羊のために命を献げる羊飼い

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日曜礼拝・英語通訳付

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羊のために命を献げる羊飼い

(ヨハネによる福音書 10:1-18)

池田真理

 今日からヨハネによる福音書10章に入っていきます。今日読んでいく箇所は、私たちはイエス様に導かれる羊の群れであるというお話です。それではいつものように少しずつ読んでいきたいと思います。まず1-6節です。

A. たとえ (1-6)

1 「よくよく言っておく。羊の囲いに入るのに、門を通らないでほかの所を乗り越えて来る者は、盗人であり、強盗である。2 門から入る者が羊飼いである。3 門番は羊飼いには門を開き、羊はその声を聞き分ける。羊飼いは自分の羊の名を呼んで連れ出す。4 自分の羊をすべて連れ出すと、先頭に立って行く。羊はその声を知っているので、ついて行く。5 しかし、ほかの者には決してついて行かず、逃げ去る。その人の声を知らないからである。」6 イエスは、このたとえをファリサイ派の人々に話されたが、彼らはその話が何のことか分からなかった。

1. 「盗人」「強盗」

 イエス様はこのたとえ話をファリサイ派の人々に話されたとあります。今日は省略しますが、この箇所の結びの部分の21節を読むと、この箇所はイエス様が盲目の人を癒した出来事の直後のやりとりであることが推測できます。つまり、イエス様はこのたとえ話を脈絡なくされたのではなく、イエス様の癒しの奇跡を理解せず、心を開こうとしない人々に向けて語りかけたということです。従って、ここでイエス様が言われている「盗人」や「強盗」というのは、イエス様の言葉を聞こうとせず、奇跡を信じようとしないで、イエス様を排除しようとしている人々を指しています。彼らが「盗人」「強盗」とされているのは、イエス様が大切にしようとしている人々のことを苦しませるからです。イエス様が与えたいと願う愛や希望を人々から奪い取っているから、彼らは盗人であり強盗なのです。

2. 「羊」の名を呼んで導く「羊飼い」

 これに対して、イエス様は羊の群れを守って導く羊飼いです。特にここで注目したいのは、「羊飼いは自分の羊の名を呼んで連れ出す」と言われているところです。そして、「羊はその声を聞き分けて、羊飼いについていく」とあります。ここに、私たち一人ひとりとイエス様の出会いがどういうものであるかが凝縮されていると思います。イエス様は、私たち一人ひとりの名前を呼んで、ご自分の羊の群れの一員としてくださる方です。私たちは大きな群れの一員にすぎませんが、イエス様はちゃんと一人ひとりのことを個別に気にかけてくださる良い羊飼いです。私たちは時に、そのことを忘れて、自分が「その他大勢」の一人に埋もれてしまっているように感じ、息苦しくなったり寂しくなったりするのではないでしょうか。そういう時、私たちに必要なのは、もう一度羊飼いの声を聞くことです。自分の名を呼んでくださっている声を聞くことです。 

 なぜ、私たちはその声を聞き分けることができるのかは、実際、不思議なことです。間違えることもあります。このことは今日最後に読む部分で改めて確認したいと思います。今はまず次の部分に進みましょう。7-10節です。

B. イエスは門 (7-10)

7 イエスはまた言われた。「よくよく言っておく。私は羊の門である。8 私より前に来た者は皆、盗人であり、強盗である。しかし、羊は彼らの言うことを聞かなかった。9 私は門である。私を通って入る者は救われ、また出入りして牧草を見つける。10 盗人が来るのは、盗んだり、屠ったり、滅ぼしたりするためにほかならない。私が来たのは、羊が命を得るため、しかも豊かに得るためである。

 私たちのほとんどは牧畜の経験がないと思いますが、遊牧民の生活などを見聞きしたことがあると思います。羊は昼間は牧草地にいますが、夜は柵の中に戻ってきます。柵の一部は門になっていて出入りできるようになっています。門は、柵で囲われた安全地帯と、柵の外の世界を隔てています。柵の外には豊かな牧草地があり、そこにも出て行かなければいけませんが、外に出るには危険も伴います。

 イエス様が「私は羊の門である」と言われたのは、柵で囲われた安全地帯に入る唯一の道は門であるという意味で言われています。神様の愛を知るための唯一の道がイエス様であるということです。私たちは、イエス様が私たちのために死なれたと知って、神様の愛を知りました。そして、その愛が自分に注がれていると知った時、私たちの心の中に安全地帯が生まれました。そこは、私たちの心の中にありながら、神様の愛によっていつも安心と希望が生まれてくる水源のような場所です。私たちは、外の世界で傷ついても、自分では不安や恐れでいっぱいでも、そこに入れば平和があります。

