主をほめたたえて過ごす2025年にしよう!

見る
日曜礼拝・英語通訳付

❖ 聞く (メッセージ)

❖ 読む

主をほめたたえて過ごす2025年にしよう!

(詩編 150)

永原アンディ


 2025年最初の礼拝のお話が長く続けてきた詩編シリーズの最終回というのは妙なタイミングですが、この詩は私たちの新しい年の歩みに相応しい呼びかけに満ちています。詩編最後の詩150編は、107編からの詩編第5巻のまとめの詩であるとともに、詩編全体のまとめの詩でもあります。それはつまり詩編全体の真髄、エッセンスを再確認させてくれる歌であるということです。
 この詩は、「神様に向かい神様をほめたたえて歌う」ということが、神様を信じる私たちにとってどれほど大切であるかということを教えてくれます。
まず全体を読んでみましょう。

1 ハレルヤ。主の聖所で神を賛美せよ。主の力の溢れる大空で神を賛美せよ。
2 力強い御業のゆえに神を賛美せよ。そのすぐれた偉大さにふさわしく神を賛美せよ。
3 角笛を吹いて神を賛美せよ。竪琴と琴を奏でて神を賛美せよ。
4 タンバリンに合わせて踊りながら神を賛美せよ。弦をかき鳴らし、笛を吹いて神を賛美せよ。
5 シンバルを鳴らして神を賛美せよ。シンバルを高らかに響かせて神を賛美せよ。
6 息あるものはこぞって主を賛美せよ。ハレルヤ。

1. どこで、なぜ賛美するのでしょう? (1,2)

 この詩の中で一番多く出てきた言葉は何ですか?「賛美せよ」ですね。たった6節の短い詩の中で、最初と最後のハレルヤは「ヤーウェを賛美せよ」という意味ですから、それも合わせて11回も「賛美せよ」と命じられているのです。
 繰り返し念を押されるのは普通、二つの理由があります。第一はそれが非常に重要なことであるから、そして第二にそれほど重要なことを私たちがなおざりにしてしまいやすいからです。それでは、まず1、2節に注目しましょう。

1 ハレルヤ。主の聖所で神を賛美せよ。主の力の溢れる大空で神を賛美せよ。
2 力強い御業のゆえに神を賛美せよ。そのすぐれた偉大さにふさわしく神を賛美せよ。

 一節には、賛美する場について、二つの場が提示されています。「主の聖所と主の力の溢れる大空で」とあります。人の手で作られた神殿の中心部分である聖所とあらゆるものを覆う天という大きな違いのある二つの場です。
 しかし、この部分は、「これら二つの場におられる神様を賛美せよ」と訳すこともできると考えられます。この時代のユダヤ人も神様が神殿の聖所に閉じ込められている方ではなく、ご自身の創造されたあらゆるところでご自身を現している方であると理解していました。このことを神学用語では神様の遍在(omnipresence)といいます。神様が遍在されるなら、なぜ“聖所”は必要なのでしょうか。
 これを私たちの問題として言い換えるなら、一人でも神様を賛美できるなら、なぜ教会という場が必要なのか、なぜ共に集って神様を賛美することも命じられているのか、ということです。そのヒントが2節にあります。2節では神様を賛美する根拠が謳われています。「力強い御業」と「驚くべき偉大さ」を現される方だから、とあります。私たちはどのようにして、目に見えない「力強い御業」と「驚くべき偉大さ」に気付くのでしょうか、それは目にみえる人あるいは人々の働きによってです。神様を自分の主と信じ、その意思を行おうとする人々すなわち教会の働きです。教会という人々のつながり、関係の中で神様はその栄光を表されます。
 自分と神様だけの時間も非常に重要な時で欠かすことのできないものですが、それを大切にしていても共に捧げる礼拝を軽視するなら健康な信仰を保つことはできません。それだけでは、自分の神様に対する向き合い方が好ましくない方向にずれていってしまっても気づくことが難しいからです。そしてそうなれば、神さまの力強い御業にも優れた偉大さにも気付けなくなってしまいます。
 それで神様は、神殿というある意味人工的な場をも自分のおられる場と認め、そこで共に捧げる礼拝も、個人的な礼拝同様に大切にすることを、詩人を通して教えてくださっているのです。それは私たちにとってはいうまでもなく、今ここで捧げている礼拝のことです。

