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見せかけの敬虔深さよりも心からの誠実さを持とう
(ヨハネによる福音書 10:22-39)
池田真理
今日はヨハネによる福音書の続きで、10:22-39を読んでいきます。この箇所は、イエス様とユダヤ人たちの間の論争を記録しています。これまでも繰り返されてきたやりとりですが、この箇所は改めて私たちに、神様に誠実に向き合うように呼びかけていると思います。神様が私たちに求めるのは、私たちが人から見て立派な信仰者になることではありません。神様が私たちに求めるのは、私たちが自分自身の弱さと向き合い、神様に対して疑問や不満を持っていても、そのままで神様の前に出ていくことです。
それでは、いつものように少しずつ読んでいきましょう。まず22-27節です。
A. 良い羊飼いの愛 (22-30)
1. イエス様の羊であるとは? (25-27)
22 その頃、エルサレムで神殿奉献記念祭が行われた。冬であった。23 イエスは、神殿の境内でソロモンの回廊を歩いておられた。24 すると、ユダヤ人たちがイエスを取り囲んで言った。「いつまで私たちに気をもませるのか。もしメシアなら、はっきりそう言いなさい。」25 イエスはお答えになった。「私は言ったが、あなたがたは信じない。私が父の名によって行う業が、私について証しをしている。26 しかし、あなたがたは信じない。私の羊ではないからである。27 私の羊は私の声を聞き分ける。私は彼らを知っており、彼らは私に従う。
ここでは、前回の箇所に出てきた、羊飼いのたとえがまた使われています。イエス様は良い羊飼いであり、私たちはその羊であるというたとえです。ただ、前回の箇所の注目は良い羊飼いと悪い羊飼いの対比でしたが、ここでの注目点は、イエス様の羊とそうではない羊がいるということです。そして、イエス様の羊はイエス様の声を聞き分けてイエス様に従っていくけれど、そうでない羊はイエス様の声が分からないからイエス様に従わないと言われています。
イエス様の羊であるとはどういうことなのでしょうか?最初から私たちはイエス様の羊かそうでないかで運命が決められているということでしょうか?私はそうではないと思います。私たちは、イエス様の羊かどうかが最初から決められているのではなく、イエス様の羊であることを望む者がイエス様の羊になるのだと思います。イエス様は私たち全てがご自分の羊になるように招いてくださっていますが、その招きに応えるかどうかは私たちの判断次第です。
ただ、注意が必要なのは、その私たちの判断にも神様の力が働くという点です。私たちがイエス様の声を聞けるとしたら、それは私たち自身の「聞きたい」という願いと、その願いを私たちに与えてくださる神様の力が両方あって可能になります。その二つは切っても切り離せない関係です。イエス様を信じることは、私たちだけの力では不可能ですが、同時に、何の願いも渇きもない人の心には神様の力も働かないと思います。
従って、イエス様が「あなたがたは私の羊ではない」と言われたのは、「あなたがたは私を必要としていない」という意味だと思います。繰り返しになりますが、これはイエス様が彼らを拒絶しているのではなく、彼らがイエス様を拒絶しているということです。このことに関してはまた後でさらにお話ししたいと思います。
28-30節のイエス様の言葉に進みましょう。
2. イエス様は羊を決して手放さない (28-30)
28 私は彼らに永遠の命を与える。彼らは決して滅びず、また、彼らを私の手から奪う者はいない。29 私に彼らを与えてくださった父は、すべてのものより偉大であり、誰も彼らを父の手から奪うことはできない。30 私と父とは一つである。」
ここには、イエス様の強い願いが表れていると思います。イエス様は、私たちが罪と悪の中で滅んでしまわないように、私たちを救い出すためにこの世界に来られました。私たちが罪や悪に支配されているということは、私たちが悪魔に奪われているということを意味します。イエス様は、悪魔にそんなことはさせず、悪魔の力もご自分の力には遠く及ばないのだということを、十字架を通して示されました。良い羊飼いの元を自ら飛び出して、さまよい、散り散りになった私たちを呼び戻すために、イエス様は十字架で命を献げられたのです。
ここで一つ、本文の問題に触れておきたいと思います。29節は原文が二通りあります。一つは、私たちが今使っている日本語の協会共同訳と英語のNIVが訳している通りで、「私に彼らを与えてくださった父は、すべてのものより偉大である」という文です。もう一つは、日本語では新共同訳が採用していたのですが、「私の父が私にくださったものは、すべてのものより偉大である」という文です。つまり、「父が偉大である」のか、「羊が偉大である」のかの違いです。神様が偉大であるということは誰も反対しませんが、羊つまり私たちが偉大であるということには反論が多くあり、結果的に多くの翻訳で神様が偉大であるという文が採用されてきました。
