誰を信じて生きるのか?

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日曜礼拝・英語通訳付

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誰を信じて生きるのか?

(詩編146)

永原アンディ


今日の詩は146編です。2016年の秋から、ほぼ隔週に詩編を読んできましたが、いよいよ今日から最後の5編を読んでいきます。まず全体を読みます。

1 ハレルヤ。私の魂よ、主を賛美せよ。
2 私は命のあるかぎり、主を賛美しよう 長らえるかぎり、わが神をほめ歌おう。

3 諸侯を頼みにするな 救うことのできない人間を。
4 霊が去れば、彼は土に帰り その日、彼の企ても滅びる。

5 幸いな者、ヤコブの神を助けとし 望みをその神、主に置く人。
6 天と地と海と、そこにあるすべてのものを造り とこしえにまことを守る方。

7 虐げられている人のために裁きを行い 飢えた人にパンを与える方。主は捕らわれ人を解き放ち
8 主は見えない人の目を開き 主はうずくまる人を立ち上がらせ 主は正しき人を愛し
9 主は寄留の者を守る。みなしごややもめは支えるが悪しき者の道は滅びに至らせる。

10 主は、とこしえに王となられる。シオンよ、あなたの神は代々に。ハレルヤ。

1. ハレルヤ/主をほめよ (1, 2)

 この146編から150編までの詩編最後の5編は、前回までのダビデ詩集と同じように、同じ特徴を持ったひとまとまりの小詩集です。その特徴というのはハレルヤで始まり、ハレルヤで終わっているところにあります。英語の聖書では、”主をほめよ (Praise the LORD)” と英語に訳された表記になっているので、「主をほめよ」で始まり「主をほめよ」で終わっているということになります。

 ハレルヤのハレルは「賛美しなさい」、ヤは、神様の名、ヤハウェの短縮形です。 出エジプト記の3章に、モーセが神様から直接この名前を聞いたことが記されています。現代語の聖書では「私はいる」(I AM WHO I AM)と訳されている名前です。   

 ただユダヤ教は、十戒にある「神様の名をみだりに唱えてはならない」という戒めから口にすることを避けて、主(アドナイ)という言葉に言い換えてきました。だからハレルヤは「“主”をほめよ」なのです。

 しかし「主」では表現しきれない意味が「ヤハウェ」にはあります。この名は他の神々とは決定的に違うことを表しています。「私はいる」 とは全く名前らしくない名前です。出エジプト記のモーセとのやりとりで、神様は自分からヤハウェと名乗ったわけではありませんでした。モーセが「“その名は何か?”と民に問われた時に私はどう答えたら良いのですか」とたずねたので、神様は「“私はいる”という方が私をあなた方に遣わされたのだと言いなさい」と答えたのです。私には、神様の「あなた方に名前で呼ばれる理由はない」という意味の皮肉のように思えます。

 皆さんは、まだ名前のない何かに名前をつけたことがあるでしょうか?人の名は普通、親がつけるでしょう。ペットの名は飼い主がつけます。自分の車に名前をつける人もたまにはいます。それでは、神様に名前があるとしたら誰がそれをつけたのでしょう。創造主には親も主人もいません。創造主が“全て”をつくられたのです。 

だいたい、名前があるということは他の同じような存在と区別するためです。 しかし神様にはそのような存在はなく、あらゆる存在を超え、あらゆる存在を作られ、あらゆる存在の主です。クリスマスが近くなるとヘンデルのオラトリオ・メサイアのメロディーを耳にすることが多いのですが、中でもハレルヤコーラスは、多くの人の耳に馴染みがあると思います。私たちがハレルヤという言葉を聞く時、それは「あらゆる存在を超え、あらゆる存在を作られ、あらゆる存在の主をほめたたえなさい」と呼びかけられていることを思い起こしてください。

2. 誰を信じて生きるのか (3-6)

3-6節をもう一度読みます。

3 諸侯を頼みにするな救うことのできない人間を。
4 霊が去れば、彼は土に帰りその日、彼の企ても滅びる。
5 幸いな者、ヤコブの神を助けとし望みをその神、主に置く人。
6 天と地と海と、そこにあるすべてのものを造りとこしえにまことを守る方。

 モーセを通して、ご自身をあらゆる存在をこえた創造主であると示した神様を信じたイスラエルの民でしたが、その信頼はとても脆いものでした。その信頼と不信の揺れは、出エジプト物語から国土を完全に失うときまでずっと続きました。

 サムエル記上8章に、イスラエルの民が預言者サムエルに王を任命してくださいと求めたことが記されています。それ以前のイスラエルには、王のように権力を集中して持つ支配者はいなかったのです。しかし民は、王が絶対的な権力をもち強力な軍隊を持つ周りの国々を見て、イスラエルにも王が必要だと考えたのです。

 その要求に対する神様の言葉を聞いてみましょう。

イスラエルの長老たちは全員集まり、ラマのサムエルのもとに来て、彼に言った。「あなたはすでに年を取られ、ご子息たちはあなたが歩んだように歩もうとはしていません。ですから、今、他のすべての国々のように、我々を裁く王を立ててください。」 裁きを行う王を自分たちに与えよとの彼らの言い分は、サムエルの目に悪と映った。そこでサムエルは主に祈った。主はサムエルに言われた。「民の言うままに、その声に従いなさい。民が退けているのはあなたではない。むしろ、私が彼らの王となることを退けているのだ。彼らをエジプトから導き上ったその日から今日に至るまで、彼らのすることといえば、私を捨てて、他の神々に仕えることであった。あなたに対しても同じことをしているのだ。(サムエル記上8:4-8)

