私たちはイエス様をどれくらい愛しているだろう?

Frans Francken the Younger, Public domain, via Wikimedia Commons
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日曜礼拝・英語通訳付

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私たちはイエス様をどれくらい愛しているだろう?


レント第4日曜日 (ヨハネによる福音書12:1-8)

池田真理

 今日はいつもなら「障害者と相互依存の神学」シリーズの回なのですが、イースターを迎えるにあたってヨハネによる福音書のシリーズの続きをすることにしました。順番通りに読んでいけば、ちょうどシュロの日曜日にシュロの日曜日の箇所を読むことになるので、そうしました。障害のシリーズを楽しみにしてくださっている皆さん、来月をお待ちください。

 今日のメッセージのタイトルは、「私たちはイエス様をどれくらい愛しているだろう?」という問いかけです。これは、この箇所が私たちに問いかけている問いだと思います。「どれくらい愛しているか?」という問いに答えるのは難しいことですが、私たちはイエス様に対する愛をどのように示すべきなのかという問いでもあります。

 それでは、短い箇所ですので全体を読みたいと思います。ヨハネによる福音書12:1-8です。

1 過越祭の六日前に、イエスはベタニアに行かれた。そこには、イエスが死者の中からよみがえらせたラザロがいた。2 イエスのためにそこで夕食が用意され、マルタは給仕をしていた。ラザロは、イエスと共に席に着いた人々の中にいた。3 その時、マリアが純粋で非常に高価なナルドの香油を一リトラ持って来て、イエスの足に塗り、自分の髪でその足を拭った。家は香油の香りでいっぱいになった。4 弟子の一人で、イエスを裏切ろうとしていたイスカリオテのユダが言った。5 「なぜ、この香油を三百デナリオンで売って、貧しい人々に施さなかったのか。」6 彼がこう言ったのは、貧しい人々のことを心にかけていたからではない。自分は盗人であり、金入れを預かっていて、その中身をごまかしていたからである。7 イエスは言われた。「この人のするままにさせておきなさい。私の埋葬の日のために、それを取っておいたのだ。8 貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいるが、私はいつも一緒にいるわけではない。」

A. この箇所について
1. 四福音書全てにあるエピソード

 最初に、この箇所に関して少し解説します。内容にはあまり関係ないので、聖書の知識に興味がある方だけお聞きください。

 一人の女性がイエス様に高価な香油を注ぐというエピソードは、マタイ・マルコ・ルカ・ヨハネの四福音書全てに記録されています。それだけ有名なエピソードだったと言えるかもしれません。ただし、それぞれの記録は少しずつ違っていて、その内容を比較すると、ルカの記録した出来事はマタイ・マルコ・ヨハネの記録した出来事とは全く別の出来事を記録しているんじゃないかと言われています。ヨハネの記録はマタイの記録と一番よく似ているようです。ご興味がある方はそれぞれの箇所を比較してみてください。

2. 「ナルドの香油1リトラ」の価値

 この箇所に関するもう一つの解説は、これは非常に重要なことなので皆さんに聞いていただきたいのですが、「ナルドの香油1リトラ」の価値がどれくらいだったかということについてです。まず、1リトラは330グラムほどです。小さなペットボトル1本分くらいです。明らかに、イエス様の足に塗るだけでは使いきれない量です。そして、お金に換算するとこの香油は三百デナリオンの価値と言われていますが、これは現代の感覚で言うなら大体三百万円です。1デナリが労働者の1日分の賃金に相当するので、三百デナリオンは労働者の300日分の賃金に相当し、大体三百万円ということになります。マリアは、そんな高価な香油をイエス様のために一気に使い切ったのです。それを非常識な無駄使いととらえるか、心からの礼拝ととらえるかが、この箇所の重要なポイントです。

 イエス様の弟子の一人だったユダは、これは明らかに無駄使いであると捉えました。4-6節をもう一度読みます。

B. ユダとイエス様
1. なぜユダはイエス様を裏切ろうとしていたのか?

4 弟子の一人で、イエスを裏切ろうとしていたイスカリオテのユダが言った。5 「なぜ、この香油を三百デナリオンで売って、貧しい人々に施さなかったのか。」6 彼がこう言ったのは、貧しい人々のことを心にかけていたからではない。自分は盗人であり、金入れを預かっていて、その中身をごまかしていたからである。

 ユダがイエス様の弟子の一人として選ばれたのは、彼が最初はイエス様を慕っていたからのはずです。また、会計係を担っていたのは、彼の金銭管理能力が信頼されていたからだとも思われます。でも、聖書に書かれていないので詳しいことは分かりませんが、いつからか彼の心境に変化が起こり、会計係として不正を行い始め、最終的にはイエス様を裏切ることになりました。ユダは単純にお金に目が眩んだとも言えますが、少なからずイエス様に対して失望したのだと思われます。彼は、イエス様に従っていれば社会的に成功できるとか、経済的に豊かになれるとか、そういうことを勝手に期待して、イエス様にそういう見返りは期待できないと分かってきて、がっかりしたのかもしれません。

