聾者の癒しの物語の光と影

Photo by Lawrence OP on Flickr
見る
日曜礼拝・英語通訳付

❖ 聞く (メッセージ)

❖ 読む


聾者の癒しの物語の光と影


シリーズ「障害者と相互依存の神学」第5回 (マルコによる福音書 マルコ7:31-37)

池田真理

 今年の7月からキャシー・ブラックさんの本を読んで、障害を持つ人の視点から聖書を読み直すシリーズを始めましたが、今日はその5回目です。今日取り上げる箇所はマルコによる福音書7:31-37です。この箇所は、聖書の中で唯一、耳の聞こえない人をイエス様が癒やすエピソードです。聖書にこの箇所しかないからこそ、この箇所は聴覚障害を持つ人たちにとって重要な意味を持ってきました。それは良い意味でも悪い意味でもです。今日は全体を読んでから、最初にまずこの箇所に関する誤解についてお話ししていきたいと思います。後半にもお話ししたいことがたくさんあるので、ポイントをなるべく簡潔にまとめていきたいと思います。それでは読んでいきましょう。

31 それからまた、イエスはティルスの地方を去り、シドンを経てデカポリス地方を通り抜け、ガリラヤ湖に来られた。32 人々は耳が聞こえず口の利けない人を連れて来て、その上に手を置いてくださるようにと願った。33 そこで、イエスはこの人だけを群衆の中から連れ出し、指をその両耳に差し入れ、それから唾をつけてその舌に触れられた。34 そして、天を仰いで呻き、その人に向かって、「エッファタ」と言われた。これは、「開け」という意味である。35 すると、たちまち耳が開き、舌のもつれが解け、はっきり話すようになった。36 イエスは人々に、このことを誰にも話してはいけない、と口止めをされた。しかし、イエスが口止めをされればされるほど、人々はかえってますます言い広めた。37 そして、すっかり驚いて言った。「この方のなさったことはすべて、すばらしい。耳の聞こえない人を聞こえるようにし、口の利けない人を話せるようにしてくださる。」

A. この箇所に関する誤解
1. 口話主義運動の根拠?

 この物語では、イエス様がこの男性の耳と口を「開く」ことによって、この男性は聴こえるようになり話せるようになりました。このことから、耳の聞こえない人を訓練して、話せるようにさせることが神様の意志なのだという誤解が生まれました。手話を否定する口話主義です。口話主義運動では、聾者に手話を用いることを禁止し、唇の動きを読んで相手の言っていることを理解し、声を出すことによって話すように強制しました。時には身体的虐待を伴ったそうです。でも、口話を習得することが不可能な聾者はたくさんいました。口話主義運動は、手話を一つの言語として認めない人間による一方的で乱暴な取り決めでした。それは神様の意志でも何でもなく、この箇所の解釈として間違っています。

2. 聞こえないことは罪?(ローマ10:17)

 それから、この箇所全体を比喩的にとらえ、聞こえないことを罪の状態にあることと同じ意味にとらえる解釈も間違っています。この解釈の仕方は、ローマ10:17でパウロがこのように言っていることにも関連しています。

(ローマ10:17) 信仰は聞くことから、聞くことはキリストの言葉によって起こるのです。

この言葉からも、神学者の間では伝統的に、「神様の言葉を聞く耳を持つ」ということと「信仰を持つ」ことが深く関連づけられて考えられてきました。

 でも、そのような比喩的解釈は、身体的に耳が聞こえない状態と霊的に罪の状態にあることを同列に並べることになり、聾者に対して差別的です。聾者は身体的に聞くことができない状態にありますが、罪とは神様の言葉を聞くことを拒否している状態を指します。聾者には聞く・聞かないの選択肢はありませんが、罪とは、聞けるのに聞かない選択をしていることです。その二つは本質的に違います。

 また、この物語を比喩的にしかとらえないのは、ここに登場する聾者の男性の人格を無視することになり、彼をイエス様のもとに連れてきた人々の存在も無視することになります。この物語には、イエス様がどのように彼らに関わったのか、状況が詳細に記されていて、その意味を見過ごすことは私たちにとって大きな損失だと思います。

 それでは、この物語は私たちに何を語っているのでしょうか?ここからは、この物語の光の部分を考えていきたいと思います。

B. イエス様が下さる救いとは
1. 民族や人種にとらわれない神様の愛

 まず最初に注目したいのは、この物語の場面です。31節には様々な地域の名前が出てきますが、これらは全て異邦人の地です。また、マルコ福音書全体の中でも、この箇所はイエス様がユダヤ人の住む地域を一旦離れて、異邦人の住む地域に入られた時期の中にあります。この時期の特徴は、ユダヤ人からの反発とは対照的に、異邦人の多くがイエス様のことを信じたということが報告されている点です。今日の箇所で、聾者の癒しを見た人々がイエス様のことを讃えて、口止めされてもイエス様のことを言い広めたという結末は、神様の愛がユダヤ人という民族や人種にとらわれずに届いたということを示しています。イエス様は、民族や人種に関係なく誰とでも関わり、病気を癒し、悲しみを癒しました。イエス様の死後、そのことは弟子たちを通して全世界に伝えられました。今日の物語はその先駆けとなる出来事でした。

