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「私はあなたのものです」という決意表明
(ユアチャーチメンバーのカヴェナント・マルコによる福音書 12:28-31, ルカによる福音書 10:25-37)
池田真理
今日は教会のメンバーシップについてお話ししたいと思います。世界中のキリスト教会にメンバー制度(会員制度)があり、この教会にもありますが、制度のあり方は各教会で異なります。一度会員になったら半永久的に自動的に会員の身分が更新される教会もあれば、毎年それぞれの意志を確認する教会もあります。その際、各会員が毎月いくらの献金をする予定かも確認して、それに基づいて予算を立てる教会もあります。ユアチャーチではメンバーは自動更新ではなく、牧師も含めて毎年メンバーになるかどうか意志を確認していますが、それぞれがいくら献金するかは一切聞きませんし、予算を立てるということもしていません。皆さんが献金する際にも名前を書く欄はありませんので、誰がいくら捧げているかは牧師もリーダーも知りません。私たちがこのようなやり方をしている理由は、私たちが教会のメンバーになることをどう考えているかをお話しすれば分かっていただけると思います。
この教会の名前はユアチャーチです。ユアチャーチは「あなたの教会」という意味ですが、この「あなた」には三つの意味があります。第一に神様、第二にこの教会に集う人々、第三にこれから出会う人々です。そして、ユアチャーチのメンバーになるということは、この三つの意味全てを含んで、「私は私のものではなく、あなたのものです」と決意することを意味します。それは、イエス様が私たちを救うために神様の身分を捨てて僕の身分になり、その命を献げてくださったことから始まった、イエス様に従う者の生き方です。私たちは、自分のために生きるのではなく、神様に仕え、人々に仕えて生きることが、最も幸せな生き方だと知っています。その確信をそれぞれが自分と神様の関係の中で新たにするために、ユアチャーチのメンバーは年に1回、神様との誓約(カヴェナント)をします。「私はあなたのものとしてこの一年を歩みます」という誓約です。
イエス様はこのように教えています。マルコによる福音書12章です。
28 彼らの議論を聞いていた律法学者の一人が進み出、イエスが立派にお答えになったのを見て、尋ねた。「あらゆる戒めのうちで、どれが第一でしょうか。」29 イエスはお答えになった。「第一の戒めは、これである。『聞け、イスラエルよ。私たちの神である主は、唯一の主である。30 心を尽くし、魂を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』31 第二の戒めは、これである。『隣人を自分のように愛しなさい。』この二つにまさる戒めはほかにない。」(マルコ12:28-31)
第一、第二の戒めと言われていますが、この順番はとても大切です。神様を愛することの延長に、隣人を自分のように愛するということが自然と起こります。ユアチャーチメンバーのカヴェナントでは第二の戒めを二つに分けて、互いに愛し合うことと世界を愛することに区別していますが、両方とも隣人を愛するということに含まれます。
それでは始めていきましょう。まず、「私は神様のものです」という決意からです。
1. 私は神様のもの
a. 神様のように私を愛してくれる人は他にいない
私たちが、「私は私のものではなく、神様、あなたのものです」と告白できるのは、何よりもまず、神様が先に私たちを愛してくださっているからです。
神様の愛がどれほど広くて大きいかは、聖書の中にある放蕩息子のたとえを読むと一番よく分かるかもしれません。たとえにあるように、私たちは元々神様に愛されている神様の子どもですが、神様の家で神様に従って生きるよりも、自分勝手に生きることの方に魅力を感じて、神様の家を飛び出しました。でも、神様からいただいたものを全て使い果たして、自分の力では何もできないことを思い知り、身一つになって神様の家に戻ります。戻ってきた私たちを、神様は遠くから見つけて、駆け寄ってきて迎え入れてくださいます。そして、私たちに一番上等な服を着せ、家中総出で大宴会を開いて、私たちの帰りを祝います。「この子は死んでいたのに生き返った。いなくなっていたのに見つかった」と言って、大喜びで。それは、その間も家で真面目に従っていた子どもたちにしてみれば不公平に思えるほどの喜びようでした。