 でも同時に、門は羊が柵の中に入るためだけでなく、柵の外に出ていくためにも存在します。イエス様は、私たちが柵の中で安全にいられると同時に、柵の外に出て豊かな命を得られるようにもしてくださいました。そこで必要になるのが、次のたとえです。イエス様は良い羊飼いであるというたとえです。11-13節を読んでいきましょう。

C. イエスは良い羊飼い
1. 雇い人との違い (11-13)

11 私は良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。12 羊飼いでなく、自分の羊を持たない雇い人は、狼が来るのを見ると、羊を置き去りにして逃げる。――狼は羊を奪い、また追い散らす。――13 彼は雇い人で、羊のことを心にかけていないからである。

 イエス様は良い羊飼いであるというたとえで最初に言われているのは、イエス様は無責任な雇い人とは違うということです。雇い人は雇い主の羊を代理で世話をしますが、狼が来ると羊を見捨てて逃げます。これに対して、イエス様は、狼が来れば自分の身を犠牲にして羊を守る良い羊飼いです。イエス様にとって羊はご自身よりも大切な存在であり、羊1頭も犠牲になることを望みません。そして、今日最初に読んだ3-4節にあったように、イエス様は私たち一人ひとりの名前を呼んで呼び出し、先頭に立って私たちを豊かな場所に導いてくださる方です。
 ここで考えなければいけないのは、無責任な雇い人や狼というたとえは、実際に何を指しているのかということです。それは、盗人や強盗と同じ存在です。先に読んだ10節には、「盗人が来るのは、盗んだり、屠ったり、滅ぼしたりするためにほかならない」とありました。つまり、彼らは、羊のことを利用して苦しめて捨てる人々です。そんなひどい人はあまりいないと思いたくなりますが、実際は私たち自身が簡単にそうなるものです。
 私たちがイエス様に従って歩みたいと願うなら、私たちは誰でも羊飼いの役割を持っています。自分の身近にいる人たちに神様の愛を伝えて、彼らにも心の中に安全地帯を持ってもらえるように、彼らを守って導く役割です。イエス様という偉大な羊飼いの代理として、一時的に羊飼いの役割を担うということです。でも、私たちはその役割をよく失敗します。羊を守る代わりに傷つけたり、導く代わりに迷わせたりします。また、私たちが尊敬していた人から傷つけられることもあります。私たちは互いに盗人や強盗、雇い人や狼になってしまうのです。
 そういう時、私たちに必要なのは、もう一度、自分の名を呼ぶイエス様の声を聞くことです。自分がイエス様の羊であり、他の誰のものでもないこと、本当の羊飼いはイエス様だけであることを思い起こすことです。私たちは、羊飼い代理の立場にいる時も、他の誰かに守られている羊の立場の時も、イエス様の羊であることに変わりありません。イエス様という羊飼いがいなければ、自分勝手にそれぞれの道を歩んで、自分も仲間も危険な目に遭わせてしまいます。だから、私たちは一人ひとり、イエス様という良い羊飼いの声を聞かなければいけません。
 それでは、今日最後の部分、14-18節を読みましょう。

2. 羊のために命を捨てる羊飼い (14-18)

14 私は良い羊飼いである。私は自分の羊を知っており、羊も私を知っている。15 それは、父が私を知っておられ、私が父を知っているのと同じである。私は羊のために命を捨てる。16 私には、この囲いに入っていないほかの羊がいる。その羊をも導かなければならない。その羊も私の声を聞き分ける。こうして、一つの群れ、一人の羊飼いとなる。17 私は命を再び受けるために、捨てる。それゆえ、父は私を愛してくださる。18 誰も私から命を取り去ることはできない。私は自分でそれを捨てる。私は命を捨てることもでき、それを再び受けることもできる。これは、私が父から受けた戒めである。」

