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日曜礼拝・英語通訳付
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暗闇の中で輝く
ゲスト・スピーカー:ウェイン・ジャンセン
1 初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。2 この言は、初めに神と共にあった。3 万物は言によって成った。言によらずに成ったものは何一つなかった。4 言の内に成ったものは命であった。この命は人の光であった。5 光は闇の中で輝いている。闇は光に勝たなかった。6 一人の人が現れた。神から遣わされた者で、名をヨハネと言った。7 この人は証しのために来た。光について証しをするため、また、すべての人が彼によって信じる者となるためである。8 彼は光ではなく、光について証しをするために来た。9 まことの光があった。その光は世に来て、すべての人を照らすのである。10 言は世にあった。世は言によって成ったが、世は言を認めなかった。11 言は自分のところへ来たが、民は言を受け入れなかった。12 しかし、言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には、神の子となる権能を与えた。13 この人々は、血によらず、肉の欲によらず、人の欲にもよらず、神によって生まれたのである。
私はウィスコンシン州のある地方で育ったのですが、そこでは私の父方と母方両方の祖父が酪農を営んでいました。1960年代の酪農は現在のものと比べると、いたってシンプルでした。今、ウィスコンシンの牧場や私の先祖が元々いたオランダの牧場を訪ねたら、一つの牧場の乳牛の群れは数百頭にも上るでしょう。私の祖父の牧場には10頭から15頭くらいの牛しかおらず、見た目の違いから一頭一頭を簡単に見分けることができました。それぞれのことを親しみを持って知っていたので、名札の必要はありませんでした。
ただ、一つだけ、昔も今もほとんどの牧場で変わらないことがあります。それは、牛たちは日に2回、12時間ごとに、搾乳されなければいけないということです。私の祖父は朝6時と夜6時に搾乳していました。牛たちは1日のほとんどの時間を草原で過ごし、搾乳のためだけに小屋に戻ってきます。私が何回かやったことのある仕事の中の一つに、牛たちを草原から呼び戻すということがありました。牛たちを呼ぶためには、搾乳の時間の30分前に出て行かなければいけませんでした。それは午後の時間にはたいしたことではありません。でも、朝の6時前となると、外は夜明け前で真っ暗で、懐中電灯がなければ自分がどこを歩いているのかも見えませんでした。
その経験を通して、私は懐中電灯の力を学びました。スイスでは牛たちがカウベルをつけているとよく聞きますが、私の祖父の牛たちは音が鳴るものなど首から何も下げておらず、私の目では牛たちの姿は見えませんでした。 私が牛たちを見つける方法はただ一つ、懐中電灯の光に牛の目が光るまで、懐中電灯を四方に差し向けることでした。これが起こると、目に光を当てられた牛は気だるそうに立ち上がり、それが他の牛たちにも伝染して、群全体が起き上がって動き出します。そして、私の懐中電灯が群全体を照らすと、ようやく私たちは一緒に小屋に向かうことができました。
今日は教会の暦では待降節「アドベント」の第一日曜日です。アドベントは光を待ち望む季節です。本当に、私たちは光を求めています。私たちのほとんどは、イエス様が「世の光」と呼ばれることを知っていると思います。イエス様は、ユダヤ人にも異邦人にも光をもたらすメシア(救い主)としてその到来が祝われ、私たちはそのお祝いを2千年以上にもわたって続けてきています。しかし、イエス様が来られた世界とはどのような世界だったのでしょうか?それは今私たちが生きる世界とは違っていたのでしょうか?そして、イエス様がもたらした光は、1世紀の世界にどのように受け入れられたのでしょうか?
