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社会の障壁を壊す信仰
シリーズ「障害者と相互依存の神学」第6回 (マルコによる福音書 マルコ2:1-12)
池田真理
去年の夏から、1か月に一回、キャシー・ブラックさんの本を元に、障害を持つ人の視点から聖書を読み直す試み、「障害者と相互依存の神学」のシリーズをしています。今日はシリーズ第6回目です。本の順序に従い、今日はマルコによる福音書2章1-12節を読んでいきます。前半と後半に分けて読みます。まず1-5節です。
A. イエス様が示したモデル (1-5)
1 数日の後、イエスが再びカファルナウムに来られると、家におられることが知れ渡った。2 大勢の人が集まったので、戸口の辺りまで全く隙間もないほどになった。イエスが御言葉を語っておられると、3 四人の男が体の麻痺した人を担いで、イエスのところへ運んできた。4 しかし、大勢の人がいて、御もとに連れて行くことができなかったので、イエスがおられる辺りの屋根を剥がして穴を開け、病人が寝ている床をつり降ろした。5 イエスは彼らの信仰を見て、その病人に、「子よ、あなたの罪は赦された」と言われた。
1. 非常識で型破りな方法によって
この四人の人の行動は、とても非常識なものです。当時の家の屋根は木材の上にゴザなどを引いて土を塗り固めた簡単な作りだったと言われていますが、それにしても、他人の家の屋根を剥がして、人が横たわったまま通れるほど大きな穴を開けるというのは非常識です。
でも、イエス様は彼らのそんな行動を喜ばれました。彼らがそんな行動を取った理由は、体を動かせない病人をイエス様に癒していただくためだったからです。人々がその病人のために道を開けてくれないのなら、彼らは自分たちで道を作るしかありませんでした。それがどんなに非常識で人々から非難されるのが当然と思われる方法でも、その病人をイエス様のもとに運ぶという目的は決して間違っていないと、彼らは信じたのだと思います。
私たちの生きる現代においても、イエス様の助けを必要とする人がイエス様に近づくのを妨げる社会の障壁がたくさん存在します。イエス様は、障害や病気に関係なく、全ての人をひとしく愛しておられますが、社会の構造や人々の態度は障害や病気を持つ人々に対して差別的です。でも、そういう差別は意識されていないことが多く、その差別を取り除くためには、時には常識を破るくらいのとても大胆な方法が必要です。
ユアチャーチの建物はバリアだらけです。入り口がまず急な階段ですし、ドアも引き戸ではなく前後開閉式の重いドアですし、トイレも狭いです。数年前から入り口にはインターホンを設置して、「階段を降りるのに手伝いが必要な方は呼んでください」というサインをつけましたが、理想はそういう手伝いがなく誰でも入って来られる構造だと思います。賃貸物件なので、どうにかならないか大家さんに交渉したり、引越しも検討したりする必要があるかもしれないと思っています。実際、リーダーたちで引越しを真剣に検討したこともありました。継続して考えていかなければいけない課題だと思っています。
でも、こういう物理的な問題よりも難しいのが、人々の偏見という壁だと思います。一つの例として、皆さんはハーム・リダクションという言葉を聞いたことがあるでしょうか?私は数年前に知って、「目からウロコ」でした。
ハーム・リダクションは薬物依存症治療の中で生まれた考え方です。日本では、覚醒剤や麻薬などの違法薬物の使用に対して、「ダメ!絶対!」という標語が掲げられて、「使用したら最後、あなたの人生は台無しになり、もう取り返しがつかない」というメッセージが広められてきました。でも、そのメッセージは薬物依存症の人たちに対して「あなたは犯罪者で、あなたの人生はもう取り返しがつかない」と伝えることになり、治療を必要としている人たちがますます助けを求めにくくなる結果を生みました。実際に、薬物乱用の問題が日本よりももっと深刻な欧米圏で、薬物使用に対する厳罰化は薬物使用の歯止めにはならず、かえって問題を深刻化させているという実態が明らかになりました。薬物依存症患者さんたちにとって、薬物使用は辛い現実を生きるための生存手段であることがほとんどで、それを取り上げることは生きる手段を取り上げることになります。だから、薬物という生存手段を取り上げるのではなく、その他の生存手段を少しずつ手に入れることができるように支援するのが、ハーム・リダクションの支援方法です。
数年前にNHKでカナダでの具体的な取り組みが紹介されていました。街中に合法的に薬物を使用できる場所を作るという取り組みです。そこには看護師が常駐し、清潔な注射器が用意され、警察はそこを取り締まりません。看護師はそこで薬物を使用する人たちが危険な状態にならないか見守り、相談したい人がいれば相談に乗りますが、決して治療を強制しません。できるだけ安全な環境でできるだけ安全な方法で薬物を使用できるようにし、薬物使用者の尊厳を守ることを優先します。そして、さまざまな福祉サービスと連携し、薬物使用者が生活の中で抱える様々な課題を解決する方法を示します。そのようにして、依存症治療につなげるきっかけを作ると同時に、信頼できる人や安心できる場所を増やし、薬物以外に頼れるものを増やします。
