年代物のワインと肉の鍋

写真提供:トラットリア ルーリオ 牛込神楽坂
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日曜礼拝・英語通訳付

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年代物のワインと肉の鍋

(ルカによる福音書5:37-39, 9:57-62, 出エジプト記16:1-3)

永原アンディ

 1ヶ月前にユアチャーチがどのような教会なのかということについてお話ししましたが、今日はその続きです。今日の題と写真を見て美味しそうなお話を期待した人にはごめんなさい。最初に謝っておきますが、今日は渋いワインのような、硬い肉のような口当たりの悪い話になると思います。

1. 新しい革袋 (ルカによる福音書5:37-39)

ルカによる福音書5:37-39を読みましょう。

37 また、誰も、新しいぶどう酒を古い革袋に入れたりはしない。そんなことをすれば、新しいぶどう酒は革袋を破って流れ出し、革袋も駄目になる。
38 新しいぶどう酒は新しい革袋に入れねばならない。
39 古いぶどう酒を飲めば、誰も新しいものを欲しがらない。『古いものが良い』と言うのである。」

 イエスが教えられ始めた時、彼の教えは革新的で当時のイスラエルの宗教家たちにはついてゆけませんでした。異端的で危険なカルトのように見られていたのです。

 また、イエスは当時の宗教家たちが罪人とみなしていた社会の周辺に追いやられていたような人々と親しくしていたので、そのことでも多数派からは嫌われていました。

このイエスの言葉は「なぜあなたの弟子たちは他の宗教グループのように“普通”にできないのか」と問われた時の答えです。人は誰でも自身の慣れた環境を好み、新しいものを避けようとする傾向をもっています。教会のあり方についても例外ではありません。例外でないどころか、むしろより強くこの傾向が見られます。

 それは、大切な教えを守ろうとする態度から来るもので、この態度自体は必要不可欠です。しかし教会は、教えだけではなく、自分たちの中で育まれた伝統や文化までも守るべきものとしてしまうという失敗を繰り返してきました。

 15世紀の宗教改革は1500年の歴史の中で伝統と文化で見えなくなってしまった福音を再発見することだったのです。しかし、そこからまた500年経っています。

 1500年分ほどではないにしても、それなりにイエスの福音の周りには、ずいぶん余計な文化・伝統が表面を覆って福音が見えにくくなっている状態になっていると思います。あるいは、この50年といったもっと短いサイクルで考えても、古い文化に執着する教会が廃れ、新しい文化を取り入れた教会が生まれるということが起こっています。

 厄介なことに、私たちは伝統や文化の中に生きていて、その中にいる人にとってそれらは水や空気のように当たり前になっていて、そのことが当たり前ではない人々を遠ざけることになってしまうのです。

 私たちがユアチャーチを始めたのは、それまでの教会には馴染めない人々を招くためでした。新しいワインを入れるためには新しい革袋(教会)が必要です。私はこのことを二つの失敗を通して学びました。

 私の第一の失敗は、新しいワインを古い革袋に入れようとしたことです。

私は古い教会に新しい人々の来られる環境を作ろうとしましたが、昔からいた人々はそれを嫌がりました。考えてみれば無理もありません。たとえば古い讃美歌が大好きな人たちには、新しいワーシップソングは心地が良くありません。慣れ親しんできた礼拝の形式を変えるには大きな抵抗があります。人々は若い人たちに来てほしいと願っていましたが、そのために自分の心地よさを犠牲にするつもりはありませんでした。私はその教会にはいられなくなりました。

 私の第二の失敗は古いワインを新しい革袋に入れるという失敗でした。せっかく新しい教会を始めるチャンスを得たのに、すでに古い革袋の中で熟成していた人々と共に始めてしまったのです。彼らは、しばらくは新しい革袋に我慢してくれていましたが、一年が限界でした。新しい皮袋は居心地が悪かったのです。

 そうして、ユアチャーチは新しいワインを入れる革袋になることを目指して始まったのです。そして30年が経ちました。私たちはもはや“新しい革袋”ではないのでしょうか?古いワインしか入れられない古い革袋になってしまったことを認め、新しくあり続けることを諦めるべきなのでしょうか?

