イエス様が死ななければいけなかった理由

Christ Healing the Leper, from Das Plenarium MET
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イエス様が死ななければいけなかった理由


レント第一日曜日 (ヨハネによる福音書11:45-57)

池田真理

 今日はレント(四旬節・受難節)の第一日曜日にあたります。レントはイエス様の復活を祝うイースター(復活祭)までの40日間です。今年は3月5日から4月17日までがレントの期間で、4月20日がイースターです。この期間は、教会の伝統として、特にイエス様の苦しみを思い起こして過ごすことが勧められています。

 今日は、ヨハネによる福音書の続きを読んでいくのですが、レントを始めるにあたってもふさわしい箇所だと思います。イエス様は何のために苦しまれたのか、なぜ死ななければならなかったのか、今日の箇所を通して改めて考えられればと思います。最初にこの箇所の後半を読んで始めたいと思います。ヨハネによる福音書11:53-57です。

53 この日から、彼らはイエスを殺そうとたくらんだ。54 それで、イエスはもはや公然とユダヤ人たちの間を歩くことはなく、そこを去り、荒れ野に近い地方のエフライムという町に行き、弟子たちとそこに滞在された。55 さて、ユダヤ人の過越祭が近づいた。多くの人が身を清めるために、過越祭の前に地方からエルサレムへ上った。56 彼らはイエスを捜し、神殿の境内に立って互いに言った。「どう思うか。あの人はこの祭りには来ないのだろうか。」57 祭司長たちとファリサイ派の人々は、イエスの居所が分かれば届け出よと、命令を出していた。イエスを逮捕するためである。


 読んだ通り、この箇所は、宗教指導者たちによってイエス様の逮捕と殺害の方針が決定された場面です。なぜ彼らがイエス様を捕らえて殺そうとするに至ったのか、彼らの間違った動機はそのまま私たちにも共通するものです。45-50節を読んでいきましょう。

A. 私たちがイエス様を殺した理由

45 マリアのところに来て、イエスのなさったことを見たユダヤ人の多くは、イエスを信じた。46 しかし、中には、ファリサイ派の人々のもとへ行き、イエスのなさったことを告げる者もいた。47 そこで、祭司長たちとファリサイ派の人々は最高法院を召集して言った。「この男は多くのしるしを行っているが、どうすればよいか。48 このままにしておけば、皆が彼を信じるようになる。そして、ローマ人が来て、我々の土地も国民も滅ぼしてしまうだろう。」49 彼らの中の一人で、その年の大祭司であったカイアファが言った。「あなたがたは何も分かっていない。50 一人の人が民の代わりに死に、国民全体が滅びないで済む方が、あなたがたに好都合だとは考えないのか。」

1. 財産や権力が一番大切だから

 ファリサイ派や祭司長と呼ばれる人たちは皆、当時のユダヤ人社会の中では宗教的にも政治的にも権力を持つ指導者たちでした。でも、彼らの地位や権力というのは、ローマ帝国の支配下にあってユダヤ人に認められていた自治権の範囲内のことです。もし、ユダヤ人がローマ帝国に従わなかったり、帝国に反逆することを疑われたりすれば、ユダヤ人の自治権は奪われて、ユダヤ人指導者たちの地位と権力も奪われます。だから、多くのユダヤ人の民衆がイエス様に熱狂していることに、彼らは危機感を持ちました。このままではイエス様の社会的影響力は強まる一方で、ローマに反逆を疑われ、自分たちの地位が危うくなると恐れたのです。そして、イエス様ご自身には政治的意図も野心も何もなかったにも関わらず、彼らはイエス様を殺すという重い決定を簡単に下しました。

 彼らの過ちは、私たちも犯す過ちです。財産や権力というのは、持っていれば安心をくれます。財産があれば欲しいものが手に入り、将来への不安が減りますし、権力があれば他人に従うことなく自分の望みを叶えやすくなります。つまり、財産や権力が私たちにくれる安心というのは、私たちが自己中心的に生きやすくなるという意味での安心です。それは本当の安心でも幸せでもありませんが、私たちは財産や権力が自分を幸せにしてくれると誤解しがちです。そして、一度手に入れた財産や権力を手離すことや失うことに、大変な不安と屈辱を感じます。だから、それらを奪われることを恐れて、他人のものを奪ったり傷つけたりすることに疑問を感じなくなってしまいます。