日本はそもそも薬物使用者の数自体が欧米圏と比べて格段に少ないので、カナダと全く同じ取り組みが必要かは分かりません。今はそれよりも市販薬の濫用の方が問題かもしれません。それでも、薬物使用者に対するカナダ社会の寛容さと大胆さは、日本社会に欠如しているものだと思います。「薬物使用者は犯罪者で人生の落伍者である」という偏見が根強いのと、薬物使用者による凶悪犯罪のイメージがあるからだと思います。そのイメージはメディアによって作られた間違ったイメージです。薬物依存症患者に特化したデータは見つけられなかったのですが、令和2年版犯罪白書によると、精神障害者による犯罪は全体の検挙数の1%で、全人口に対する精神障害者の割合が2%であることを考えると、むしろ精神障害者の犯罪率は全人口よりも低くなっています。
他人の家の屋根に大きな穴を開けて、助けを必要とする人をイエス様のところに届けることは、私たちにとって具体的に何を意味するでしょうか?障害を障害とするのは社会です。無意識の偏見や排除を打破するためには、時に非常識な行動が必要です。
2. 障害や病に対するスティグマを取り除く
イエス様は、屋根から吊り下ろされてきた病人に対して、「子よ、あなたの罪は赦された」と語りかけました。
私はつい、イエス様がこの時どういう表情だったのか想像してしまいます。突然に自分の頭上の屋根が剥がされて、大きな穴が開けられたかと思ったら、寝たままの人が吊り下ろされてきたのです。その人に体の麻痺があること、彼を吊り下ろすために屋根の上に四人の人がいたこと、それでイエス様は彼らの思いがすぐに分かったと思います。彼らのイエス様への期待と麻痺に苦しみこの人への愛は明らかでした。イエス様は微笑んだか、ニヤリとしたか、もしかしたら大笑いして喜んだかもしれないと思います。
「子よ」という呼びかけは、とても親密なものです。そして、「あなたの罪は赦された」という宣言は、「病人や障害者は罪人である」という社会のスティグマからこの人を解放するためのものです。この人は他の人々よりも特別に罪深かったわけではなく、彼の犯した罪の罰として病気になったわけでもありません。「子よ」という親密な呼びかけ方にも現れているように、この人は病気になる前もなった後も、最初からずっと神様の子供でした。神様は、彼に対して怒っていたわけでも、彼を見捨てていたわけでもありませんでした。イエス様は、「あなたの罪は赦された」と宣言することで、彼を不要な罪悪感から救い、苦しみの終わりを告げたのだと思います。
このように、イエス様は、私たちの社会の目指すべきモデルをここで示してくださいました。それは第一に、障害や病気に関係なく、全ての人は神様に愛されている神様の子供であるという事実に立つことです。第二に、その事実が現実になっていないのは、私たちの無意識の偏見や差別によるもので、そういう社会の障壁を取り除くためには時に非常識な方法が必要であるということです。障害や病気を持つ当事者が神様に助けを求め、その周囲の人々も一緒に助けを求める時、私たちは一緒に社会の障壁を崩し、神様はそれを喜ばれ、応えてくださいます。
それでは後半の6-12節を読んでいきましょう。
B. 教会がイエス様から引き継いだ役割 (6-12)
6 ところが、そこに律法学者が数人座っていて、心の中で考えた。7 「この人は、なぜあんなことを言うのか。神を冒涜している。罪を赦すことができるのは、神おひとりだ。」8 イエスは、彼らが考えていることを、ご自分の霊ですぐに見抜いて、言われた。「なぜ、そんな考えを心に抱くのか。9 この人に『あなたの罪は赦された』と言うのと、『起きて、床を担いで歩け』と言うのと、どちらが易しいか。10 人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを知らせよう。」そして、体の麻痺した人に言われた。11 「あなたに言う。起きて床を担ぎ、家に帰りなさい。」12 すると、その人は起きて、すぐに床を担いで、皆の見ている前を出て行った。人々は皆驚嘆し、「このようなことは、今まで見たことがない」と言って、神を崇めた。
1. 罪のゆるし (マタイ 18:18, ヨハネ 20:23)
旧約聖書とユダヤ教の伝統の中で、人の罪を赦すことができるのは神様おひとりだけでした。世界の終わりに現れると預言されていた救い主(メシア)も、人の罪を裁くことが主な役割で、神様に代わって人の罪を赦すということは期待されていませんでした。(ダニエル書7章など。)また、神様ご自身が救い主としてこの世界に来られるという発想は、イエス様が現れるまで、誰も持っていませんでした。