2. ユアチャーチは21世紀の礼拝をリードする?(3-6)


次の部分、3-6節を読みましょう。

3 角笛を吹いて神を賛美せよ。竪琴と琴を奏でて神を賛美せよ。
4 タンバリンに合わせて踊りながら神を賛美せよ。弦をかき鳴らし、笛を吹いて神を賛美せよ。
5 シンバルを鳴らして神を賛美せよ。シンバルを高らかに響かせて神を賛美せよ。
6 息あるものはこぞって主を賛美せよ。ハレルヤ。

ここでは、当時礼拝で用いられていた、礼拝賛美に用いられる様々な楽器が紹介されています。そして、楽器以外のことについて記されていることがふたつあります。
 そのひとつは「タンバリンに合わせて踊りながら神を賛美せよ」です。当時のイスラエルの人々の捧げていた礼拝について想像してみるのは楽しいことです。弦楽器と吹奏楽器と打楽器の賑やかな音色の中で人々が踊りながら歌っている礼拝です。もちろん、この時代には鍵盤楽器は存在していません。しかし中世以降、礼拝に用いる楽器はオルガンが定番となり、それが20世紀まで続いてきました。
 わたしが信仰を持って教会生活を始めた頃は、むしろオルガン以外の楽器を使用することは邪道であるかのようにいわれていました。多くの教派では、礼拝には静けさ、厳かさが求められ、礼拝でダンスをするなんてありえないことでした。
 私たちがユアチャーチを始めた最大の理由は、それまで自分たちが捧げてきたよりもっと良い礼拝の捧げ方があるのではないかと思い始めたからです。私たちは、礼拝が厳粛なものであるよりは、それが喜びであるにせよ、悲しみであるにせよ、自分の気持ちを率直に神様に伝えるような礼拝をするべきだと考えたのです。
 この詩は礼拝が、理性的なだけでなく、感情的で、身体的でもあるものなのだと教えてくれています。ユアチャーチの礼拝について、私は最初から変わることなく一人一人が自由に神様に思いを表現することを勧めてきました。
 けれども、私たちの「厳かに捧げる」「説教というお話を聞く」という礼拝についての印象はなかなか拭うことはできず、もっと自由に活き活きと表現する礼拝になるといいなと思ってきたのです。
 このことは人に命じられて実現されることではありません。例えば、私が「立ち上がって、踊って礼拝しましょう」と言えば、それはもう自由ではなく、強制的に踊らされていることになります。
 わたしは「ここで踊っている人もいれば、膝を屈めてひれ伏している人もいる。座ったままで手を叩いている人もいれば、立ち上がって手を挙げている人もいるような礼拝をしましょう」と言ってきましたが、それは冗談ではなく本気で言ってきたことです。日本では同調圧力が強く感じられて、違う表現をすることに気が進まなかったり、人と違う表現をしていると批判されたりすることがあります。この点でユアチャーチには大きな利点があります。それは集っている私たちのバックグラウンドが様々だということです。それは私たちの捧げる礼拝をより豊かなものにしてくれます。
 去年嬉しかったことは、皆さんがより自由に礼拝の中で感謝や賛美を、ただ歌うだけではなく心と体で表現している姿をより多く見られるようになったことです。もし誰かに、「そのような表現は礼拝らしくない」と言われたら、言い返す代わりにこの聖書の箇所を読んであげましょう。

(IIサムエル)14 主の前でダビデは力の限り踊った。彼は亜麻布のエフォドを身に着けていた。
15 ダビデとイスラエルの家は皆、喜びの声を上げ、角笛を吹き鳴らして、主の箱を運び上げた。
16 だが、主の箱がダビデの町に着いたとき、サウルの娘ミカルは窓から見下ろし、ダビデ王が主の前に跳ねたり踊ったりしているのを見て、心の内で蔑んだ。