 私たちはなぜイエス様の声を聞き分けることができるのでしょうか?先送りしてきたこの問いを改めて考えたいと思います。イエス様を知るということは、イエス様に知られているということを知ることでもあります。イエス様が自分のことをよく知ってくださっていて、気にかけて、関心を持って、守って、導いてくださろうとしていると知ること、それが、イエス様を知るということです。そして、イエス様がそのような良い羊飼いであると分かるのは、イエス様が十字架でご自分の命を献げられたからです。イエス様は私たちのために命を捨てた羊飼いです。イエス様はご自分の羊を愛して、ご自分の命を捨てて守ろうとされました。驚くべきことは、そのイエス様がこの世界を造られた神様ご自身であったということです。神様は、それぞれ自分勝手に危険な道を歩む私たちを安全地帯に呼び戻し、豊かな土地に導くために、自らの命を献げて呼びかけてくださいました。私は良い羊飼いで、あなたを決して見捨てないと。この声を十字架の上のイエス様から聞くなら、私たちはイエス様の声をいつでも心の中で聞くことができます。

 最後に、16節のイエス様の言葉に注目したいと思います。

3. 「囲い」の外の羊も導き、一つの群れを作る方 (16)

16 私には、この囲いに入っていないほかの羊がいる。その羊をも導かなければならない。その羊も私の声を聞き分ける。こうして、一つの群れ、一人の羊飼いとなる。


 「この囲い」とは何を指すのでしょうか。伝統的には、ユダヤ人以外の異邦人のことを指すと解釈されてきました。そして、それを現代に当てはめて、この囲いとは、すでに救われている人々の群れ、すなわち教会を指すという解釈が一般的です。その解釈は間違っていないと思いますが、誤解を招くと思ったので、私はこの「囲い」というのを心の中の安全地帯としてお話ししてきました。教会に来ているかいないか、クリスチャンかどうかというような表面的なことだけで、イエス様という羊飼いと羊の親密な関係を定義してはいけないと思います。イエス様が望んだのは、一人ひとりの心に神様の愛を届けて、満たすことです。そして、それによって一人ひとりが神様と一対一の関係の中で愛し愛される、相互の親密な関係を持つことです。そのような親密な関係を持っていない多くの羊が、教会の中にも外にもたくさんいます。「そのような羊も私は導きたい」とイエス様は言われています。
 もともといた場所がどんなに離れていようと、イエス様に呼び集められた羊は皆一つの群れに属します。イエス様という一人の羊飼いのもとで、一つの群れです。同じ羊飼いの声を聞いて、同じ方向に導かれる、一つの群れです。現実には私たちはイエス様に従おうとしていても互いに競い合ったり分かり合えなかったりします。でも、本当にそれぞれがイエス様の声を聞こうとするなら、私たちは同じ方向を向いていると思い起こせるはずです。同じ羊飼いに呼ばれて集められて、その声をただ求めて生きていることにおいて、私たちは一致しています。私たちを決して見捨てない、命を捧げて私たちを守ってくださる良い羊飼いの声を、聞きましょう。

(祈り)主イエス様、あなたは私たちのために命を捧げてくださいました。それによって私たちはあなたの愛を知りました。あなたは私のためにこそ死んでくださったのだと、私の名を呼んで共に生きるために死んでくださったのだと知りました。イエス様、どうぞ私たちがあなたの声をよく聞いて、他の声に惑わされず、自分勝手な道を行かず、あなたについていけるように助けてください。あなたの霊で私たちの心を導いてください。私たちは皆、弱る時、間違える時があります。あなたの声を聞きたくても分からなくなる時があります。だから、私たちが互いにあなたの代理となって、あなたの声を届ける役割を果たせますように。主イエス様、あなたのお名前によってお祈りします。アーメン。


メッセージのポイント

イエス様は、羊のために命を献げる良い羊飼いです。イエス様が自分のために命を献げてくださったのだという確信が、私たちの心を神様の愛に結びつけます。また、その愛を知ることによって、偽りの愛を見分けることができるようになります。イエス様は私たちの心の安全地帯でもあります。私たちは時にイエス様によってそこから外に導き出されて旅をしますが、それは豊かな命を約束されている旅です。(詩編23篇とエゼキエル書34章も参照。)

話し合いのために

1. 羊(私たち)はなぜ羊飼い(イエス様)の声が分かるのだと思いますか?

2. イエス様の言われる「羊の囲い」とは何を指すと思いますか?

子どもたち(保護者)のために

イエス様は羊飼いで、私たちは羊だというたとえをそのまま話してみてください。良い羊飼いは羊が狼に襲われそうになれば自分の身を危険に晒してでも羊を守ろうとしますし、良い牧草地も良い水場もよく知っていて、正しくそこに導いてくれます。イエス様も私たちにとってそういう存在であるということを話してください。