でも、イエス様は現れ、十字架で死なれました。それによって、神様は裁きによってではなく憐れみと罪の赦しによってこの世界を変えようとされていることが示されました。その働きは、神様からイエス様へ、イエス様からイエス様を信じる者たちの群れである教会へ引き継がれました。二箇所、イエス様の言葉を読みます。
よく言っておく。あなたがたが地上で結ぶことは、天でも結ばれ、地上で解くことは、天でも解かれる。(マタイ18:18)
誰の罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。誰の罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。(ヨハネ20:23)
これらの言葉は、私たちが神様に代わって人々を裁いていいという意味ではなく、互いに罪を許し合いなさいという意味です。イエス様が十字架で私たちの罪を背負ってくださったように、私たちも互いの罪を許し合って、神様の憐れみと愛が実現することを求めなさいという意味です。それは、障害や病気に対する偏見によって傷ついたり、障害や病気は自分が何か悪いことをしたせいのかもしれないと混乱したりしている人に、「あなたの罪は赦されています。あなたは神様に愛されている神様の子供です」という真実を伝えることも含みます。この意味で教会は、様々な社会の障壁を神様からの罪の赦しという真実で壊すという使命を持っています。
2. 癒しの奇跡
最後に、イエス様が私たちに与えたもう一つの役割、癒しの奇跡を起こすことについて付け加えたいと思います。
イエス様が体の麻痺した人に「起きて床を担いで家に帰りなさい」と命じると、その人はその言葉の通りにすることができました。この「起きる」という動詞は、イエス様が死からよみがえられた時にも使われている動詞です。イエス様は、この人の麻痺を完全に癒し、この人に再び生きる希望を与えました。
私たちは、イエス様のように病気を癒す超自然的な力を持っているわけではありません。病気を癒すという奇跡を起こすことは難しいかもしれません。でも、絶望的な状況で希望を持てるとしたら、それ自体が奇跡だと思います。体の痛みの中でも、死の恐怖を前にしても、神様の愛を信じて希望を失わないでいられるのは、神様が起こしてくださる奇跡です。その人自身の神様への信頼に、神様が応えてくださっているのだと思います。また、今日の聖書の箇所にあったように、苦しみの中で共にいてくれる人たちの存在が奇跡を起こすこともあります。私たちは、なぜ自分の身にこんなことが起きるのか、主が良い方であるとはとても思えないような状況で、共にいてくれる人を通して、希望を取り戻せるということがあります。それは、神様が死者の中からよみがえられたのと同じように、神様の力が私たちに働き、私たちの希望を生き返らせてくださる奇跡です。だから、私たちは、実際に体を癒す奇跡を行えなくても、絶望の中に希望を作り出す奇跡を起こすことができます。
神様を信じることは、神様の愛を信じることです。そして、神様の愛は全ての人にひとしく注がれています。それを信じるということは、それを邪魔するものを壊していくことでもあります。間違った偏見。無意識の差別。不要な罪悪感。私たちの周りにあふれるそういうものを、時には非常識な方法を使って壊さなければいけない時があります。それは、私たち自身の心がまず砕かれるところからかもしれません。
(祈り) 主イエス様、どうぞ私たちの心をあなたの愛で砕いてください。あなたが私たちを赦してくださったように、私たちが互いに許し合うことができるように助けてください。そのために私たちの心を謙虚にさせてください。あなたの前に何も隠さずに出ていきます。どうぞあなたの霊で私たちの心を導いてください。あなたに私たちの心の中にあるものを全て委ねます。どうぞ調べて、間違いを正してください。主イエス様、あなたのお名前によってお祈りします。アーメン。
要約
<キャシー・ブラック著「癒しの説教学−障害者と相互依存の神学」を読むシリーズ第6回>神様は全ての人を、障害や病気に関係なく、等しく愛しておられますが、社会の中にはそのことを否定する障壁がたくさん存在しています。その障壁は意識されていないことが多く、それを崩すためには時に非常識で型破りな方法が必要です。また、教会は、障害や病気は神様からの罰ではないということを証し続ける使命を持っています。そして、イエス様を信じる人は誰でも、実際に体を癒す奇跡を行えなくても、人々の心の痛みに寄り添うことで、絶望の中に希望を作り出す奇跡を起こすことができます。
話し合いのために
- あなたの周りで、イエス様の愛を届けるために邪魔になっている壁はありますか?
- あなたが体験してきた「癒しの奇跡」はどんなものですか?
子どもたちと保護者の皆さんのために
1−5節を一緒に読んで、場面を想像してみてください。屋根が剥がされて、人が吊り下ろされてきた時、下にいたイエス様はどんな表情でそれを見ていたのでしょうか?微笑んだかもしれないし、ニヤリとしたかもしれないし、大笑いしたかもしれないと私は想像してしまいます。イエス様は、その大胆な行動を大変喜んだことは間違いありません。