ここは教会ではありません!

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ここは教会ではありません!

(マタイ 10:1, 5-8, マルコ 6:30,31, ルカ 10:38-42)

永原アンディ

 とても嬉しいことに、このところ、新しくユアチャーチに来られたり、久しぶりに来られて共に礼拝を献げてくださっている方々が増えてきたので、今朝は、私たちが大切にしている教会のあり方についてお話ししようと思います。

 もちろん、長く居てくださる方も再確認していただきたいので、しっかり聞いてください。 

A. 礼拝とミニチャーチ
1. ユアチャーチはどこにありますか?

初めにマタイによる福音書の10:1, 5−8を読みましょう。

イエスは十二人の弟子を呼び寄せ、汚れた霊に対する権能をお授けになった。汚れた霊を追い出し、あらゆる病気や患いを癒やすためであった。(中略)イエスはこの十二人を派遣するにあたり、次のように命じられた。「異邦人の道に行ってはならない。また、サマリア人の町に入ってはならない。イスラエルの家の失われた羊のところへ行きなさい。行って、『天の国は近づいた』と宣べ伝えなさい。病人を癒やし、死者を生き返らせ、規定の病を患っている人を清め、悪霊を追い出しなさい。ただで受けたのだから、ただで与えなさい。

 この場所はユアチャーチではありません。ここはユアチャーチが借りているビルです。ここは日曜日にユアチャーチが礼拝を献げる場所です。教会とは私たちが行く場所ではありません。教会は私たち自身なのです。

 ユアチャーチとは私たちのことです。このビルの中だけでなく、私たちがいるそこにユアチャーチは存在します。他のメンバーが共にいなくても、そこにイエスとあなたがいるなら、ユアチャーチはそこに存在しているのです。

 教会の本質は場所とか建物ではありません。教会はイエスと彼に従う人々のコミュニティーです。

 イエスは人々を救うため、助けるため、癒すために、慰めるために、力付けるために、この世界に来ました、そして教会を用いてそれを実現なさいます。 このコミュニティーの一員になるということは、このイエスの働きを担うということです。さまざまな形でさまざまな人々のお世話をするということです。

 ユアチャーチには牧師と呼ばれる人は二人しかいませんが、本当はイエスに従う人はみんな牧師です。池田牧師や私は皆さんのお客様担当係、苦情承り係ではありません。皆さんはお客様ではありません。

 私たち牧師は、皆さんが人々のお世話をするためのスーパーバイザーです。あなたが学校の先生であるなら、あなたはあなたのクラスの生徒たちの牧師です。あなたがオフィスワーカーなら、そこにいる人々の牧師です。家にいるときは家族の牧師なのです。家族の中でいちばん年少でも、職場でいちばんの新人であってもいいのです。相手の年齢や地位が上でも下でも、その魂のために祈り、あるいは話を聞くことができます。

 毎週日曜日の礼拝の終わりに、私たちは祝祷の言葉で送り出されてゆきます。 「あなたが遣わされているところに送り出します!」 そここそがあなたにとってのユアチャーチの最も主要な場所です。ここではありません。

2. なぜ貴重な日曜の朝ここにあつまるのですか?

 それではなぜ私たちは週に一回、たった1時間半の礼拝のために、ここに集うのでしょうか?

 どんなに高性能の車でも燃料が切れれば走れません。私たちも同じです。週の初めの日に共に捧げる礼拝は、私たちが1週間走り続けるためのエネルギーを補充するための魂のガソリンスタンドです。ただし、セルフサービスです。店員が満タンにしてくれるわけではありません。じぶんでノズルを持って注入するのです。

 ここにただ身を置いていれば済むのではなく、自分で霊的な口を開き、耳を開き、全てのことを脇に置いて真剣に礼拝するという意味です。そして、満たされて自分の遣わされているところに向かうのです。 

 マルコによる福音書には、遣わされて出て行き、帰ってきた弟子たちにイエスが命じられたことが記されています。

使徒たちはイエスのところに集まって来て、自分たちが行ったことや教えたことを残らず報告した。イエスは、「さあ、あなたがただけで、寂しい所へ行き、しばらく休むがよい」と言われた。出入りする人が多くて、食事をする暇もなかったからである。

3. 私のケアは誰がしてくれるのですか?

