誘惑から身を守るために


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日曜礼拝・英語通訳付

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誘惑から身を守るために

(箴言 2:10-22)

永原アンディ

 今日も箴言を読んでゆきましょう。今日のテキストは、私たちの良い人生の歩みを狂わせる誘惑について教えてくれています。誘惑は、それに身を委ねてしまっても、思い返してやり直せることがほとんどです。しかし、そこからの回復には大きな犠牲を払わなければならないこともあります。若い日にイエスと出会い彼と共に歩み始めたのに、やがてイエスに背を向け人生のほとんどをイエスに従うことなく歩む人は少なくありません。
 晩年にイエスに戻ることのできた人もいます。しかし、もしイエスと共に歩み続けていれば得ることのできた多くの恵みを知らずに人生の大半を過ごしてしまった悔いは残ります。しなくてもよい心配に心を痛め、そのつもりはなくても誰かを傷つけ、自分にも人にも喜びや平和ではなく、悲しみや苦しみをもたらすことにもなるでしょう。
 今、私たちはイエスの十字架を憶える受難節を過ごしていますが、イエス・キリストは皆さんの人生が「悲しみと苦しみ」ではなく「喜びと平和」となるように十字架にかかられたのです。三日後の復活は、私たちの喜びと平和が現実となる保証です。イエスは信じる者と共に今を生きていてくださるのですから。
 私たちが、それが神様ではない者からの誘惑であることを見抜いて拒めるように、陥ってしまってもそこから離れることができるように、このテキストから誘惑について、そしてそれを避ける方法を学びましょう。

1. 誘惑を知る (13-19)

  今日のテキストの中ほどに二種類の誘惑者が紹介されています。最初にその部分から見てゆきます。13−15節を読みましょう。

彼らはまっすぐな道筋を捨て闇の道を歩み悪をなすことを喜びとし悪意ある偽りに小躍りする。その道筋は曲がり道のりはゆがんでいる。

 ここに紹介されているのは、典型的な反社会的な方法で利益を得ようとする悪人です。誰もが、自分はそのような人々の誘惑に耳を傾けないだろうと思い込んでいます。しかし、悪の誘いは巧妙です。決して「あなたも悪人になりましょう」とは呼びかけません。もっと賢く生きましょうと誘うのです。
 皆さんは、聖書に記されている世界で最初の誘惑のことを覚えていると思います。それは創世記の3章に記されています。蛇がエバに問います「神様は園の木の実を食べるなと言ったのか?」エバは、「園の中央にある木の実だけです。それを食べたら死んでしまうからです」と答えます。蛇の問いは巧妙です。エバとアダムはそれまで神様を疑うことなど思いもよらなかったはずです。たった一つを除いて全ての果実を与えらていることに満足していたのです。しかし蛇は人の心に付け込みます。「いや、それが一番美味しいし、決して死ぬことはない」そして、彼らの心を神様から引き離すように「それを食べると目が開け、神のように善悪を知る者となることを、神は知っているのだ。」。善悪を知るとは、善悪を自分の基準で判断するということです。それは自分を神様の位置に引き上げるということを意味します。神様に従って生きることをやめ、自分の意思で好きなように生きるということです。
 ところでイエスも、その宣教を始める前に、同様な誘惑を受け、それを退けました。そこでの誘惑に対するイエスの対応は、私たちが誘惑から身を守るための大きなヒントになりますが、そのことは 2.で詳しくお話ししようと思います。

 それでは続く16-19節を読みましょう。

また、よその女、滑らかに話す異国の女からもあなたは救い出される。
若い日の友を捨て自分の神との契約を忘れた女から。
彼女の家は死へとその道のりは死者の霊の国へと崩れ行く。
彼女のもとに行く者は誰も帰って来ない。命の道に至ることができない。

 ここは注意深く読む必要のあるところです。箴言が直接的には若い男性に対して言われている言葉であることは以前にお話ししましたが、この誘惑が女性による若い男性に対する性的な誘惑について語っているのではありません。もちろん性的な誘惑も、誘惑の一つではあるのですが、その本質は先にお話しした通り、神様に従うのではなく、自分の欲望のままに生きたいという思いに付け込むきっかけなのです。

 私たちを、神様から引き離そうとする“誘惑”は、様々な形でそこらじゅうに転がっている、珍しくもなんともないものです。つまり、私たちは誘惑から離れて生きることはできないのです。
 ここに記されている女性は、若者を神さまから引き離そうという力の象徴です。 そして、それは私たち一人ひとりの弱い部分につけ込むのです。

 いってみれば誘惑とはどのようなものであれ、それ自体が本質なのではなく、自身の欲望をくすぐる何かを意識した人が、自分の心の中に生み出す妄想です。誘惑との戦いは誰かとの戦いなのではなく、自分の妄想に対する戦いなのです。

2. イエスと共に生きる (10-12, 20-22)

10-12, 20-22 を読みます。

10 まさしく、知恵があなたの心に来て知識が魂の喜びとなる。
11 慎みがあなたを守り英知があなたを見守る。
12 あなたを悪の道から偽りを語る者から救い出すために。

20 こうして、あなたは善良な人の道を歩み正しき人の道筋を守ることができる。
21 正しい人は地に暮らし全き人はそこにとどまる。
22 悪しき者は地から絶たれ裏切り者はそこから抜き去られる。