2. あらゆる苦しみからの解放の約束(イザヤ書35章)

 37節の人々の言葉をもう一度読みます。

この方のなさったことはすべて、すばらしい。耳の聞こえない人を聞こえるようにし、口の利けない人を話せるようにしてくださる。

人々は、イエス様がなさったことは全て素晴らしいと讃えていますが、これは創世記で神様がこの世界を造り終えた時に言われた言葉にリンクしています。神様の造られたものは「全て良かった」のです。イエス様は、神様がお造りになったこの世界を、私たち人間が歪めてしまったので、再び神様の望まれた通りの良い世界に造り直すためにこの世界に来られました。イエス様が来られたのは、その新しい時代の到来でした。

 そして、イエス様が回復させようとしていた世界とは、「耳の聞こえない人が聞こえるようになり、口の利けない人が話せるようになる」という世界でした。実は今日の箇所はイザヤ書35章と深く関わりがあり、イザヤ書35章を読むと、イエス様が目指していた世界がどういうものか分かります。読んでみましょう。

(イザヤ書35章)5 その時、見えない人の目は開けられ/聞こえない人の耳は開かれる。6 その時、歩けない人は鹿のように跳びはね/口の利けない人の舌は歓声を上げる。荒れ野に水が/砂漠にも流れが湧き出る。7 熱した砂地は池となり/干上がった土地は水の湧く所となる。ジャッカルが伏していた所は/葦やパピルスが茂る所となる。8 そこには大路が敷かれ/その道は聖なる道と呼ばれる。汚れた者がそこを通ることはない。それは、その道を行く者たちのものであり/愚かな者が迷い込むことはない。9 そこに獅子はおらず/飢えた獣は上って来ず/これを見かけることもない。贖われた者たちだけがそこを歩む。10 主に贖い出された者たちが帰って来る。歓声を上げながらシオンに入る。その頭上にとこしえの喜びを戴きつつ。喜びと楽しみが彼らに追いつき/悲しみと呻きは逃げ去る。

ここには、様々な障害や病が癒やされ、弱者が虐げられることなく、正義が実現される世界が描かれています。そして、あらゆる苦しみと悲しみが取り除かれ、神様が共におられる喜びが世界を満たすとあります。それが神様が本来望まれていた世界であるということを、イエス様は実際に行動で示してくださいました。神様は私たちが障害や病気や不正義の中で苦しむことを望んではおられないのです。

 でも、現実として、障害も病気も不正義もこの世界からなくなっていません。イエス様と直接触れ合うことのできた、イエス様と同時代の人たちを除いて、私たちの多くはそれぞれの苦しみを癒やされないままで生きています。癒やされないということは、神様の愛が届いていないということなのでしょうか?病気や障害は、神様の罰または無関心の表れなのでしょうか?そうではありません。苦しみの残っているところは、そこに神様の愛がより一層よく現れるためです。そしてそれは、神様が私たちに互いに愛し合う奇跡を起こしてくださることによって可能になります。

3. 私たちの互いに対する愛を用いる

 32節をもう一度読みます。

人々は耳が聞こえず口の利けない人を連れて来て、その上に手を置いてくださるようにと願った。

この聾者の男性は、人々に連れてこられたとあります。その人々はイエス様に、彼の上に手を置いてくださるように、これは祝福の動作を示すので、彼を祝福してくださるように頼みました。

 これに対してイエス様は、彼らに頼まれた以上のことをしました。彼の上に手を置いて祝福するのではなく、彼の耳にふれ、舌に触れ、祈り、彼の耳を聞こえるようにしたのです。キャシー・ブラックは面白いことを指摘しています。「エッファタ」というイエス様の声は、この聾の男性自身には聞こえなかったはずなので、イエス様はこれを周りにいた人々のために言ったのだというのです。この男性をイエス様のところまで連れてきた人たちに、神様は私たちを苦しみから解放してくださる力を持つ方であるということを、明確に証明するためです。

 福音書を読んでいると、障害を持つ人や病気に苦しむ人本人に代わって、その家族や友人がイエス様に癒しを求めたという話がたくさんあります。そのことはあまり注目されることが少ないように思いますが、家族や友人を思う私たちの心を神様は用いられるということを忘れてはいけないと思います。神様は、ご自分の愛を実現させるために、私たちが互いを愛する心を確かに用いられます。