 この教会に集まっている私たちの多くは、そもそもそんなに財産も権力も持っていないかもしれません。だからこの話は自分には関係ないと思われるかもしれません。それでも、神様は私たちの必要をいつも満たしてくださるということを忘れないでいることは大切です。神様は良い方であると知っている私たちは、自分の財産が他人の財産より少なくても焦りませんし、引け目も感じませんし、与えられたものに満足しています。年下の人が自分より上の立場になっても妬みませんし、卑屈にもなりませんし、自分にできることを誠実に続けます。私たちの安心の出所は、罪人の私たちを愛してくださったイエス様の愛にあり、私たちが喜ばせたいのはそのイエス様だけなのです。

2. 正義を求めないから

 さて、ユダヤ教の宗教指導者たちがイエス様を殺そうとした理由は他にもあります。彼らは、正義が何かを求めませんでした。彼らは、イエス様の言葉と行いをよく知ろうともせず、イエス様が自分たちにとって政治的脅威だからという理由だけで、イエス様を殺すと決めました。それが無実の人を殺すという重大な過ちであるとは、彼らは思いませんでした。

 私たちは、自分が正義だと思っていることが、本当に神様から見ても正義なのか、慎重に考える必要があります。私たちはどんなに頑張っても神様の視点を完璧な形で持つことはできません。そのことを忘れないで、自分が正しいと信じていることを疑う謙虚さと勇気を持っていることが、神様の正義を実現するために何より重要だと思います。私たちは、神様に罪を赦された罪人に過ぎません。イエス様が十字架で苦しまれたのは、私たちがこのことをあまりに簡単に忘れて思い上がり、自分が正しいと信じて他人を排除しようとしてしまうからです。

3. 人間を超えた存在への畏れを持たないから 

 私たちがイエス様を苦しめ続けてしまう理由のもう一つは、私たちが人間を超えた存在への畏れを持たないことにあります。

 超自然的なものへの畏れというのは、科学が発達していなかった古代の人々の方が持ちやすいように思えますが、実際は古代も現代もあまり変わらないのかもしれません。というのは、ユダヤ教の宗教指導者たちは、イエス様の数々の奇跡を直接見聞きしていたにも関わらず、イエス様への畏れを持たなかったからです。彼らにとって神様を信じるということは律法を守って生活することを指し、神様の力が自分たちの生活に介入してくるということは、その可能性すら想定していなかったのかもしれません。

 私たちも、神様に期待して待つということを忘れていないでしょうか?神様を信じるということは、どんな状況においても、神様がしてくださることを期待して希望を持って待つということです。神様は奇跡を起こしてくださるかもしれないし、起こして下さらないかもしれません。どちらにしても神様が良い方であることは変わらず、私たちを愛してくださっていることには変わりありません。大切なのは、私たちが奇跡ばかりを求めるのではなく、反対に奇跡を全く期待しないのでもなく、どんな状況でも神様を信頼することです。神様に期待するのをやめてしまうとしたら、私たちはもう神様を信頼していることにはなりません。そうなると私たちは自分を頼るしかなく、私たちはイエス様を私たちの心から追い出してしまいます。

 このように、私たちの側にはイエス様を殺してしまう理由がいくつもあります。でも、イエス様はただ殺されてしまったのではなく、自ら進んで命を差し出してくださったという側面もあります。それを確認しておきましょう。51-52節を読みます。

B. イエス様が死なれた目的

51 これは、カイアファが自分から言ったのではない。その年の大祭司であったので預言をして、イエスが国民のために死ぬ、と言ったのである。52 国民のためばかりでなく、散らされている神の子たちを一つに集めるためにも死ぬ、と言ったのである。

1. 神の子の共同体を作るため


 この2節は、福音書著者による解説です。「大祭司の言葉は預言であって、その預言はイエス様の死の目的について説明しているのだ」という解説です。それによれば、イエス様は「散らされている神の子たちを一つに集めるために死ぬ」のだと言われています。これは、イエス様の言葉を思い起こさせます。