神様は私たち一人ひとりのことをご自分の子どもとして愛しておられます。そして、どうにかそのことを私たち自身が知って、それぞれの人生を喜びのうちに生きてほしいと願っておられます。その願いを私たちに証明するために、自らこの世界に人となって来られ、十字架でその命を献げられました。私たちが自分の造り主を思い出して、なぜ生まれてきたのか、この世界は何のために存在するのか、理解して、それぞれがその人だけのその人らしい人生を確かに歩めるようになるためです。
b. 私は誰よりも何よりも神様を愛する
神様の愛を知った私たちは、自分自身がもはや自分のものではなく、神様のものであるということを知ります。そして、自分の願いが叶うことよりも、神様の意志が実現することの方が、自分にとっても良いことだと分かります。だから、日常生活の中でも人生の大きな節目においても、神様は何を喜ばれるのか考えます。私たちは小さな人間に過ぎず、どんなに考えても神様の意志を完全に理解することは一生できません。神様もそんなことは百も承知で、私たちが間違いを恐れて何もしないよりも、私たちが悩みながらも自分の人生に責任を持ち、楽しむことを喜んで下さいます。大切なのは、私たちが私たちの願いと神様の意志は異なっているかもしれないといつも覚えていて、たとえ自分の願いとは違う人生を歩むことになっても、神様のなさることはいつも良いことなのだと信頼することです。
そのような生き方をしていく上で不可欠なのが、心と体の全てを神様に集中する礼拝の時間です。日曜日の教会での礼拝の時間もそうですが、家でひとりでも、平日に家族や友人と一緒にでも、礼拝の時間を持つことができます。礼拝は、ありのままの自分の心のままで、神様の前に出ていくことです。神様を賛美して歌ったり踊ったりすることもあれば、自分の過ちを告白し、跪いて赦しを求めることもあります。大きな苦しみの中で何を祈ればいいのかもわからず、ただうつむいて泣いてしまう時もあります。そのようにして自分の心の全てを神様の前に隠さずに注ぎ出す時、私たちの理性と感情の両方に聖霊様が働いてくださいます。そして、私たちは神様が私たちに「あなたは私の愛する子」と語りかける声を聞き、私たちも神様に「あなたは私が誰よりも愛する主です」と応答します。そのような双方向のコミュニケーションが礼拝です。
そして、私たちが神様を愛して生きていく上で、礼拝と同じように不可欠なのが、同じ神様を礼拝して生きる仲間の存在です。神様のなさることは全て良いことだと信じることは、時にとても難しいことです。勉強や仕事での挫折。人間関係が壊れてしまう時。病気や災害に襲われる時。誰にでも起こりうることですが、なぜ自分に起こるのか、なぜ神様はそれを許したのか、すぐに答えを出すことは誰にもできません。また、親から虐待を受けたり、障害や国籍や人種で差別を受けたり、生まれた時から人の悪意にさらされることもあります。なぜ神様はそんな人間の悪を許して、自分を苦しい状況に置かれたのか。一生答えは出ないかもしれません。それでも神様は私たちを愛されているとはどういうことなのか、神様の愛を信じようとしている者なら誰でも向き合わなければいけないことです。そのために、私たちは一人で信仰を持つのではなく、必ず共に信じる仲間を必要としています。だから、ユアチャーチのカヴェナントの二つ目は、「私は共にいるあなたのもの」という決意表明です。
2. 私は共にいるあなたのもの
a. 私はあなたを許し、あなたの存在を喜ぶ
神様の愛が知識ではなく経験になるのは、具体的な誰かの存在を通してです。
私が自分は愛されていると分かったのは、教会の家族が私の間違いや弱さを知っても、私に幻滅せずにそばにいてくれることを通してでした。赤の他人だった人が、自分の時間と労力を惜しまず、喜んで私を助けてくれることを通して、私は見返りを求めない愛を教えられました。また、私が誰かを励まそうとする時、元気のなかった人が元気になっていく姿を見て、私の方が励まされてきました。それが私の力ではなく、神様の愛がその人に触れたからだと分かるからです。