 しかし車に燃料補給だけでなくさまざまなメンテナンスが必要であるように、私たちの魂にもメンテナンスが必要です。それをどこで受けられるのでしょう。

<ミニチャーチ>です。イエスは彼を信じ彼に従う二人三人が集まるところに彼もまたおられると約束してくださいました。ミニチャーチです。ミニチャーチは実際にミニチャーチとして認識されていないところにも存在します。ユアチャーチの誰かと会って話したり、祈ったりすることがあれば、それは実質ミニチャーチです。ここで私たちは互いに必要なお世話をしあうのです。

 なぜ、30年間、ミニチャーチを強調し続けてきたのでしょうか?それは礼拝の他に、ミニチャーチがなければ、私たちが遣わされたところの牧師としての役割を十分に果たすことができないからです。私たち自身が、祈られ、励まされ、話を聞いてもらう必要のある弱い存在だからです。

B. 良い霊的ガソリンスタンドの見分け方
1. 純粋な燃料を提供しているか?

 ミニチャーチのような集まりを日曜日にできませんか?と言う質問をされることがあります。確かに多くの教会は、日曜日の午後にミニチャーチに代わるような集まりを持っています。しかし私たちはそれを積極的に教会のミーティングとして行うつもりはありません。

 気の合う人同士でランチしておしゃべりしたら、それはミニチャーチです。速攻で家に帰って家族で食事をして、今日イエス様のこんな話を聞いたよとおしゃべりしたらそこにもミニチャーチがあります。その方がずっといいと思うのです。

 その理由をお話ししましょう。私がイエスを信じて初めてメンバーとなった教会には、自分と同世代の若者が多くいました。さまざまな活動にも熱心でした。しかし、次の世代に繋がりませんでした。教会の平均年齢は毎年一才づつ高くなっていくようでした。それでもそこにいた人たちは、ますます熱心に教会の働きを支えようとさまざまな役割を担っていました。特に日曜日には礼拝の後にもさまざまなミーティングに時間を捧げていました。 結果的に日曜日は週のうちで一番疲れる日となっていました。

 やがて、その教会の牧師の一人となった私は、何とか教会の健康を取り戻したいと、できることは何でもしてみました。健康そうな教会に出向いて健康の秘訣を発見しようと努めました。その努力によって得られた発見が、後のユアチャーチの出発点になりました。  それは、他の全てを脇に置いて礼拝に集中するということです。今私たちが献げているような礼拝です。

 今では同じような礼拝を献げる教会が日本にも多くありますが、当時は多くの人に「こんなのは礼拝じゃない」と言われていました。けれども、私はこれほど神様にリアルに近づける礼拝はないと確信しています。 その確信は30年間変わっていません。

 ただし、前にも言いましたが、ここはセルフサービスです。ボーっと座っていても何も起こりません。心を尽くし、魂を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、私たちの神である主を礼拝しましょう。

2. 燃料以外のものを売りにしていないか  

 自分にとって初めての教会がユアチャーチだった人には何も疑問を感じられないのですが、他の教会を知っている人には「聖書研究会」も「祈り会」も「青年会」も「婦人会」も「伝道委員会」も「会計委員会」も「お掃除当番」もない教会って大丈夫?ってなるのも無理はありません。

 ユアチャーチでは、日曜日に、誕生日の人をお祝いすることもありません。 去年、100才になった人だけはお祝いするというルール変更はありましたが。 父の日や母の日や子供の日のお祝いもしません。日曜日の午後は基本何もありません。そして、毎週同じような、目新しいことのない礼拝を献げてきました。 

 なぜだと思いますか?イエスとあなたが親しく過ごすのに邪魔になることはできるだけ避けたいからです。

 キリスト教会でよく使われる言葉なのに、ユアチャーチでは、ほとんど聞かない言葉が多くあります。たとえば「奉仕」です。教会の中での仕事をみんなで担おうということなのですが、これが疲れる原因の一つであるばかりか、批判や不満の原因にもなる厄介ものです。前の教会での奉仕に疲れ果ててユアチャーチに来る方は多いのですが、ある人に「今行っている教会では私には奉仕の機会が与えられないのです。」と言われたことがあります。困りましたが、私は正直に「ユアチャーチには“奉仕の機会”どころか奉仕という概念さえ存在しません」と答えました。

 「奉仕」がイエスに仕えることであるならば、先にお話しした通り「奉仕」の場は私たちが週日に身を置いているところです。日曜日は私たちにとって安息日でもあるはずです。その安息日に疲れ切って、ブルーな1週間が始まるっておかしくありませんか? これでは到底、遣わされたところの牧師としての務めを果たせるわけがありません。

 ですから教会という建物や組織を維持するための仕事はできる限り少なくして、皆さんにはそれぞれの持ち場で元気に働いていただくというのが私たち牧師の勤めだと思っているのです。ガソリンを入れに来ただけなのに、ガソリンスタンドで引き止められて、スタンドのスタッフや他のドライバーとの昼食会とか親睦会で午後中そこにいなければならないとしたらどう思いますか?わたしなら別のスタンドに行きます。

