
❖ 見る
日曜礼拝・英語通訳付
❖ 聞く (メッセージ)
❖ 読む
あなたの王様は誰?
しゅろの日曜日 (ヨハネによる福音書12:12-19, 19:14-18)
池田真理
今日はイースターの1週間前の日曜日、しゅろの日曜日です。しゅろの日曜日と呼ばれている理由は、今日の箇所を読むと分かります。早速読みたいと思います。ヨハネによる福音書12:12-19です。
12:12 その翌日、祭りに来ていた大勢の群衆は、イエスがエルサレムに来られると聞き、13 なつめやしの枝を持って迎えに出た。そして、叫び続けた。「ホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように、/イスラエルの王に。」14 イエスは子ろばを見つけて、お乗りになった。次のように書いてあるとおりである。15 「シオンの娘よ、恐れるな。見よ、あなたの王が来る。/ろばの子に乗って。」16 弟子たちは最初これらのことが分からなかったが、イエスが栄光を受けられたとき、それがイエスについて書かれたものであり、人々がそのとおりにイエスにしたということを思い出した。17 イエスがラザロを墓から呼び出して、死者の中からよみがえらせたとき一緒にいた群衆は、その証しをしていた。18 群衆がイエスを出迎えたのも、イエスがこのしるしをなさったと聞いたからである。19 そこで、ファリサイ派の人々は互いに言った。「見ろ、何をしても無駄だ。世をあげてあの男について行ったではないか。」
これは、人々がイエス様に新しい王様になることを期待して、イエス様が都エルサレムに入るのを歓迎している場面です。イエス様が死から復活される出来事の1週間前に起こったとされています。日本語でナツメヤシはしゅろと訳されてきたので、この出来事が「しゅろの日曜日」という名前で覚えられるようになりました。
ここでは、イエス様ご自身も、子ロバに乗って、王様として振る舞っています。イエス様がそのように振る舞うのはここが初めてです。これまでのイエス様は、人々が自分を王様にしようとしているのに気が付くと、静かに身を隠していました。でも、イエス様が全ての人の王様であることは真実です。そうなるために、イエス様はこの世界に来られました。だから、自分の死が近いことを知っていたイエス様は、最後に真の王様として振る舞われました。ただし、子ロバに乗った王様なんて他にいませんし、イエス様がなろうとしていた王様は、人々が期待していた王様とはかなり違っていましたが…。
皆さんにとって、イエス様は王様でしょうか?皆さんの心の中心にはいつも誰が座っているでしょうか?先週のAndyさんの話にもありましたが、私たちは誰でも、信仰のあるなしに関係なく、神様か悪魔のどちらかに従って生きています。自分は信仰を持っているから悪魔に従って生きているはずがないと思うとしたら、それは危険です。私たちは弱い者で、神様を信じて神様に従って生きているつもりでも、いつの間にか自分自身の繁栄を求めていることがあり、悪魔を喜ばせていることがあります。信仰を持っていない人が全員悪魔に従っているわけでもありません。
今日の箇所には、イエス様を熱狂的に迎える人々と、イエス様の真実を後になって理解したという弟子たちが登場します。私たちは誰でも、この二つのグループの人々の状態を行ったり来たりするものだと思います。順番に考えていきたいと思います。
A. 自分自身(の利益)なら
1. 一時的にイエス様に熱狂するが…
イエス様を熱狂的に歓迎した人々は、イエス様が自分たちの民族をローマ帝国から解放する政治的軍事的指導者になることを期待していました。イエス様が起こした様々な奇跡を見聞きしていた人々は、イエス様の超自然的な力にも期待を寄せました。特にラザロの話を聞いていた人たちは、イエス様には死人を蘇らせるほどの強大な力があるのだと信じていました。でも彼らは、結局のところ、イエス様の力を自分たちの繁栄のために利用しようとしていただけです。彼らにとっては、イエス様がどういう方で何を望まれていたのかということよりも、自分たち自身の願いが叶うことの方が重要だったのです。