私たちは誰も神様の代わりにはなれません。互いの問題を相手に代わって解決することはできませんし、「なぜこんなことが起こったのか」という切実な疑問に答えられないことも多くあります。神様のようにいつでも変わらずに誰のことも無償の愛で愛せる人はいません。相手のことを誤解したり、傷つけてしまうこともたくさんあります。
それでも、互いの弱さを受け入れ、許し合って、一緒に神様を見上げることのできる共同体が、教会の家族です。私たちが互いに愛し合うというのは、共にいることが利益になるからではなく、その人のできないことも含めて、その人がその人であることを喜んで、一緒にいることです。
b. 私のものはあなたのもの
ですから、互いに愛し合うということの一番基本的なことは、共にいるということです。お互いの時間を共有し、語り合い、互いを知り合い、祈り合います。苦しい時に一緒に苦しみ、嬉しい時に一緒に喜びます。困っている時には具体的な必要を満たすために助け合いますが、それができるのは普段からお互いのことを知り合っているからです。
そのようにお互いのために時間を割いたり、実際に助けたりすることは、それを喜んでできるかどうかがポイントだと思います。人間関係に疲れていたり、傷ついていたりすれば、人と関わること自体ハードルが高くて当然です。無理をする必要はなく、ご自分が癒やされることをまず求めてください。そして、安心を感じられる人からつながっていってください。
でも、どんな状態にあっても、一人ひとりがこれまで生きてきた道のりは、必ず誰かの力になります。ご自分が知らないだけで、もうすでに誰かに力を与えているかもしれません。神様の愛を人に伝える働きは、誰かのことを意識的に愛することだけでなく、自分が神様を愛して生きる姿を見せることにもあります。それも、自分を他の人のために献げるということです。ですから、私たちは一人ひとりがありのままの心の状態で共に時間を過ごすことによって、互いに仕え合う共同体を目指しましょう。
ただ、この共同体は常に外側に開かれていて、外側から影響を受けて変化していくものです。イエス様は「隣人を愛しなさい」と教えましたが、その真意は、「隣人を必要とする人の隣人になりなさい」という意味でした。ルカによる福音書10章にある「善いサマリア人のたとえ」を一部省略して読みます。
25 すると、ある律法の専門家が立ち上がり、イエスを試そうとして言った。「先生、何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか。」26 イエスが言われた。「律法には何と書いてあるか。あなたはそれをどう読んでいるか。」27 彼は答えた。「『心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、また、隣人を自分のように愛しなさい』とあります。」28 イエスは言われた。「正しい答えだ。それを実行しなさい。そうすれば命が得られる。」29 しかし、彼は自分を正当化しようとして、「では、私の隣人とは誰ですか」と言った。30 イエスはお答えになった。「ある人がエルサレムからエリコへ下って行く途中、追いはぎに襲われた。追いはぎたちはその人の服をはぎ取り、殴りつけ、瀕死の状態にして逃げ去った。31 ある祭司がたまたまその道を下って来たが、その人を見ると、反対側を通って行った。32 同じように、レビ人もその場所にやって来たが、その人を見ると、反対側を通って行った。33 ところが、旅をしていたあるサマリア人は、その場所に来ると、その人を見て気の毒に思い、34 近寄って傷にオリーブ油とぶどう酒を注ぎ、包帯をして、自分の家畜に乗せ、宿屋に連れて行って介抱した。35 そして、翌日になると、デナリオン銀貨二枚を取り出し、宿屋の主人に渡して言った。『この人を介抱してください。費用がもっとかかったら、帰りがけに払います。』36 この三人の中で、誰が追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか。」37 律法の専門家は言った。「その人に憐れみをかけた人です。」イエスは言われた。「行って、あなたも同じようにしなさい。」(ルカ10:25-37)