イエス様の来られた世界は、「パクス・ロマーナ」、「ローマの平和」として知られる時代の中にありました。その時代は、ローマ人の視点からすれば良い時代でした。ローマは絶対的権力で世界を支配し、当局への抵抗はすぐに封じられたので、外面的には確かに平和な時代に見えました。しかし、その世界には暗い面がありました。ローマは帝国内の庶民に重い税を課し、帝国の活気を維持していたのです。それは、当然ながら、庶民の生活は非常に貧しいままだったことを意味します。庶民はローマを圧政者として見ていましたが、彼らにはどうしようもありませんでした。ですから、多くの人にとってその時代は暗黒の世界でした。その上、ヘロデ大王のような王まで現れたら、生き残る唯一の方法は、ただ権力者を喜ばせて、個人的な感情や信条は自分の胸の内にだけしまっておくしかありません。
私たちも暗い時代に生きています。私たちは民主的な政府制度を誇りに思い、一人ひとりに投票権を与えれば、選挙で選ばれた人々が健全な国家のために人々が望み必要とすることを尊重するはずだと信じています。私たちが選んだ人物は私たちを導くのに必要な人物ではなかったということになるかもしれません。また、政治スキャンダルは政府や政府機関に対する私たちの信用を損ない、私たちを皮肉っぽくしたり鬱にさせたりします。
戦争は一向に終わりませんが、私たちが望むのは平和です。国同士の対立で何が起きているのか、理解するのが不可能に感じられる時もあります。戦争は悪いことだと誰もが思っているのに、ある特定の戦争は必要だから仕方ないという正当化がなされていますし、政府は支持する国と敵対する国を選んでいます。そして、この暗闇の中で、私たちは何万人もの人々が命を落としているのを目の当たりにしています。権威主義的な指導者たちは、彼らが殺し合いをさせるために戦争に送り込む人々を気遣うよりも、自らの強者としてのイメージを演出することの方に関心があるからです。
私たちの世界が創造される前、「地は混沌であって、闇が深淵の面にあった」(創世記1:2)と、聖書は言っています。その通り、それが始まりでした。形もなく、意味もなく、命を生み出す光の兆しもない、全く絶望的な混乱です。ここで一つ注意すべきなのは、古代ヘブライ人にとって、この暗闇の混沌は悪意ある活発な力であり、絶対的な混沌と理解するのが最もふさわしいものだったということです。しかし、この混沌はそのままでいられたわけではなかったということが、続く聖書の言葉から分かります。「神からの風が水の面を動いていた」という言葉です。「風」と訳されている言葉は、「霊」とも訳せます。私たちにとってここで重要なのは、神様は暗闇の混沌をそのままにしておくこともできたはずなのに、そうはならなかったということです。「神は言われた。『光あれ。』こうして、光があった。」 この時点で、全てが変わり始めました。神様がその最初の命令を発する前のように、全宇宙を暗闇が究極的に支配することはもうありません。強力だった「闇」は、今や「光」を相手にしなければならなくなりました。そして、「神は光を見て、良しとされた。神は光と闇を分けた」とあります。ここには、二つの力があります。光と闇。善と悪。正と負。命を与えるものと命を奪うもの。神様と私たちの物語が始まるのはここからです。新約聖書のヨハネ福音書の著者が、この世界に来られた「言」のことを、なぜ「(それは)すべての人を照らすまことの光である」(ヨハネ1:9)と語ったのか、今なら私たちにも分かるはずです。
ですから私たちは、「まことの光」がこの世界にやってくることを確信しています。それでも、「闇」は大混乱を引き起こし続けています。私たちは、人は基本的に善良だと思いがちで、自分自身もそうであると信じたがります。しかし、私たちがどれだけ善良でありたいと願い、努力しても、必ず自分の力不足を痛感することになります。私たちは、自分たちが良い世界と良い共同体を求め、互いに仲良くしていたいと願っているなら、誰もが光を選ぶはずだと考えがちです。しかし、ヨハネ福音書の著者は3章でこのように書いています。「光が世に来たのに、人々はその行いが悪いので、光よりも闇の方を好んだ。」(ヨハネ3:19)
私たちは暗闇を罪と結びつけて理解しています。私たちは罪を犯すと恥を感じるので、自然と、罪を率直に告白するよりも、それを隠したいと感じます。このようにして、人は光よりも闇を愛します。そして、ある意味では私たちはそうするように教えられています。たとえば、皆さんはご自分の履歴書を初めて書いた時を覚えているでしょうか?どのように書くように指導されましたか?もし皆さんが私と同じような経験をしていたら、学歴や職歴の良い部分を強調し、性格の良いところが目立つように書くように指導されたのではないでしょうか。また、初めての採用面接はどうだったでしょうか?皆さん、当然、どのような服装をするべきか、面接官たちを納得させるのに十分な自己主張をしながらも、どのように適度に謙虚に振る舞えば良いのか、助言されたはずです。履歴書や面接を通して、私たちは意図的に、会社が求める人物像を演じます。こうなると私たちはハリウッドと大して変わらないですよね。ハリウッドでは演技をしている自覚があることを除けば。
