主を畏れることは知識の初め

“King Solomon” Simeon Solomon, Public domain, via Wikimedia Commons
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日曜礼拝・英語通訳付

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主を畏れることは知識の初め

(箴言 1:1-7)

永原アンディ


  数年かけて読んできた詩編のシリーズを終えて、次に何を読もうかと年末年始にかけて考えていたのですが、旧約聖書では詩編の次に置かれている箴言、そしてその次のコヘレトの言葉と続けてゆくことにしました。
 今日は箴言の最初の部分から、それがどのような書であるのか、わたしたちはどのように読んでゆくべきなのかということをお話しします。

1. どこで、なぜ賛美するのでしょう? (1,2)

まず最初の節を読みます。

イスラエルの王、ダビデの子ソロモンの箴言。

 「箴言」最初の節に「 イスラエルの王、ダビデの子ソロモンの箴言」とあります。それはこれがソロモン王の著作であるということを意味しません。ちょうど詩編に“ダビデの”と記されたものがあるように、箴言の中には遡ってソロモンの言葉として語り継がれてきたものもありますが、多くは後代のものです。

 ところで箴言とは何でしょう。  少しこの言葉の語源の話をさせてください。 

 箴言の原語ミシュレー(Mishlei)は、格言、たとえ、ことわざなど多くの意味を持つ言葉です。 マタイによる福音書13章には、詩編78:2を引用したイエスの言葉が記されています。

「私は口を開いてたとえを語り天地創造の時から隠されていたことを告げよう。」 (マタイによる福音書 13:35)

ここで「たとえ」と訳されているイエスの言葉はミシュレーの単数形マーシャール(Mashal)です。英語の翻訳にはProverbsという言葉が当てられました。それは日本語では、ことわざ、格言、教訓などと訳される一般的な単語です。 

 ラテン語起源の単語で「出す(pro)」と「言葉(verbiorum)」という意味が組み合わされた言葉です。

 日本語の聖書ではほとんどが「箴言」と訳されています。あまり一般的ではなく、ニュアンスとしては「ことわざ」とか「格言」に近い言葉です。「言」は誰もがよく知る「ことば」ですが、問題は「箴(しん)」です。多分一般の日本人なら一生使わないで過ごす漢字でしょう。

 この字の元の意味は裁縫や治療に使う“はり”です。特に治療に使うはりは“鍼”を使うことが多いのですが、その場合は共通のつくりを用いた漢字なので連想できます。針が鉄で作られる前は石、動物の骨、そして竹などの木で作られていたので、箴という漢字の、日本語で《竹冠》と呼ばれる部分はその名残だと考えられます。

 「はり」の用途を考えると箴言の書かれた目的がよくわかります。針の用途は裁縫や治療、つまり破れを繕ったり、体の健康を保つことです。ですから言葉の「はり」は、魂の健康を保つためのものなのです。

 2節以降にそれが具体的に書かれているので読み進めてゆきましょう。

2. なぜ、私たちは箴言を読むべきなのか (2-6)

2 これは知恵と諭しを知り分別ある言葉を見極めるため。
3 見識ある諭しと正義と公正と公平を受け入れるため。
4 思慮なき者に熟慮を若者に知識と慎みを与えるため。
5 知恵ある人は聞いて判断力を増し分別ある人は導きを得る。
6 箴言と風刺を知恵ある言葉と惑わす言葉を見極めるため。

 最初に、箴言は私たちが知恵や諭しの言葉、分別のある言葉を得るために書かれた(2)とあります。これらの「言葉」を「情報」と置き換えて考えてみましょう。

 箴言が書かれた時代にも、人の益となる情報とむしろ害となる情報があって、人の心を惑わしていたことがわかります。

 イエスの時代の宗教家たちが語っていた言葉の多くが、人を神様に導く言葉のようでありながら神様から人を遠ざけるような言葉であったことをイエスは強く非難されました。

 そして現在、私たちはファクトかフェイクかわからない膨大な情報の中で溺れそうな状態に置かれています。そのような情況の中で、3節に書かれている「見識ある諭し、正義、公正、公平」は、憎悪する声、誘惑する声、攻撃する声、自己を正当化する声の大きさと多さに圧倒されています。 そのような情況は、思慮のない者や経験の浅い若者にとって大変危険です。まさに現代のSNSの情況そのものです。それを懸念して子供が使うことの規制を始めた国もあります。私はとても賢明なことだと思います。

 しかしその一方で、Facebookまでもが新しいアメリカの政権に忖度し、Xに倣ってファクトチェックを放棄してしまいました。SNSはこれからますます偽情報、陰謀論、ヘイト、差別であふれてゆくでしょう。思慮のない者や経験に乏しい者は、それらを鵜呑みにして世論は極端に傾いてゆくでしょう。