ここで私が結論を出すことはできませんが、私はどちらにしてもここでの強調点はイエス様と羊の強い結びつきだと思います。神様にとって私たち一人ひとりは、「あなたは私の目に貴く、重んじられる」“You are precious and honored in my sight”(イザヤ43:4)と言われている存在です。だから、私たち自身が神様のもとを離れたいと願わない限り、神様と私たちを引き離せるものは何もないのだということを、イエス様ご自身が誇っていらっしゃるのではないかと思います。
パウロがこのように言っている箇所があります。
私は確信しています。死も命も、天使も支配者も、現在のものも将来のものも、力あるものも、高いものも深いものも、他のどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から私たちを引き離すことはできないのです。(ローマ8:38-39)
この言葉をイエス様が逆の立場から語って下さっているのが、今日の箇所だと思います。イエス様という良い羊飼いは、ご自分を必要とする羊の一頭も他の誰にも奪わせないし、引き離させないし、手放しません。そして、永遠に共にいられるように守ってくださいます。それが、良い羊飼いの愛です。
それでは、このようなイエス様の愛に対して、私たちはどのように応答できるのでしょうか?後半を読んでいきましょう。まず31-36節です。
B. 私たちの応答 (31-39)
1. 見せかけの敬虔深さ (34-36)
31 ユダヤ人たちは、イエスを石で打ち殺そうとして、また石を取り上げた。32 イエスは言われた。「私は、父から出た多くの善い業をあなたがたに示した。そのどの業のために、石で打ち殺そうとするのか。」33 ユダヤ人たちは答えた。「善い業のことで、石で打ち殺すのではない。神を冒涜したからだ。あなたは、人間なのに、自分を神としているからだ。」34 イエスは言われた。「あなたがたの律法に、『私は言った。あなたがたは神々である』と書いてあるではないか。35 神の言葉を託された人たちが、『神々』と言われ、そして、聖書が廃れることがないならば、36 父が聖なる者とし、世にお遣わしになった私が、『私は神の子である』と言ったからとて、どうして『神を冒涜している』と言うのか。
私たちは、信仰を持っていてもいなくても、神様の前ではひとしく罪人であるということを、時々思い起こさなければいけないと思います。物事を常に正しく判断できる人はいませんし、判断できてもしばしば行いが伴いません。それは私たちの力ではどうしようもないことで、神様が私たちを赦して助けてくださらなければ、私たちは滅びるしかありませんでした。
ですから、私たちが救われたのは、ただ神様の憐れみによります。私たちが神様に愛されているのは、神様が私たちを罰するよりも共に生きる道を選んでくださったからです。
そのことを忘れると、私たちは自分の力で神様の愛を手に入れたと勘違いしたり、自分は他の人よりも優れているから神様が選んでくださったと誤解したりするようになります。そして、神様に愛されている自分は正しく、自分と同調しない人々は間違っているのだと思い上がるようになります。しかも、そういう時、私たちは自分は敬虔深くて立派な信者だと思い込んでいます。イエス様は神を冒涜していると批判したユダヤ人たちは、まさにそのように思い上がっていました。
彼らに対するイエス様の言葉をもう一度読みます。34-36節です。
あなたがたの律法に、『私は言った。あなたがたは神々である』と書いてあるではないか。神の言葉を託された人たちが、『神々』と言われ、そして、聖書が廃れることがないならば、父が聖なる者とし、世にお遣わしになった私が、『私は神の子である』と言ったからとて、どうして『神を冒涜している』と言うのか。
残念ながら、私はこのイエス様の説明はあまり説得力がないと思います。イエス様はここで、旧約聖書の中で祭司や預言者たちが神様の代理人や神様の代弁者として神様と同等に扱われている例を念頭に置いています。そして、「彼らが神々と呼ばれているのだから、私が自分のことを神と言っても問題ないはずだ」と主張されています。でも、イエス様がご自分のことを神の子であると言われる時、それは預言者のような神様の代弁者であることにとどまらず、ご自分は神様の言葉そのものであり、神様ご自身であるということを意味しています。ですから、結局、次元の違う話です。
ただ、それでもイエス様が言おうとされていたポイントの大切さは変わりません。イエス様が言おうとされていたのは、「神を冒涜しているのは私ではなくあなたたちの方だと知りなさい」ということです。イエス様のことを批判していた人たちは、自分たちが正しいと思い上がって、神様のことを理解せず、彼らこそ神様を冒涜していました。私たちの傲慢さと見せかけの敬虔深さは、神様を擁護するどころか、神様を冒涜し、傷つけ、排除する結果になるということです。