私がここでお伝えしようとしているのは、私たちは確かに暗闇が好きだということです。私たちの内側にある本当の闇の部分を隠すために、暗闇は私たちを助ける養護者となるからです。そして、誰の闇がより少ないかという後ろ向きな競争を続ける世界で他人と張り合い、互いを非難し合うのをやめられません。その結果、全世界に明るい光をもたらすために、それぞれの内にあるわずかな光を組み合わせて共に前向きに働く喜びを犠牲にしています。
先にお話ししたように、私たちは皆、良い世界に住みたいと願い、良い人間でありたいと願い、良い人たちとの共同体にいたいと願っています。しかし、私たちはこれを自分たちだけで達成することができません。ではどうすればよいのでしょうか?ヨハネはこの世界に来られたまことの光について、このように言っています。「言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた。この人々は、血によってではなく、肉の欲によってではなく、人の欲によってでもなく、神によって生まれたのである。」(1ヨハネ1:12-13)これは、履歴書を準備したり面接指導を受けたりすることを求めているのではありません。そうではなく、イエス様の名を信じるなら、イエス様は私たちが光の子となれるようにしてくださるという約束です。血統や肉の欲や人の欲にはできないことです。そして、私たち全員が自分の持つ懐中電灯を一緒に照らすなら、その光は圧倒的で、私たちは牛を連れ帰るよりずっと多くの影響力を持てるはずです。私たちは、イエス・キリストを光源とする強い光の一部となって、他の人々にも、人生を支配する暗闇の力にどのように打ち勝てば良いのか、示すことができます。
これについて、私は軽く考えているつもりはありません。イエス様を信頼することも、暗闇への依存を断ち切ることも、簡単ではありません。でも、今は待降節です。私たちが信じ続ける限り、その光は必ず来ると約束された季節です。
子どもの頃、ウィスコンシンの田舎町で、暗い暗い夜に外に出ると、その闇に圧倒されるようでした。でも、ある有名な哲学者であり詩人は、その暗闇に一筋の希望の光があることを教えています。19世紀に生きたラルフ・ワルド・エマーソンはこのように記しています。「闇が深まれば、星が見える。」彼は正しいです。私が暗い夜に外に出た時も、夜明けや夕暮れ時よりもはるかに多くの光が空に見えました。漆黒の闇の中で何十億もの光が私を見返し、「闇は勝つことができない!」と語りかけていました。
私たちは暗い世界に生きており、時には、新聞を読む前に捨ててしまいたくなることもあります。しかし、私たちの世界が暗いからこそ、イエス様を信じる者たちが放つ光を見ることができます。待降節は暗い季節ですが、この季節が終わる時、キリスト誕生の光が私たちを待っています。この祝祭の時期に私たちの周りで見られる星やろうそくは、暗闇が「すべての人の光」に打ち勝つことは決してないのだということを、私たちに毎日思い起こさせてくれます。世界の闇は、希望なんてどこにもないのだと告げてきますが、惑わされてはいけません。私たちは、救い主メシアという神様からの贈り物を受け取り、その方を信じることによって、神の子となる力を与えられました。闇が私たちに勝つことはないという約束を信じて、闇の中で輝き続けましょう。(訳:池田真理)
要約
私たちは暗い世界に生きています。私たちを取り巻く世界は、世界がより良いものになることをあきらめるべきだと私たちに言っているかのようです。
イエスが来られた世界もとても暗い世界でした。庶民はローマに抑圧されており、彼らにとって世界は出口の見えない絶望的なもののように感じられたかもしれません。
ヨハネによる福音書は、「言」(イエス・キリスト)がこの世界に来られ、その「言」は「すべての人の光」であったと教えています。イエスは、私たちがイエスのことを救い主として受け入れ、その名を信じることによって、私たちを神の子とすると約束してくださっています。
私たちは、良い人間であろうとする時、それが不可能なことであると気が付きます。私たちは、良い人間になりたいと思っていてもなれないのです。ヨハネが私たちに示そうとしているのは、たとえ私たちの心の中に私たちの好む闇(ヨハネ3:19)があったとしても、イエスの光を受け取り、イエスを信じることによって、私たちはその闇を克服することができるということです。そしてまた、私たちは、イエスと共に、神の子らとして、イエスがこの世界にもたらす光を輝かせる手伝いをするのです。
今日は待降節最初の日曜日です。待降節はメシアを待ち望む暗闇の季節ですが、この季節の終わりには彼が来られることが保証されています。この祝祭の時期に至るところで見られるライトの数々は、最終的に暗闇が勝利することはないということを私たちに思い起こさせてくれます。神の光が勝利するのです!