 先週、イスカリオテのユダのことを聞きましたが、彼の悲劇は、神様の知恵を体現したイエスの言葉に喜んで従えなかったことから起こりました。イエスを売ろうと決心した時、彼は誘惑に負けたのです。
 私たちはどうしたら、ユダのように決定的な誘惑に負けてしまうことを避けることができるのでしょうか?どうしたら今読んだように、知恵が心の中にむかえ、自分の魂を喜ばせ、悪から救い出され、正しい道筋を逸れずに進むことができるのでしょうか。

 そこで、マタイによる福音書4章に記されている悪魔の誘惑に対するイエスの対応から、ヒントをいただきましょう。マタイによれば、イエスがヨハネからバプテスマを受けると聖霊に導かれて荒れ野に行き、40日断食をされたとあります。
 悪魔は断食が終わり空腹を覚えておられたイエスに近付いて3回、誘惑の言葉をかけます。最初に悪魔は断食が終わり空腹を覚えておられたイエスにこういいました。

「神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ。」

それに対してイエスはこう言われました。

 「『人はパンだけで生きるものではなく神の口から出る一つ一つの言葉によって生きる』と書いてある。」

空腹、貧困、心の虚しさなど欠乏は私たちを誘惑に対して無力にします。欲求を満たそうと思うのは当然のことです。そして、悪魔はイエスに、奇跡を起こしてそれを実現してみろといいました。 悪魔は、私たちにも自分のパワーでそれを満たせと誘惑するのです。そしてその誘惑に負けた人々は、自分の財力、腕力、知力、地位の持つ力でそれを実現しようと活動し、一方でそれらの力を持たない人々はさらに貧しくさせられている、それがこの世界に起こっていることです。

 しかし、イエスはそれができる力を誰よりも持っていながら、それを行使することを拒みました。欠乏は人から奪い取るものではなく、神様が満たしてくださるものだと知っておられたからです。イエスは今に至るまで人を虜にしているこの誘惑が神様の言葉の前に無力であることを示されたのです。
 私たちのあらゆる欠乏を満たしてくれるのは神様の言葉だけなのです。 

すると悪魔はイエスをエルサレムの神殿の端に立たせてこういいました。

「神の子なら、飛び降りたらどうだ。『神があなたのために天使たちに命じると彼らはあなたを両手で支えあなたの足が石に打ち当たらないようにする』と書いてある。」


それに対してイエスはこう言われました。

「『あなたの神である主を試してはならない』とも書いてある。」

この誘惑は、石をパンにという一つ前の誘惑のように必要に迫られてというものではありません。飛び降りて見せる必要はイエスにはありませんでした。もしイエスが宗教者として名声をあげたいと思っていたなら、これほど良いチャンスはなかったでしょう。しかしイエス、名声や威光を求めることが神様の意思に反することであることを知っていました。そして、彼にならって生きようとするものにも知ってほしいと思っておられます。人から優れたものと思われたいという欲求もまた、私たちをイエスから遠ざける力となるのです。

 最後に、悪魔はイエスを非常に高い山に連れて行き、世のすべての国々とその栄華を見せて言いました。

「もし、ひれ伏して私を拝むなら、これを全部与えよう。」

 ボブ・ディランは「どんな人でも、結局のところ、主か悪魔のどちらかに仕えている」と歌っています。ジョン・レノンはそれに対して「そのどちらでもなく自分を主とすればいい」と歌いました。しかし、ここで悪魔が提案しているように、悪魔の目的は、人が自分を主・神とすることで達成するのです。レノンの言う自分に仕えること、と悪魔に仕えることは同じです。だからディランの言うように、人は必ず主か、悪魔かのどちらかに仕えているのです。

 主イエスご自身はマタイの6章あるいはルカの16章で「人は神と富の両方に支えることはできない」と言われました。「富に仕える」ことは、自分に仕えることであり、結局、悪魔に使えることに他なりません。

 最後にイエスの3番目の誘惑への答えに戻りましょう。

「退け、サタン。『あなたの神である主を拝みただ主に仕えよ』と書いてある。」

 悪魔はこの答えであきらめてイエスから離れ去りました。イエスがどのような言葉で悪魔を退散させたのでしょう。それは彼自身の言葉ではなく、私たちにも与えられている旧約聖書の言葉でした。

 私たちが誘惑から身を守るためにすべきことも、神様の言葉で養われること、神様を信頼し続けること、ただ主を礼拝し主に仕えることです。

(祈り) 主イエス様、あなたがこの世界に来られ、今も私たちを導いていてくださることをありがとうございます。 
私たちが誘惑に負けずに、あなたと共に歩み続けることができるように守っていてくださることをありがとうございます。
どうかこれからも、この地上での歩みを終えるまで、あなたに従って歩み続けることができるように私たちを導いてください。
感謝して、期待して、イエス・キリストの名前によって祈ります。


要約

 世界は誘惑で満ちあふれています。どんな物事でも、私たちが主イエスから目を逸らしたときに誘惑となって私たちを主から引き離す力として働くのです。しかしそれはその物事の持つ力なのではなく、私たちの内に働く罪の力です。ですから私たちは、自分が道を踏み外すことを誘惑のせいにすることはできません。誘惑から身を守る唯一の方法はイエスと共に生きることだけなのです。

話し合いのために

1. 自分はどのような誘惑に陥りやすいと自覚していますか?

2. どうしたら誘惑から身を守ることができますか?

子どもたち(保護者)のために

自分の目先の利益のために嘘をつく、欲しいと思って人のものを取ってしまう。なぜ泥棒という行為が起こるのか、など身近なことで、誘惑を説明してあげてください。そして、その結果どのようなことが起こるか、どうしたら誘惑に負けないでいられることができるか、話し合ってみてください。