3. 礼拝を残念なガソリンスタンドにしないために

 なぜ日曜日の教会は疲れるのでしょうか?それはフォーカスが神様ではなく人に向いているからです。ルカ10:38-42を読みます。

さて、一行が旅を続けているうちに、イエスはある村に入られた。すると、マルタと言う女が、イエスを家に迎え入れた。彼女にはマリアと言う姉妹がいた。マリアは主の足元に座って、その話を聞いていた。マルタは、いろいろともてなしのために忙しくしていたが、そばに立って言った。「主よ、姉妹は私だけにおもてなしをさせていますが、何ともお思いになりませんか。手伝ってくれるようにおっしゃってください。」 主はお答えになった。「マルタ、マルタ、あなたはいろいろなことに気を遣い、思い煩っている。しかし、必要なことは一つだけである。マリアは良いほうを選んだ。それを取り上げてはならない。」(ルカ10:38-42)

 私たちは時々、自分の信仰はマリア的かマルタ的かと自問自答してみるべきです。「私は日曜日に誰に会いにここにくるのか?」「ここで誰に認めてもらいたいのか?」「誰と親しく語り合いたいのか?」

 これらの問いの答えが、すべて主イエスでなければ、あなたはユアチャーチに満足することはできないでしょう。ユアチャーチは日曜日にイエスにフォーカスし、ミニチャーチで互いにケアし合うことで命を保っているのです。

 私は皆さんに、教会の誰とでもよく知り合って仲良くして欲しいと思っていません。それは大変努力を要することです。ユアチャーチの人と付き合うのに時間を使いすぎて、それ以外の人々、特に信仰を持たない人々と過ごす時間が持てないなんて最悪です。

 ですから、ユアチャーチではミニチャーチの仲間や少数の気の合う友達がいれば十分なのです。ユアチャーチの礼拝にはいろいろな人がいます。それを見るのはとても嬉しいことです。イエスを知らない人、他宗教の人、他の教会で疲れて切ってしまった人やその人の在り方が喜ばれなかった経験をした人でもここなら大丈夫です。

 しかし、どんな人でも歓迎される教会であり続けるために一人一人が気をつけなければならないことがあります。人はどうしても自分を基準に人を判断してしまいがちです。

 常識的な人は他人も常識的に振る舞えて当然と思い非常識を責めたくなるのです。 たとえば礼拝の前後に誰とでもにこやかに挨拶できるのは常識的な人でしょう。 しかし、さまざまな理由でそれができない人でも安心して来られるのがユアチャーチの礼拝です。来てもチャペルに入らずカウチで寝そべってモニター越しに礼拝する人でも歓迎の礼拝です。教会が「礼拝後には、誰とでもにこやかにご挨拶しましょう」と勧めたら来たくなくなる人がいることを知っていてください。

 常識人の皆さん、自分とは異質な人、あまり仲良くなりたいと思えない人とも共に献げられるユアチャーチの礼拝を誇りに思ってください。自分と同質の人しか居られない教会なら、それはユアチャーチではなくアワチャーチです。

 自分はいろいろな面で他の人と同じようにはできないと思っている皆さん、安心してここにいてください。みんなと仲良くなる必要はありません。全ての人に関心を持つ必要もありません。近付き難い人がいても構いません。ユアチャーチの礼拝はあなたがイエスと共に歩むためにあるのです。

 私たちはつながり合っているコミュニティーですが、その根拠は互いの信頼ではなく、イエスへの信頼なのです。人工的な一致はなくても、イエスによる一致があります。この聖なるバラバラ感を喜びましょう。

(祈り) 神様、私たちはあなたに礼拝を献げるためにここにいます。
あのペンテコステの日にしてくださったように、あなたの霊を私たちの魂に注いでください。
私たちの魂がただあなただけに向けられますように。
心を尽くし、魂を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたを礼拝します。
どうぞあなたの声を聞かせてください。あなたの知恵を悟らせてください。
そしてこの1週間、あなたの力によって遣わされたところで務めを果たすことができますように導いてください。
感謝して、期待して、イエス・キリストの名前によって祈ります。


要約

  私たちは時々、自分の信仰はマリア的かマルタ的か(ルカ10:38-42)と自問自答してみるべきです。「私は日曜日に誰に会いにここにくるのか?」「ここで誰に認めてもらいたいのか?」「誰と親しく語り合いたいのか?」 これらの問いの答えが、すべて主イエスでなければ、あなたはユアチャーチに満足することはできないでしょう。ユアチャーチは日曜日にイエスにフォーカスし、ミニチャーチで互いにケアし合うことで命を保っています。

話し合いのために

1. 教会とは何ですか?

2. 教会に求められている一致とはどのようなものですか?

子どもたち(保護者)のために

マリアとマルタ(ルカ10:38-42)の箇所を読んで、イエスが私たちに何を望んでいるか考えさせてください。それが心からの礼拝であり、保護者がこの礼拝でいただく心の糧によって生きているということ、礼拝をどれほど大切にしているかということを伝えてください。