 ここにも、キャシー・ブラックの伝える「相互依存の神学」があります。障害であれ病気であれ、私たちの弱さは、互いに依存する中で神様の愛が実現されるためにあります。それは、神様が私たちに可能にしてくださる奇跡です。

4. 無条件に注がれる愛

 最後に、この聾の男性とイエス様の関係にも触れておきたいと思います。

 読んできた通り、この箇所ではこの男性本人の意志というのは全く分かりません。人々は彼を連れて来ましたが、そこに彼の意志があったのかどうか分かりません。耳を癒された後のこの人自身のリアクションも記録されていません。これでは、彼が周囲にされるがままのとても受け身の印象を受けます。本当にそんな受け身な人だったのか、私たちは決めつけるべきではないと思います。もしかしたら、人々が善意だとしても彼の意志を無視していたのかもしれないし、マルコが彼に注目せず記録しなかったのかもしれません。

 それに対して、イエス様がこの人にしたことの記録はとても具体的で詳細です。もう一度その状況を読んでみましょう。

そこで、イエスはこの人だけを群衆の中から連れ出し、指をその両耳に差し入れ、それから唾をつけてその舌に触れられた。そして、天を仰いで呻き、その人に向かって、「エッファタ」と言われた。これは、「開け」という意味である。すると、たちまち耳が開き、舌のもつれが解け、はっきり話すようになった。

このように、イエス様のこの男性に対する態度はとても個人的で親密でした。彼自身がとても受け身だったとしても、人々が彼をどう扱っていようと、イエス様は彼に直接触れて彼を癒されました。ここには、イエス様の無条件の愛が表れています。極端なことを言えば、たとえこの男性がこの後でイエス様のことを忘れてしまうとしても、イエス様は同じことをされたでしょう。彼と彼の周りの人々が、彼の耳が聞こえないという苦しみを嘆いているなら、イエス様はそこから解放してあげたいと思ってくださる方です。イエス様は、彼を癒すために、彼や人々に何の条件も見返りも求めませんでした。信仰ですら条件ではありませんでした。イエス様は一度も誰にも、「私を信じたら癒してあげよう」とは言われませんでした。イエス様が十字架で死なれたのは、誰もイエス様のことを理解する前でした。私たちは、私たちが信じるより前にイエス様が先に私たちを愛してくださったので、イエス様を信じています。

 先に、神様は私たちが互いに愛し合う心を用いてご自分の愛を実現されるとお話ししましたが、それが可能なのは、何よりもまず、神様ご自身が私たち一人ひとりのことを愛してくださっているからです。私たちが互いに愛し合う前に、神様が私たちを無条件に愛しておられるので、私たちは恐れることなく互いのために神様に助けを求めることができます。今日の物語は、そのことも私たちに教えてくれています。

信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残ります。その中で最も大いなるものは、愛です。(1コリント13:13)

一人の聾者の男性の癒しの物語は、神様の愛と私たちの互いに対する愛が実現することのできる新しい世界の姿を示しています。

(祈り) 主イエス様、どうか私たちにあなたの無条件の愛をもっとよく教えてください。私たちにはそれぞれに抱えている痛みや問題がありますが、あなたがそれらをすべて知っておられ、必ず良い道を開いて歩ませてくださると信じることができるように助けてください。また、具体的な誰かの存在を通しても、私たちを励ましてください。互いに互いの弱さを担い合う勇気を与えてください。互いを理解しようとする謙虚さを与えてください。主イエス様、あなたのお名前によってお祈りします。


要約

<キャシー・ブラック著「癒しの説教学−障害者と相互依存の神学」を読むシリーズ第5回>この箇所は、聖書の中で唯一の聾者の癒しの物語として、聾者に手話を禁じて口話を強制する根拠として用いられてきた歴史があります。身体的に耳が聞こえないということを神様の言葉を聞こうとしない罪の象徴として比喩的に理解することも、聾者に対して差別的です。この箇所は、障害を含めたあらゆる困難から私たちを解放することが神様の意志であることを証明しています。また同時に、この箇所が教えているのは、神様の愛が実現するために必要なのは、個人の信仰よりも私たちが互いに愛し合う心を持っていることであるということです。

話し合いのために

1. この箇所が聴覚障害者に対して抑圧的に解釈されてきたのはどういう点ですか?
2. 癒やされることのない病気や障害を持つ人に神様の愛が実現するとはどういうことですか?

子どもたちと保護者の皆さんのために

注目していただきたいのは、このエピソードでは、耳の聞こえない人をイエス様のところに連れてきたのは「人々」だった点です。彼らはイエス様に「この人の上に手を置いて」(=この人を祝福して)くれるようにお願いしただけでしたが、イエス様は彼らの願い以上のことをして、この人に直接触れて、彼を癒しました。彼らがこの人の友人だったのか親族だったのかも分かりませんが、イエス様は彼らの彼に対する愛を用いられました。神様の愛は私たちを通して実現されるということの例です。