 神様を王とするということは、どのようなことなのでしょうか?神様は人間の王のように目に見える形で君臨しているわけではありません。サムエル記はこの後の部分で、民衆が王によってどれほど苦しめられるかということを警告しています。

 神様の前には、すべての人が罪人です。大きな権力を持てば堕落しない人はいません。権力が集中すれば多くの不幸が生み出されます。今でもそのような国々が、内外の人々を苦しめています。一人一人が対等に共同の主権者であるという民主主義の理念は、私たちの持つ罪の性質によって、いまだに十分に実現しているわけではありませんが、それこそが、私たち一人一人を愛していてくださる神様の意思に沿ったものです。

 神様が、王を立てることに否定的であったのは、結局それが偶像礼拝のように神様に背を向けることになることを知っておられたからです。神様ではない誰かを崇拝する者は、神様の目から見れば「私を捨てて、他の神々に仕えること」なのです。

 このことは専制君主としての王を持たない時代に暮らす私たちと関係ない話ではありません。ここに記されていることは、神様に作られた人を信頼するのではなく、神様を信頼して生きることこそ神様が私たちに求める幸いな生き方だということです。

 

 民主主義社会の中で、神様に主権を委託された者としての一人一人の役割は投票することだけではありません。民主的に選ばれた政府であっても、その政策によく考えることなく従ってしまうなら、やはり神様を捨てて、虚しい偶像に仕えることになってしまいます。そこで、私たちに求められていることは、真の主権者・王である神様の意思を、その主権を委託されて行使する者たちとして行なってゆくことなのです。それが神様を王として生きるということです。しかし私たちはどのようなことをしていけば良いのでしょうか。

 そのガイドラインがこの後の節に記されています。読んでみましょう。

3. 私たちの王の基本的政策 (7-10)

7 虐げられている人のために裁きを行い 飢えた人にパンを与える方。主は捕らわれ人を解き放ち
8 主は見えない人の目を開き 主はうずくまる人を立ち上がらせ 主は正しき人を愛し
9 主は寄留の者を守る。みなしごややもめは支えるが悪しき者の道は滅びに至らせる。

10 主は、とこしえに王となられる。シオンよ、あなたの神は代々に。ハレルヤ。

 神様を自分の王・主と認めるなら、この基本的な方針を世に実現していくことが、王子、王女である私たちの生き方です。

 差別されている人々、虐待されている人々、飢餓に苦しむ人々、不当に投獄された人々の救い、解放のために、一人一人ができることには限界がありますが、できることはたくさんあります。障がいを持つ人々が不自由なく生活できるように、突然の困窮に陥った人がさまざまなセーフティーネットを用いることができるような社会の仕組みを作ることも神様に委ねられた私たちの仕事です。

 一方で、私たち自身もまた助けを必要としている者でもあるということ忘れるわけにはいきません。「障害者と相互依存の神学」についてのメッセージで教えられてきたように、わたしたちは、助ける側と助けを必要とする側のどちらかに二分されているわけではありません。私たちの誰もが、助ける存在であるとともに助けを必要とする存在です。与えることのできる存在であり、受ける必要のある存在です。

 神様の求める社会はそのような社会です。そして教会はその社会にあって、神様がその理想を示すモデルとして置かれたコミュニティーなのです。キリストの体とされる教会は世界に一つしかありません。しかし、それは世界各地に目に見えるコミュニティーとして存在しています。セブンイレブンは一つでも店舗はそれぞれの場所に存在するのと同じです。ただ、各地に置かれた目に見える教会は、セブンイレブンとは違って、どれもがユニークな存在です。

 皆さんがここにいる理由は、キリストの体の一部であるユアチャーチが皆さんを必要としており、同時に皆さんがユアチャーチを必要としているということにあるのです。

(祈り)神様、あなたが私たちの王、主となってくださってありがとうございます。私たちは、被造物にではなく、創造主であるあなたに信頼を置いて歩みます。折に触れて私たちの心に語りかけて、あなたの意思を教えてください。するべきこと、するべきではないことを教え、実行する力を与えてください。 
わたしたちの主、イエス・キリストの名によって祈ります。

要約

神様に信頼をおくなら失望に終わることはありません。それは人を全く信頼するべきではないということではなく、どんなに頼りになりそうな人であっても、人間には限界があることを知るべきだということです。 それを知っているなら、私たちは自分の期待に応えられなかった人を赦すことができます。神様に信頼をおくということは、その神様の意思を行う者として生きるということです。 神様の意思とは愛すること、救うこと、助けることです。 

話し合いのために

1. 「ハレルヤ」はどのような意味を持った言葉ですか?

2. なぜ神様を信頼して生きる人は幸いなのですか?

子どもたち(保護者)のために

難しい詩ではないので、子供達とともに読みましょう。そして、人間を頼ることと神様に頼ることの違いを話してみてください。子供は大人に頼って生きていますが、大人にも限界があること、人間ではなく神様に頼るべきことを話してください。そして神様に従って歩むとは、実際どのようなことなのか、自分の言葉で子供達に伝えてみてください。