 一体誰が「見識ある諭し、正義、公正、公平」を世界に示すことができるのでしょうか。4節では箴言こそがその役割を担うと言っているわけです。そしてその箴言を人々に語り伝えるべき者もまた、この箴言を読むことによって、判断力、指導力を増すことができると5節は言います。ここで「知恵ある者」といわれているのは、当時のイスラエルの祭司や預言者とともに霊的指導者とされていた「長老」と呼ばれていた人々のことを指しています。エゼキエル書7:26にはこうあります。

「彼らは預言者に幻を求めるが律法は祭司から助言は長老から消えうせる。」 

イエスの時代のイスラエル社会はまさにそのような霊的危機にあったのです。 そしてイエスは、そこから人々を救うために来られたのです。イエスが始められた、この救いのムーブメントは現代に至るまで教会として続いてきました。

 しかしその歩みは順風満帆なものではありませんでした。教会もまた、かつてのユダヤ教がそうであったように霊的な危機に陥り、なんとかそれを乗り越えてきました。(15世紀の宗教改革がその代表的なものです)

 宗教改革から500年以上経ち、教会は新しい危機に直面していると私は思っています。イエスの福音から、ひどくずれてしまっていると思えることが教会の中で起っています。それらは例えば、指導者たちの腐敗、この世の富への執着、権力との癒着、様々な差別への加担です。

 箴言は私たちにこの危機から乗り越えるためのヒントを与えてくれると私は思います。


3. 箴言の核心 (7)

 最後に7節を読みます。  

主を畏れることは知識の初め。無知な者は知恵も諭しも侮る。

 「主を畏れることは知識の初め」これは今日のテキストだけではなく、箴言全体の核心というべき言葉です。それは文字通り、最初に受け入れるべき知恵であるということです。

 しかしそれだけではありません。どのような箴言、知恵、知識を理解し身につけようとするにしても、「主を畏れつつ」という態度が不可欠で、それなしに箴言をたくさん覚えても、それでは知恵を得ることには決してならないのです。本を読んだり、人の講演を聞けば知識の量を増やすことになります。それは、入試の合格や出世、昇給には役立つかもしれません。

 実際、会社の営業部の朝のミーティングで部長さんは「勤勉な人はよく計画して利益を得/あわてて事を行う者は欠損をまねくと聖書にも書いてあります。今日も真面目に落ち着いてしっかり利益を出してください」と励ましてセールスマンを送り出したりするのです。でもそこには「主を畏れつつ」ということが完全に抜け落ちています。箴言がそのようなただの処世訓のようなものであるなら聖書に含まれることはなかったでしょう。知恵や諭しは神様からの恵みなのです。

 知恵という漢字を確認してください。それは、神様の恵みによる知識、神様だけが与えることのできる知識ということをよく示していると思います。ですから箴言は、神様と自分との関係の中で理解するのでなければ、その真意を掴むことはできません。箴言の真価を享受できることはイエスを信じ、彼に従って歩む者の特権です。  

 私たちは、現代に置かれた祭司、預言者であるだけでなく、神様の知恵を「知恵ある者」として世に伝える責任を負っている者なのです。

(祈り)神様、私たちにあなたの知恵を授けてください。
かつてソロモンがあなたに願ったように、私たちに何より必要なのはあなたからくる知恵です。あなたが世にこられ十字架に至るまでに示された言葉と行いを正しく受け取り、この世界に伝えるためにあなたの知恵をお与えください。これから少しずつ箴言を学んでゆきます。いつもその学びの根底にあなたへの畏れがありますように、私たちを正しく導いてください。
イエス・キリストの名によって祈ります。


要約

箴言は「知恵ある者」を通して与えられた知識、知恵の言葉が集められたものです。知識、知恵は社会生活、さまざまな人間関係に役立つ処世術のように読むこともできます。しかし、箴言はその冒頭で、知識、知恵の核心は「主を畏れる」ことであると言っています。それは主に従うという生き方の中でこそ正しく理解し実践することができるのです。

話し合いのために

1. 箴言はどのような目的で書かれたのでしょうか?

2. 主を畏れるとはどういう意味ですか??

子どもたち(保護者)のために

初めに「知識」「知恵」とは何かを聞いてみましょう。次になぜ知恵、知識が必要なのか、テキストを読んでから簡単な言葉に置き換えて説明してあげてください。7節の一番大切な知恵、知識、それがなければ何を知っていても虚しい、神様を畏れるとはどういうことか考えさせてください。