 そんなユダにとって、マリアの行動は理解不能だったに違いありません。ひとりの人のために三百万円もの価値のある貴重な香油を使い切るなんて、彼には無駄使いにしか思えませんでした。ユダは重要なことを分かっていませんでした。マリアにとってイエス様はそれほどの価値ある方だったということが、彼には理解できていませんでした。ユダにとっては、イエス様はそこまで価値のある方ではなかったからです。

 私たちもマリアの行動を無駄使いと思うでしょうか?おそらく、私たちの一般的な感覚ではマリアよりもユダに同調することの方が簡単だと思います。でも、別の箇所でイエス様がマルタに告げたように、「マリアは良い方を選んだ」のです。(ルカ10:42)マリアは私たちに、イエス様に愛を示すとはどういうことかを教えてくれています。

 マリアの行動に関してはこの後改めてお話ししたいと思います。その前に、イエス様がユダに告げた言葉を考えておきたいと思います。8節をもう一度読みます。

2. 社会的活動は礼拝の代わりにはならない

8 貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいるが、私はいつも一緒にいるわけではない。

 マザー・テレサはインドのスラム街で路上で亡くなっていく人たちのお世話をする活動をしていましたが、毎朝の礼拝を欠かしませんでした。私がよく引用するヘンリ・ナウエンは、マザー・テレサに会いに行った時のことを書いています。ナウエンはマザーに自分が抱えているたくさんの問題を分かってほしくて、10分話し続けたと言います。ナウエンが話し終わると、マザーはこう言ったそうです。「もしあなたが日に1時間、あなたの主を礼拝する時間を過ごし、その上で自分の心に照らして間違ったことを行わなければ、それで大丈夫です。」

 私たちの社会の中に不正義はあふれており、助けを必要とする人はいつの時代もどの国にもたくさんいます。その中で、神様の愛を実現して、より良い社会を目指すことは、神様の愛を知った者にとって不可欠なことで、神様が私たちに与えた役割でもあります。でも、私たちはもともと罪深く、自己中心的で、神様の愛がどういうものであるかということを、簡単に忘れます。自分に神様が注いでくださっている愛も、自分が仕えようとしている人たちに神様が注いでおられる愛も、簡単に見失ったり、誤解したりします。そして、神様への感謝がいつの間にか不満になり、疲れて燃え尽きてしまったり、助けるべき人を傷つけたりしてしまいます。

 神様は私たちにこう教えられました。「あなたの主である神を愛しなさい。そして隣人を愛しなさい。」神様を愛することと隣人を愛することは二つで一つで、切っても切り離せないものです。でも、神様を愛することがなければ、隣人を真に愛することは困難です。反対に、神様を愛する結果として隣人を愛するとき、私たちの隣人への愛は神様への礼拝にもなります。

 このことはマリアの行動について考えるとさらに分かるので、今度はマリアとイエス様に注目しましょう。もう一度、3節を読みます。

C. マリアとイエス様
1. なぜマリアはこんな大胆なことをしたのか?

3 その時、マリアが純粋で非常に高価なナルドの香油を一リトラ持って来て、イエスの足に塗り、自分の髪でその足を拭った。家は香油の香りでいっぱいになった。

 マリアが使った香油の価値の高さと量の多さは最初にお話しした通りですが、それ以外にもこのマリアの行動には驚くべきポイントがあります。まず、当時の習慣として、香油はお祝い事の際に普通は頭に注ぎかけるものだったのに対し、マリアはここでイエス様の足に注いでいます。さらに、マリアが自分の髪を使ってそのイエス様の足を拭ったというのも普通はないことでした。

 イエス様は、このマリアの行動についてこう言われました。7節をもう一度読みます。

7 イエスは言われた。「この人のするままにさせておきなさい。私の埋葬の日のために、それを取っておいたのだ。

この言葉は一見不可解です。イエス様が埋葬されるのはまだ先のことだからです。でも、マリアは本当にイエス様の死を予感して、このような大胆な行動を起こしたのかもしれません。

 この時点で、イエス様がユダヤ教指導者たちに命を狙われていたのは明らかになっていました。実際に、弟子たちはイエス様にエルサレムに近づくのは危険だと止めようとしました。エルサレムに入ればイエス様は逮捕されて殺されてしまう可能性があるということを、マリアもよく分かっていたはずです。

 それから、マリアは、自分の兄弟ラザロをイエス様が死から復活させた奇跡を経験したばかりでした。イエス様は神様の力を持っており、死を超えた存在であることを、マリアは理解し始めていたのだと思います。

 このような文脈を考えると、この場面でのマリアは、イエス様が自らを危険に晒して命を捧げようとなさっていることを感じ、これがイエス様に対する自分の思いを示す最後の機会だと感じていたことが想像できます。マリアは、文字通りイエス様の前にひれ伏して、最高級の香油を惜しみなく使い、通常は頭に注ぐそれをイエス様の足に注ぎました。手拭いなどではなく自分の髪の毛で香油を拭ったのは、イエス様への個人的な信頼を示したかったからかもしれません。それが、他人には無駄使いと非難され、はしたないと咎められたとしても、マリアにとってはこの時こうするのが重要だったのだと思います。マリアがこの行動を通して示したのは、言葉では言い尽くせない、お金や物では決して表現しきれない、イエス様に対する尊敬、信頼、感謝、愛、そういう心です。

2. 私たちがマリアのように行動するとは?