3. 私はこれから出会うあなたのもの
a. 私は隣人を必要とする人の隣人になる
私たちは似た者同士で仲良くして、満足しがちです。それは人間の性質で、悪いことばかりではないと思います。でも、神様の愛を届けることにおいては、その性質は邪魔になります。神様の愛を必要としている人を無視したり、自分がそれをする必要はないと言い訳したりする原因になります。私たちが神様を愛して生きようとするなら、知らない人と知り合い、分かり合えない人を理解しようとする努力を意識的に続ける必要があります。
この良いサマリア人のたとえにあるように、隣人を愛するとは、神様の愛を必要とする人全てにそれを届けるという意味です。相手がどういう人物か、自分とどう関係があるかないかは関係ありません。助けを必要とする人がいるなら、または人間の不正義に苦しんでいる人がいるなら、相手が誰であろうと、私たちは自分にできることをします。そのように、神様の愛を届けることは、人間社会の不正義に神様の正義を届け、希望を届けることでもあります。それは、この世界に神様の国をもたらす働きです。
b. 私は世界を変えるために私自身が変わる
私たちは、教会という共同体としても、信仰者個人としても、この働きを担っており、この働きを担うためには、私たちは私たち自身が変わることを受け入れていく必要があります。
良いサマリア人は倒れたユダヤ人を助けるために、常識を破って、自分の予定を変更し、自分の財産を使い、労力を惜しみませんでした。当時、サマリア人とユダヤ人は交流しないのが常識でした。不幸に遭った人を見て見ぬふりをする人は大勢いて、自分もその大勢の中の一人でいることの方が簡単でした。でも、このサマリア人は違いました。
私たちは、教会という共同体として、新しくこの教会に来る方のニーズに応えられるように、社会のニーズに応えられるように、変化を続ける必要があります。私たち一人ひとり、個人としても、それぞれの置かれた場所で出会う人々に神様の愛を届けられるように、自分が造り変えられていく必要があります。世界に神様の国をもたらして、世界を変えるためには、私たち自身が変わっていかなければいけません。
今日はユアチャーチメンバーのカヴェナントについてお話ししました。私たちは第一に神様のものであること、第二に互いのものであること、第三にこれから出会う人々のものであること、全て、イエス様の歩んだ道に従っています。
(祈り)神様、これからの新しい一年のユアチャーチの歩みを、どうぞあなたが導いてください。ここに集う一人ひとりが、あなたが共におられることをより感じられるようになるために、私たちにできることは何か、教えてください。また、この世界にあなたの国を実現するために、あなたの愛と正義を伝えるために、私たちにできることを示してください。一人ひとりの歩みを、どうぞあなたが守っていてください。互いにもっとよく仕え合うことができるように、あなたの愛をもっと私たちに教えてください。主イエス様、あなたのお名前によってお祈りします。アーメン。
要約
ユアチャーチは「あなたの教会」を意味しますが、この「あなた」には3つの意味があります。第一に神様、第二に教会で共にいる人々、第三にこれから出会う人々、です。ユアチャーチのメンバーは、この三つの意味に従い、神様を愛し、互いに愛し合い、この世界を愛するという三つの約束を神様に対して誓います。神様に愛され、罪を赦され、新しく生きる道を与えられた私たちは、自分の人生が自分のものではなく、神様のものであると知っています。だから、私たちは「私たちはあなたのものです」と言える教会を目指しています。
話し合いのために
1. なぜ信仰を持つだけではなく、教会のメンバーになることが大切なのでしょうか?
2. 「私は私のものではなく神様のものである」とは、あなたにとってどんな感じがしますか?具体的に何を意味していると思いますか?
子どもたち(保護者)のために
なぜ教会の友達は大切なのでしょうか?保護者の皆さんにとって教会で互いに支え合うことがどういう意味があるのか、子どもたちに話してあげてください。