
11 彼らはあなたの王権に満ちる栄光を述べあなたの力強さについて語ります
12 人の子らに力強い御業と王権の輝かしい栄光を知らせるために。

21 私の口は主の賛美を語りすべての肉なるものは代々とこしえに聖なる御名をたたえます。

a.「私」と「彼ら」

 今、読んだ部分の共通点は、主への意志を歌っているという点です。ただ主語が二通りあったことに気付かれたでしょうか?「私」と「彼ら」です。
今まで読んできた「ダビデ詩集」では「彼ら」といえば敵のことを指す言葉でしたが、ここでは自分と同様に主を信じ従おうとしている人々を指して使っています。「わたしは・・・し、かれらは・・・する」と対比的に書かれていますが、内容は相反するものではなく、すべてを「私たちは・・・する」とまとめてもよいほど調和しています。
 なぜ詩人がこのように書き分けたのか、その理由は想像するしかありませんが、このことは私たちの信仰のあり方に良い示唆を与えてくれます。私はここから、私たちの信仰には個人的側面と集団的側面があり、どちらかを軽視することはできないというメッセージを受け取ります。
 イエスの願いは「個人偏重」でも「共同体偏重」でもありません。イエスにとって、個人は、ばらばらに存在するのではなく、教会という「共同体」につなぎあわされ、異なる部分として皆が欠かせない存在です。
 イエスにとって当時のユダヤ教は信頼できる共同体ではありませんでした。
それは、大切にされるべき多くの個人を疎外していたからで、イエスはそれを見過ごしにはなさいませんでした。
 イエスの意思に従って弟子たちが始めた、使徒言行録に記されている初代教会には多くの人が加わり、周りの人々からも好意を得たとあります。大きな喜びに満ちた共同体であったことが想像できます。
 しかし教会もまた人間の組織という側面があり、時が経てば構造疲労を起こし、イエスの時代のユダヤ教がそうであったように、個人を阻害するものと劣化します。教会は様々な改革によって危機を乗り越えてきました。15世紀の宗教改革は、その代表的なものです。今月31日は、今や日本でもハロウィンとして定着してしまいましたが宗教改革記念日なのです。この日にマルティン・ルターが何をしたかWikipediaで調べてみてください。

 私たちの神様との関係は、イエスがご自身の体と言われている教会を抜きにしては考えられません。自分がその一部であるキリストの体つまり教会のありかたを自分のこととして考え、必要なら修正していかなければ、教会はイエスの思いとはかけ離れたものになっていってしまいます。

b)私たちが神様に向かって表す意志


もう一度、主のためにしようとすることを読んでみます。

私は主を崇める、主をたたえる。(1,2)

人々は、主がなさった事ごとを告げ知らせる(4)

私は主のしてくださった素晴らしいことに想いを巡らせる。(5)

人々は主の力を述べる。私は偉大な御業を物語る。(6)

人々は恵みの思い出を語り、その正しさを喜び歌う。(7)

主に造られたものすべては感謝する。主に忠実な人たちは主をたたえる(10)

彼らは主の王権に満ちる栄光を述べ、主の力強さについて語る。(11)

私の口は主の賛美を語る。被造物は代々とこしえに聖なる主の御名をたたえる (21)

つまり、これらは礼拝を全ての中心としてとして生きますという意志表明なのです。共に捧げる礼拝は、礼拝の頂点ではありますが、礼拝はこの日曜の朝のひと時だけを意味してはいません。

 ここに、「私たちは」だけでなく「私は」の意味があります。週日一人でいる時も、誰かといる時も、そこで礼拝はなされるのです。主を感謝して、喜んで、ありがとうございますと、心の中で言うときそれは礼拝です。その時そこに共にいる誰かに恵みの思い出を語るとき、そこで礼拝は起こっています。

 ときに、「礼拝も大切だけれど伝道もしなければならない」という声を聞くことがあります。けれども「伝道」は礼拝と別の、するべき何かではなく、ここに書かれている、礼拝する意志をに従ってあなたが生きるときに「起こる」ことなのです。

 それでは今朝も心からの礼拝を、私たちの主に向かって捧げましょう。

(祈り)恵みに満ち、憐れみ深く怒るに遅く、慈しみに富む神様、イエスキリストとしてこの世界に来てくださって、私たちを家族として招き入れ、共にいてくださることを感謝します。私たちは、あなたを心から礼拝し、あなたのしてくださったことを心に留めて、あなたの恵みを必要とする人々に、主はあなたと共にいてくださいますと伝えます。私たち自身があなたの体の一つの部分として、人々を癒し、慰め、力づけ、必要を満たす者として歩めるように、私たちをあなたの霊で満たし用いてください。
イエス・キリストの名によって祈ります。

要約


「ダビデ詩集」の最後に置かれたこの詩は、私たちが主に向かって歌うのに相応しい、新しい旅立ちの歌です。私たちの信仰の歩みを一歩進めて、新たな章に進むための新しい歌です。私たちの新たな歩みに力を与えてくれるのは、主が創造の日からこの時まで、一人一人に、そして共同体に豊かに与え続けてくださった多くの恵みと、恵みに応えて従ってゆこうとする私たちの意志です。

話し合いのために
  1. あなたの信じる神様はどのような方ですかと問われたらどう答えますか?
  2. あなたはどのような形で主に仕えていきたいですか?
子どもたち(保護者)のために