 どのような礼拝の表現も、それが心から表現であれば神様は喜んでくださいます。しかし、たった一つだけさけるべきことは、ミカルのような態度です。自分の礼拝の態度だけが正しく、他の人の表現を蔑むなら、それこそが正しくない礼拝の態度です。ですから、何の心配もせずに自分の礼拝スタイルで心から神様を礼拝してください。飛び跳ねていようと、俯いて座っていようと神様は皆さんの礼拝を喜んでくださいます。

 最後に、6節にふれておきたいとおもいます。ここには楽器についてではない、もう一つのことが記されています。それは、賛美を命じられているのが、信じる者だけでも、全ての人間だけでもなく、生き物すべてだというのです。動物や植物にも命じられているのです。この詩では触れられていませんが、二つ前の詩、148編は、太陽や月や星にも主を賛美することを命じていました。
 このことは被造物の全て、存在するものの全てが神様を賛美するべきだということです。世界中の動物や植物は神様の栄光を見ているでしょうか?
喜んでほめたたえることのできる環境に置かれているでしょうか?
神様によって申し分なく良いものとして創造された海や山はその美しさを保っているでしょうか?彼らはそれをコントロールできる力を与えられてはいません。
 被造物全ての美しさを保つ責任は誰にありますか。聖書の最初の章、創世記1章26節を読みます。

神は言われた。「我々のかたちに、我々の姿に人を造ろう。そして、海の魚、空の鳥、家畜、地のあらゆるもの、地を這うあらゆるものを治めさせよう。」

  そうです、神様はご自身の似姿として人間を創造され、世界を正く治める責任を与えられたのです。私たちはこの責任を正しく果たせているでしょうか。
 全ての被造物が神様をほめたたえるためには、私たち人間がこの世界の環境を良いものに保つ責任があるということです。神様の創造以来、私たち人間は自分たちのことで精一杯で環境を保全することなく歩んできましたが、ようやくこの数世紀に起こり始めた環境変化で、この神様に委ねられた責任を果たさないと自分たちの首を絞めることになることを知ったところです。
 自然を守ることはロマンチックな感傷でも、実益でもなく、ご自身に似せて造られた人間の果たすべき責任なのです。

 今日で詩編のシリーズは終了です。しかし、私たちは生きている限り、神様をほめたたえ続けます。2025年も、新しい恵みに応えて新しい歌を歌い、神様と共に歌いつつ与えられている務めに励みましょう。

(祈り)神様、去年1年間の恵みをありがとうございます。
あなたが、私たちの心に語りかけ、人々を通して恵みを表してくださいました。
その大きな恵みを心から感謝します。
私たちがあなたをほめたたえつつ、この新しい年を歩み続けることができるように、あなたの声を聞きつつ、あなたの思いにかなって歩むことができるように導いてください。
私たちを通して、あなたの力強い御業がこの世界に現されますように。
あなたの新しい恵みを期待して感謝して、この新しい年を歩み始めます。
イエスキリストの名によって祈ります。


要約

人間だけではなく、被造物の全てが賛美するのに相応しいほどの神様の驚くべき御業は、神様を信じて従い、神様の意思を行う人々によって表されます。つまり教会によって表されるものです。ただし教会が、それが共に捧げる礼拝であれ、グループや家族で捧げる礼拝であれ、礼拝を最優先のこととして大切にしていなければそのことは起こりません。

話し合いのために

1. 去年、最も神様の偉大さを感じた出来事は?

2. 詩人はなぜこれほどまでに賛美することを勧めるのでしょうか?

子どもたち(保護者)のために

質問して、話し合いましょう→「去年、神様はどのような素晴らしいことをしてくれましたか?」「今年、神様にどんなことを期待しますか?」
New Day を一緒に歌いましょう。