 わたしは、イエスは私たちに新しい革袋であり続けることを求めておられると信じています。先週、「医者を必要とするのは、健康な人ではなく病人である。 私が来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためである。」というイエスの言葉を紹介しました。

イエスはまた、ご自身の使命が囲いの中にいる九十九匹の羊の世話ではなく、迷い出たままの羊を助けて、囲いに導き入れるのが自分の使命だと考えておられました。さらにイエスは放蕩息子の譬え話で、弟を歓待する父に憤る兄に対して「あなたはずっと私と共にいたのだから、弟の帰還を私と共に喜ぶべきではないか」と父に言わせています。これらが、私たちに新しい革袋であり続けなさいというイエスの意思を物語っています。

 何をお伝えしたいかわかっていただけるでしょうか?私たちはすでに健康にされた者であり、囲いの中で保護されている羊であり、父と共に暮らしていた兄だということです。

 私たちはイエスと共に過ごす快適な生活の中で、自分も病人であったことを忘れ、迷子の羊であったことを忘れ、放蕩息子の兄のように、神様が心配している誰かではなく、自分がどう扱われるかに関心が移ってしまう傾向をもっているのです。そしてそれが、教会という革袋を古くする原因です。

 39節の、「 古いぶどう酒を飲めば、誰も新しいものを欲しがらない。『古いものが良い』と言うのである。」 が私たちへの警告です。ユアチャーチの文化が、長くいる者にとって口当たりの良いものになっているとすれば、ユアチャーチは新しいワインには耐えられないものになっている可能性があります。それはユアチャーチがアワチャーチに変化してしまうということです。私たちが自分にとっての心地良さを求め始めれば、私たちはもはやユアチャーチではなくアワチャーチなのです。ユアチャーチのユーは、病人、迷子の羊、放蕩息子であり、彼らをを迎え入れたい神様です。ユアチャーチという私たちの名前は、新しいワインを歓迎し続けますという意志を言い表しているのです。

2. エジプトの肉鍋 (出エジプト記16:1-3, ルカによる福音書9:57-62)

(出エジプト記16:1-3)こうして、イスラエル人の全会衆はエリムをたち、エリムとシナイの間にあるシンの荒れ野に入った。それは、エジプトの地を出て、第二の月の十五日のことであった。
2 イスラエル人の全会衆は荒れ野でモーセとアロンに向かって不平を言った。
3 イスラエルの人々は二人に言った。「私たちはエジプトの地で主の手にかかって死んでいればよかった。あのときは肉の鍋の前に座り、パンを満ち足りるまで食べていたのに、あなたがたは私たちをこの荒れ野に導き出して、この全会衆を飢えで死なせようとしています。」

 出エジプト記を読んだことがありますか?旧約聖書は眠れない夜の睡眠薬として使えるくらい難解で退屈だと思える部分も多いのですが、出エジプト記は映画になっているくらい物語としても興味深いものです。
 出エジプト記は、奴隷として苦しんだ民族を神様がモーセを用いて約束の地へと導き出す物語です。その道のりは直線距離なら約400キロメートル、町田から神戸くらいまでの距離です。もちろん彼らの移動手段は徒歩で、老人も、幼児もいる民族集団でしたが、それでも数ヶ月で到着できるつもりだったはずです。けれども彼らが約束の地に入れたのは40年後のことでした。