私たちがイエス様を信じるということは、それによってご利益を得るためではありません。イエス様は、私たちの願いを叶えるために存在するわけではありません。私たちは、いつの間にかそれを忘れて、自分の願いが叶うことを求めてしまうものです。イエス様が何を望まれているのかよりも、自分が願うことは正しいと信じて、それを実現するためにイエス様を利用しようとします。そして、イエス様が利用できそうな間は、熱狂的にイエス様を讃えます。
こういう自分中心の信仰は、長続きしません。そもそも、それはイエス様への信頼でも賛美でもなく、自分自身に対する過信と驕りで、信仰ではありません。それに気が付けなければ、私たちは自分の期待に応えてくれないイエス様に対して怒りを感じます。そして、熱狂的な賛美は、あっという間に怒りと憎しみのこもった断罪の声になります。
ヨハネによる福音書19:14-18を読みます。
2. イエスを十字架につける
19:14 それは過越祭の準備の日の、正午ごろであった。ピラトはユダヤ人たちに、「見よ、あなたがたの王だ」と言うと、15 彼らは叫んだ。「連れて行け。連れて行け。十字架につけろ。」ピラトが、「あなたがたの王を私が十字架につけるのか」と言うと、祭司長たちは、「私たちには、皇帝のほかに王はありません」と答えた。16 そこで、ピラトは、十字架につけるために、イエスを人々に引き渡した。こうして、人々はイエスを引き取った。 17 イエスは、自ら十字架を背負い、いわゆる「されこうべの場所」、すなわちヘブライ語でゴルゴタという所へ向かわれた。18 そこで、彼らはイエスを十字架につけた。また、イエスと一緒にほかの二人を、イエスを真ん中にして両側に、十字架につけた。
ここでイエス様を十字架につけろと叫んだ人々は、数日前にはしゅろの葉を持ってイエス様を歓迎した人々です。彼らは、イエス様が自分たちの望んだ王様になる気がないと分かり、むしろ訳のわからない教えを広める危険人物だと決めつけました。
私たちが、神様のことにしても人のことにしても、自分に利益になるかならないかで態度を変えるなら、私たちはその度にイエス様を十字架につけて苦しめていることになります。自分の利益にならないものは切り捨てて良いし、その人たちが苦しんでも自分には関係ないと考えます。さらにひどい時には、自分に従わない人たちや、自分の仲間に加わらない人たちは排除するべきだと、自分を正当化するようにもなります。まさに、自分が王様だからです。そのようにして、私たちは、「イエスを十字架につけろ」と叫んでいます。
イエス様が十字架にかからなければならなかったのは、私たちが自分自身の思い上がりと残酷さに気が付いていないからです。私たちの自己中心性という罪が他人にもたらす苦しみと痛みを、イエス様は十字架で引き受けられたのでした。
それでは次に、弟子たちがなぜ後になってイエス様の真実を理解したのか、考えたいと思います。16節をもう一度読みます。
B. 真の王様なら
1. 自分の弱さを知っているから
16 弟子たちは最初これらのことが分からなかったが、イエスが栄光を受けられたとき、それがイエスについて書かれたものであり、人々がそのとおりにイエスにしたということを思い出した。
「イエスが栄光を受けられたとき」というのは、イエス様が死から復活されたときを指します。または、復活後のイエス様が40日間弟子たちの間に現れた後、彼らの前で天に昇っていかれた時のことも、その後弟子たちに聖霊が降ったペンテコステの時のことも含んでもいいかもしれません。一連の出来事は全て、イエス様の十字架での死によって始まった神様の計画の成就であり、イエス様の栄光を表すものです。
弟子たちは、それらの出来事が起こって初めて、イエス様のことを本当の意味で理解しました。なぜでしょうか?それは、一つにはそれらの出来事を通して彼らが自分自身の罪と弱さを痛感したからで、もう一つは神様の力が彼らに働いたからです。
イエス様が捕まった時、弟子たちは全員、イエス様を見捨てて逃げました。イエス様が残酷な十字架刑で処刑されるのを誰も止められませんでした。皆、自分も捕まるのが怖かったからです。それが間違っているとは分かっていても、どうにもできませんでした。そして、イエス様は死んでしまい、彼らは自分たちが取り返しのつかない過ちを犯したと感じたでしょう。