私は羊のために命を捨てる。私には、この囲いに入っていないほかの羊がいる。その羊をも導かなければならない。その羊も私の声を聞き分ける。こうして、一つの群れ、一人の羊飼いとなる。(ヨハネ10:15b-16)

 イエス様は、ご自分の命を献げることによって、私たちを愛しておられることを証明してくださいました。そして、そのことを信じる者たちが、互いに愛し合う新しい生き方を始めることを望まれました。育った環境が違い、しゃべる言語も親しんできた文化も違い、見た目も性格も違う私たちは、そのままであればそれぞれが違う方向を向いています。でも、ただ一人の同じイエス様を愛しているという点において一致できます。だから、国籍も人種も年齢も時代も超えて、教会はただ一つであり続けます。反対に言えば、イエス様に対する愛においてだけは一致していなければ、私たちは教会ではありません。それ以外のことでは一致できなくてもいいし、むしろ全然違っている方が自然です。

 イエス様がその命を献げてくださったのは、私たちが互いに許しあって愛し合うことができるためであるということを忘れないでいましょう。

2. 罪の中でも愛と正義を実現するため

 今日最後に心に留めたいのは、大祭司カイアファを通して神様が語られているという解説についてです。福音書著者のヨハネは、イエス様に対して悪意を持っていたカイアファさえも神様は用いられて、神様の言葉を伝えたのだと解説しています。つまり、神様は人間の悪意さえもご自分の計画を実行するために用いられるのだという意味です。

 私は、最初はこの解説に違和感を持ったのですが、考えてみればこれが私たちの世界の現実なのだと思い直しました。この世界には人の悪意があふれているので、人の悪意を全部取り除かなければ神様の計画が進まないとしたら、それは不可能なことです。だから、そのためにこそイエス様は十字架で苦しまれました。私たちが罪の中にあっても、神様の愛を信じられるように、神様の正義を求められるように。人の悪意に傷つけられても、憎しみに支配されずに前に進めるように。絶望の中でも希望を生み出せるように。神様の愛と正義は、私たち人間の罪の中にこそ働き、弱い私たちを造り変えます。そのようにして、神様はこの世界を変える働きを私たちに委ねておられます。

(祈り) 主イエス様、あなたが死ななければならなかったのは、私たちを救うためでした。私たちはあなた以外のものを神であるかのように礼拝して、虚しいものを追い求めていることに気付かず、思い上がってしまう者です。どうぞ、あなたの十字架の愛によって、私たちが向くべき方向がどちらなのか、一人ひとりに分かるように示してください。自分の間違いをあなたに正していただけるように、私たちに謙虚さと正直さを与えてください。互いに対しても、誠実に語り合うことができますように。あなたを愛することにおいて一致していることに、私たちが互いに喜べますように。主イエス様、あなたの霊によって私たちを成長させてください。あなたのお名前によってお祈りします。アーメン。


要約

財産や権力が自分を幸せにしてくれると思っている限り、私たちは他人を傷つけ、他人から奪い、イエス様を苦しめ続けることになります。正義がどこにあるのかを真剣に求めることなく自分の利益を優先することも、イエス様の命を奪う過ちを繰り返すことになります。人間を超えた存在への畏れを持たなければ、私たちは神様以外のものを礼拝している自らの過ちに気が付けません。イエス様は、十字架で自らの命を献げることによって、神様の願いを私たちに分かるように教えてくださいました。神様の願いは、私たちが罪の中にありながら、神様の愛と正義を実現できるようになることです。

話し合いのために
  1. イエス様を殺したのは自分でもあるという自覚を、あなたはどのように持ちましたか?
  2. 「散らされている神の子たちを一つに集める」とはどういう状態を指すのでしょうか?そのために私たちはどうするべきなのでしょうか?
子どもたちと保護者の皆さんのために

イエス様の復活を祝う時(イースター)までの40日間を教会では「レント(四旬節)」と呼んで、イエス様が私たちのために苦しまれたことを特に思い起こして過ごす期間として定めています。子どもたちに覚えてほしいのは、イエス様は私たちの苦しみを一緒に(代わりに)苦しんでくださる方だということです。最近、辛いな、きついな、苦しいなと思うことはあったでしょうか?イエス様はその時一緒にいたと思いますか?一緒に話し合ってみてください。