 今読んだ出来事が起こったのは、エジプトを脱出してからまだ1ヶ月ほどしか経っていなかった時でした。奴隷として苦しんでいたエジプトから脱出することができ、神様をほめたたえて意気揚々と約束の地へと向かう旅は始まったばかりでしたが、旅のさまざまの苦難に、夢も希望もあっという間に萎んでいったのです。
 私が革袋の原則を知らずに犯した2度目の失敗の状況は、まさにこのテキストのようなものでした。人々は目新しいミニストリーに希望を持ちましたが、それがすぐに形となって現れないと、始まったばかりの教会に失望を感じ始めました。そして以前所属していた教会でしてきたことを懐かしく思い始めたのです。「もっと古い讃美歌を歌いましょう」「“ちゃんとした”礼拝をしましょう」。 私は古い革袋に戻ることを断り、人々は居心地の良いところに戻っていきました。

 2度の失敗でなかなか勇気が出ませんでしたが、その後、神様がさまざまな人を通して語りかけてくださりユアチャーチを始める決心をしたのです。そしてイスラエルの民の荒野を彷徨った40年ほどではありませんが、私たちも30年間、歩み続けてきました。
 この歩みの中でも、あの時の肉の鍋が恋しいというような声を聞くことがあります。それは私を意気消沈させる最強の言葉です。それがユアチャーチに相応しくない考えだということを30年間、語り続けてきたのですから。 「あの日にかえりたい」はカラオケで歌うだけにしておきましょう。

 南カリフォルニアに、「道の途上にある教会」という名前の教会があります。40年くらい前に訪れたことがあります。40年前から道の途上にある教会であり、そして今も道の途上にある教会です。 その名前は「ユアチャーチ」と同じぐらい、教会の本質を言い表しています。 そうです。教会は常に道の途上にあるのです。教会はイエスが再び来られる時、神の国が完成するときまでずっと途上にあるのです。ここは出発点でも終着点でもなく、道の途上です。それは、立ち止まることなく前に向かって進み続けているということです。

 私たちに向かって「30年前のユアチャーチに戻った方がいい」などと当時の雰囲気を懐かしんで言う人がいるなら、その人は実際には共に前進していない傍観者だということです。
 確かに、旅の途上では心地良くないことがいくらでもあります。でも私たちはよろこんで自分の居心地を犠牲にしてユアチャーチになったのではありませんか?イエスご自身が、彼に従って歩む労苦を弟子たちに伝えています。そして、それでも後ろを振り返らずに歩み続けましょうと勧めています。ルカによる福音書9章57-62節を読みます。

彼らが道を進んで行くと、ある人がイエスに、「あなたがお出でになる所なら、どこへでも従って参ります」と言った。イエスは言われた。「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子には枕する所もない。」そして別の人に、「私に従いなさい」と言われたが、その人は、「主よ、まず、父を葬りに行かせてください」と言った。イエスは言われた。「死んでいる者たちに、自分たちの死者を葬らせなさい。しかし、あなたは行って、神の国を告げ知らせなさい。」また別の人も言った。「主よ、あなたに従います。しかし、まず私の家の者たちに別れを告げることを許してください。」イエスはその人に、「鋤に手をかけてから、後ろを振り返る者は、神の国にふさわしくない」と言われた。

これがイエスに従って歩む道の現実です。みなさんはこのイエスの「私に従いなさい」という声にどう応えますか?

(祈り) 神様、あなたがわたしたち一人一人に「私に従いなさい」と呼びかけてくださったことをありがとうございます。
そして今日まで、あなたと共に歩んでこられていることをありがとうございます。
これからも、私たちがあなたの思いにかなった者たちとして歩み続けることができるように導いてください。
感謝して、期待して主イエスキリストの名によって祈ります。


要約

イエスは全ての人の尊厳を回復するために、この世界に来られ、人々に教え、イエスに従って生きようと決心した者たちにその働きを委ねられました。それが教会です。しかし教会の「罪人の集まり」という側面は、常に教会を変質させてしまう傾向を持っています。私たちは、そのことを自覚して新しい革袋であり続けましょう。

話し合いのために

1. 新しい革袋の教会とはどのようなものですか?

2. どうして人は古き良きものを好むのですか?

子どもたち(保護者)のために

ルカによる福音書9章57-62節を読んで、イエスに従って生きることについて自分たちの考えを子供達に伝えてください。