だから、イエス様は語り続けました。残りの37-39節を読みます。
2. 誠実に神様を知ろうとする心 (37-38)
37 もし、私が父の業を行っていないのであれば、私を信じなくてもよい。38 しかし、行っているのであれば、私を信じなくても、その業を信じなさい。そうすれば、父が私の内におられ、私が父の内にいることを、あなたがたは知り、また悟るだろう。」39 そこで、ユダヤ人たちはまたイエスを捕らえようとしたが、イエスは彼らの手を逃れて、去って行かれた。
イエス様は、イエス様の行いが神様の意志に適うものかどうか、「あなたたちは自分で判断できるはずだ」と語りかけています。そして、私たちが本当に神様の意志が何かを真剣に追い求めているなら、イエス様が神様の意志を行っていると分かるはずだし、イエス様と神様が一体であることも究極的に理解できるだろうと言われています。
今日最初の部分で、イエス様の羊であるとは、「そうありたい」と願う私たちの意志と、その願いを私たちに与える神様の力が両方働いていることを指すとお話ししました。ここでも同じことが言われています。イエス様のことを本当に理解するためには、イエス様の言葉と行いが神様の喜ばれるものかどうか、自分でよく調べ、考え、判断しなければいけません。そのプロセスにも神様の助けが必要なのですが、私たちに神様のことを知ろうとする誠実さがなければ、そのプロセス自体が始まりません。
私たちは、一体どうやって、神様が何を喜ばれ、何を悲しまれると知るのでしょうか?イエス様が本当にこの世界を造られた神様ご自身であると、どうやって判断できるのでしょうか?これは、実際本当に不思議なことです。私たちだけの力では絶対に不可能なことです。でも、私たちが自分の小ささを認め、ありのままの弱い姿で、自分自身と神様と向き合うとき、見えてくるものがあります。そして、その中でイエス様の十字架の意味が、迫ってくる時があります。迷い出た羊の一頭を追いかけて誰にも奪わせまいとする良い羊飼いの愛が、自分に注がれているとリアルに分かる時があります。それは、私たちの「あなたは誰ですか、どこにいるのですか」という叫びと、神様の「私はここにいる。私のもとに来なさい」という呼びかけが、互いを見つけ合って起こります。だから、私たちにできることは、飾ることのないありのままの自分の姿で、疑問や不安をそのままで、神様はどういう方なのか、求め続けることだけです。
今日皆さんは神様の前でどのような心でいらっしゃるでしょうか?どうぞ、ご自分のありのままの心で、情けないところも誇らしいところもそのままで、喜びも悲しみも怒りもそのままで、神様の前に出ていってください。そして、ご自分の思いを打ち明けながら、神様がなんとおっしゃっているのか、心の中で耳を澄ましてみてください。それが私たちにできるすべてであり、それこそが私たちの真の礼拝です。
(祈り)主イエス様、あなたはあなたのことを忘れて自分勝手な道を歩む私たちを追いかけてきて、安全な場所に連れ戻してくださる良い羊飼いです。どうぞ、あなたの声をもっとよく聞かせてください。あなた以上に頼りになる方はいません。どうか、私たちが自分の感情や考えに支配されず、他人の意見にうろたえず、あなたがなんとおっしゃっているのか、心の中でよく聞けるように助けてください。それには聖霊様の助けが必要です。どうぞ一人ひとりにあなたの霊を豊かに注いでください。主イエス様、あなたのお名前によってお祈りします。アーメン。
要約
神様がどんな方であるのか、私たちは誰も完全に知ることはできません。そのことを忘れて、神様のことを全部知った気になると、私たちは大きな過ちを犯します。大切なのは、神様の思いを知るために、誠実に神様に向き合うことです。それは私たちの力で正しい答えを導き出すという意味ではなく、イエス様は私たちの良い羊飼いであるということを思い起こして、「導いてください」と求めることを意味します。私たちがそう求める限り、イエス様の愛から私たちを引き離せるものはありません。
話し合いのために
1. イエス様の羊であるために私たちができることは何ですか?
2. 神様が何を喜ばれるのか、何を悲しまれるのか、私たちはどうやって知りますか?
子どもたち(保護者)のために
神様が何を喜ばれるのか、何を悲しまれるのか、私たちはどうやって知ることができるでしょうか?一緒に話し合ってみてください。そして、一番重要なのは、そのことを一人ひとりが自分でよく考えて、誠実に神様に向き合うことだと教えてください。神様の思いを取り違えることは問題ではなく、分からないときにはよく考えて、間違えたときには素直に間違いを認めて、神様に助けを求めることが重要です。