私たちがイエス様のことを本当に理解できるのは、弟子たちと同じように、自分自身の根本的な間違いに気がついた時です。私たちは、自分で自分を正しく導くことができません。自分の心の王座には自分が座っていて当然だと思っています。それが大きな間違いであることを、私たちは痛みを伴う経験を通して学びます。多くの場合、そういう経験というのは、誰かを傷つけたり、誰かに傷つけられたりする経験です。自分にも他人にも絶対の信頼など置けないのだと知った時、私たちは本当の意味で、自分の心の中心にいるべき真の王様を求めます。
2. その方を追い求め続ける
イエス様は、復活後に弟子たちの前に現れ、彼らを励ましました。「あなたたちの弱さと罪は最初から知っていて、それでもあなたたちを愛しているし、あなたたちには私の働きを引き継いでいけると信じているよ」と励ましたのです。イエス様がご自分の近くに置こうと思われた弟子たちは、とても弱い人たちでした。でも、イエス様は確かに彼らを選び、愛されました。彼らは、復活したイエス様に自分たちの罪が赦され、弱さも知られた上で愛されているのだと知り、イエス様こそが真の王様なのだと理解しました。
私たちも、自分の弱さを知り、イエス様の愛を知り、イエス様に従って生きることが最善であると知りました。だから私たちは、自分の心の王座をイエス様に明け渡します。私たちの性質はどうしても自分でそこに座りたがるので、何度もそこをイエス様に譲る決心をしなければいけません。また、イエス様に心の王座を譲っても、イエス様が望まれていることが何か、すぐに自動的に分かるようになるわけでもありません。私たちには、一生かかっても、イエス様の愛と憐れみの大きさをできるようにはなりません。だから、私たちは生涯をかけて、イエス様を求め続けます。自分の小ささとイエス様の大きさに畏れを感じながら、何度も方向修正していただきながら、イエス様が導いてくださる方向がどちらなのか、求め続けます。
15節をもう一度読みます。
「シオンの娘よ、恐れるな。見よ、あなたの王が来る。/ろばの子に乗って。」
イエス様は、人間の王のように、鎧を着て軍馬に乗って兵士たちを従えて行進してくるようなことはありません。子ロバに乗って、普段着で、ゆっくりと、やって来られます。私たちの心の中心に、イエス様を迎え入れましょう。
(祈り) 主イエス様、どうぞあなたの霊を私たちに注いで、私たちの心をあなたの光で照らしてください。私たちの心の中心にあなたがおられるでしょうか?私たちはあなたに何を求めているでしょうか?自分の願いよりもあなたの意志が実現することを求められているでしょうか?あなたがなさることはいつも良いなのだと、信頼できているでしょうか?どうか私たちの心を不安で支配させないでください。傲慢になっていることがあれば教えてください。どうか私たちが、あなたが私たちのために十字架で苦しまれたことを無駄にしませんように。今週のそれぞれの歩みの中で、あなたの十字架を覚えて過ごすことができますように。イエス様、あなたのお名前によってお祈りします。アーメン。
要約
私たちの心の王座には誰が座っているでしょうか?全ての人にとって、そこは自分自身が座りたい場所です。でも、私たちは自分自身を常に正しく導けるほど、賢くて強いでしょうか?神様は、そこは神様ご自身が座る場所で、私たちがそこに神様を迎えることがそれぞれの人生を確かに生きるために必要なのだと教えてくださいました。そして、それを教えるために、自らの命を十字架で捧げてくださいました。一人ひとりがイエス様の愛と赦しを受け入れることが、私たちの心とこの世界に平和をもたらす鍵なのです。
話し合いのために
- あなたの王様は誰ですか?
- イエス様が平和の王であるとは?
子どもたちと保護者の皆さんのために
子供たちに「王様」のイメージを聞いてみてください。普通は王様というものは、鎧を着て軍馬に乗っていたり、大勢の兵士たちを従えてその先頭に立っていたりするものです。イエス様は私たちの王様ですが、そういう普通の王様のイメージとはだいぶ違います。馬ではなくロバに乗って、それも子ロバに乗って、普段着でおられ、女性や子供や庶民たちに慕われていました。そして、それすらも本当のイエス様の姿ではなく、イエス様はやがて洋服を剥ぎ取られて十字架につけられてしまいました。こんなイエス様のどこが「王様」なのでしょうか?話し合ってみてください。