 私たちはマリアに倣いたいと思えるでしょうか?マリアのように行動するということは、強制されてすることではなく、自らの意志で喜んで自分の最善をイエス様に捧げるということです。それは、マリアがそうだったように、イエス様に対する尊敬と信頼と感謝と愛があふれて、そうせずにはいられない状態です。それは私たちが望んで手にいれるものではなく、イエス様が私たちにしてくださったことによって、そして聖霊様の働きによってのみ可能になるものです。

 イエス様が自らの命を私たちのために捧げられた神様ご自身であるということを確信することが私たちの喜びの始まりです。そして、イエス様という方を個人的に知り、信頼していくことは、私たちの人生をかけるに値する、尽きない希望に続く道です。

 私たちがどれだけそのことを確信して喜んでいるかは、私たちが日々の生活の中でイエス様と過ごす時間をどれだけ大切にしているかによって分かります。それは、他人の目から見れば、時間やお金やエネルギーの無駄使いに思われるかもしれません。でも、イエス様に思いを打ち明け、導きを乞い、感謝を捧げて、イエス様を讃えることは、他のこと全てを脇に置いて続ける価値のあることです。それは自分でやってみなければ分かりませんが、確かにそれが私たちの生きる原動力になります。

 最後に一つ付け加えたいと思います。私たちはマリアと違い、目に見える姿のイエス様に会うことはできませんし、イエス様との別れが近づいているわけでもありません。では、マリアがこの場面でこの時自分にできる最大限のことをしたようなことを私たちが実践するとは、具体的にどんな意味を持つのでしょうか?それは、矛盾するようですが、目に見える誰かに対して、イエス様に対して仕えるように仕えるということだと思います。目の前の人に神様の愛を届けるために必要なことが何かを見極め、それを満たすために自分の最善を尽くすことです。イエス様ご自身が、「私の兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、私にしてくれたことなのである」と言われました。(マタイ25:40)忘れてはいけないのは、今日お話ししてきたように、私たちが隣人を愛して他人に仕える原動力は私たちの中にはないということです。その力は、ただ私たちを愛して私たちのために命を捧げてくださったイエス様の中にあります。

 私たちは、どれくらいイエス様を愛しているでしょうか?それをどのように具体的な行動として示しているでしょうか?この後のワーシップの時間でも、どうぞ自分とイエス様の一対一の関係に集中して、イエス様との時間を過ごしてください。

(祈り) 主イエス様、あなたが私たちのためにしてくださったことは、私たちが一生かかっても感謝しきれないくらいに大きなことです。あなたは私たちの人生を変えてくださいました。また、これからも一緒に歩んでいきたいと願ってくださっています。どうぞ、私たちがあなたの声をよく聞いて、あなたに従っていくことができますように。あなたと喜びも悲しみも一緒にしながら、あなたに呼ばれる最後の時まで、希望と喜びを失わないで歩み続けられますように。弱い私たちにあなたの霊を注いで導いてください。主イエス様、あなたのお名前によってお祈りします。アーメン。


要約


イエス様は私たちのために命を献げてくださった神ご自身であることを確信し、イエス様を信頼して、イエス様への感謝の中で生きられることが、私たちに与えられた何より大きな喜びと希望です。そのことを私たちがどれだけ確信を持っているかは、私たちが生活の中で礼拝(日曜の礼拝ではなく個人的な礼拝)をどれだけ大切にしているかによって分かります。どんな社会的活動も礼拝に代わることはできません。でも、礼拝を最優先にしているなら、あらゆる社会的活動を礼拝に変えていくことができます。神様を愛することと隣人を愛することは二つで一つですが、隣人を真に愛することができるのは神様を愛することによります。

話し合いのために
  1. あなたはどれくらいイエス様を愛していると思いますか?どうやってそれを示しますか?

  2. 神様を愛することがなければ隣人を真に愛することはできないのはなぜですか?
子どもたちと保護者の皆さんのために

皆さんがイエス様に感謝の気持ちや「大好き」と言う気持ちを伝えるためには、どうしたらいいと思いますか?何をしたいですか?または何を贈りたいですか?「イエス様のことはまだよく分からない」でもいいので、率直に話し合ってみてください。