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慢性疾患と生きる
シリーズ「障害者と相互依存の神学」第8回 (マルコによる福音書 5:25-34)
池田真理
今日はキャシー・ブラックさんの本を読むシリーズの第8回です。今日取り上げるのは慢性疾患です。慢性疾患というのは、症状の表れ方は緩やかでも、完全に治すことが難しく、一生付き合っていかなければいけない種類の病気を指します。関節炎、癌、認知症、糖尿病、てんかん、心臓病、呼吸器疾患、そのほかさまざまな珍しい病気や難病を含みます。病気が日常生活にもたらす影響の程度は違いますが、この教会のメンバーの中にも様々な慢性疾患を患っている人たちがいます。本の著者のキャシー・ブラックさん自身も、病名ははっきり書いていないのですが、子どもの頃から失神発作の持病を持っており、その発作がいつ起こるのかもどれくらい続くのかも予想がつかず、大人になってもひどくなったそうです。私は慢性疾患を経験していないので、その苦しみを代弁することはできません。だから、今日は最初に、キャシー・ブラックさん自身の言葉を少し長めに読みたいと思います。
「慢性疾患の人々の大半は、無力感、コントロールの喪失、孤独を経験する。予測可能性が欠如していることもまた、非常に希望を失わせることでありうる。慢性疾患を抱える人々の多くは、もはや自らの身体をあてにすることができないというのが現実だ。まるで自らの身体に頼ることができないかのように、あるいは自らの身体に裏切られたかのように感じる者がいる一方で、自らの身体を異質な存在として見ている者もいる。体力、筋力、耐久力、ある場所から別の場所へと行き着く能力がすべて、一刻一刻、予測不可能なのだ。 … どう感じるのかが常にわからない状態というのは、希望をはなはだしく失わせてしまう。」
「慢性疾患を抱えるほとんどすべての人々には、人の身体機能を維持し事態が悪化してしまう危険を軽減するために、食事、運動、薬物療法、睡眠、休息時間に関わる日々のしっかりとした摂生が必要とされている。そうした構造化された摂生に従うことは、しばしばその他の活動を減少させることを意味している。しかし、活動が大幅に減少してしまうことは、その人の孤独感や不要感の一因になってしまう可能性がある。」
聖書には様々な慢性疾患と思われる病気を患う人たちが登場しますが、今日はキャシー・ブラックさんに従って、マルコ福音書5章のエピソードを取り上げます。12年間出血が止まらなかった女性の話です。この女性は何かしらの婦人科疾患を持っていたと考えられます。マルコ5:25-34です。
25 さて、ここに十二年間も出血の止まらない女がいた。26 多くの医者からひどい目に遭わされ、全財産を使い果たしたが、何のかいもなく、かえって悪くなる一方であった。27 イエスのことを聞いて、群衆の中に紛れ込み、後ろからイエスの衣に触れた。28 「せめて、この方の衣にでも触れれば治していただける」と思ったからである。29 すると、すぐに出血が全く止まり、病苦から解放されたことをその身に感じた。30 イエスは、自分の内から力が出て行ったことに気づいて、群衆の中で振り返り、「私の衣に触れたのは誰か」と言われた。31 弟子たちは言った。「群衆があなたに押し迫っているのがお分かりでしょう。それなのに、『私に触れたのは誰か』とおっしゃるのですか。」32 しかし、イエスは触れた女を見つけようと、辺りを見回された。33 女は自分の身に起こったことを知って恐ろしくなり、震えながら進み出てひれ伏し、すべてをありのまま話した。34 イエスは言われた。「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。病苦から解放されて、達者でいなさい。」
A. 12年間出血が止まらなかった女性の癒し
1. この女性の動機は信仰か絶望か?
この箇所で今日最初に考えたいのは、この女性の行動は信仰によるものか、それとも絶望によるものか、ということです。イエス様が最後にこの女性に「あなたの信仰があなたを救った」と言っているので、この箇所ではこの女性の信仰に注目されがちです。でも、キャシー・ブラックさんはこの女性の絶望に注目しており、私もブラックさんに賛成です。
どういうことかというと、一つには、26節にある通り、この女性は多くの医者に酷い目に遭わされて、全財産を使ったにも関わらず、病気は治らず悪化したとあるからです。これは現代でも多くの慢性疾患の人が経験することだと思います。慢性疾患の大変さは、病気そのものがもたらす体の辛さだけでなく、それを適切に診断してくれる医者を探す苦労や、治療費の経済的負担と収入の減少、それによって生活が困窮することもあります。
この女性の苦しみのもう一つの背景は、直接この箇所では語られていませんが、この女性は12年もの間ずっと宗教的に汚れた者とされて、社会から排除されていたことです。古代のユダヤ教社会において女性の月経は汚れたものと考えられ、月経期間中は家の中で身を隠していなければいけませんでした。その上、女性は男性の付き添いなしに行動することは禁じられていました。そして、これらの禁止事項というのは全て、神様がそう定めているからと教えられていました。
このように、この女性にとって既存の宗教や社会は自分の存在を拒絶するものでしかありませんでした。それらに期待しても虚しくなるだけだったでしょう。
それでは、なぜこの女性はイエス様の服に手を伸ばしたのでしょうか?それはおそらく、「イエス様は何かが違う。この人なら私を助けてくれるかもしれない」と、この女性が思ったからです。この女性が「私は汚れています」と叫ばずに人前に出ることも、男性の付き添いなしに行動することも、見知らぬ男性に触れることも、全て掟を破る行為でした。それでも、この女性はたとえ自分が捕まっても、もう自分にはこれ以上失うものがないと思っていたのかもしれません。それは、長い年月を怒りと諦めの中で生きてきたこの女性の、最後の微かな期待だったかもしれません。イエス様はそれを信仰と呼びました。
2. イエス様の癒しは体と心に及ぶ
この箇所で次に注目したいのは、イエス様の癒しについてです。イエス様の超自然的な力はこの女性の病気を癒す奇跡を起こしました。でも、イエス様がこの女性にもたらした癒しは体の癒しだけではありません。イエス様は、この人の社会的地位を回復させ、自尊心の回復ももたらしました。どういうことか、改めて読み直してみましょう。
先ほどもお話ししたように、この女性はあらゆる掟を破ってここにいます。でも、イエス様はそれを一切咎めませんでした。そして、これはこの箇所の前後を読むと分かるのですが、イエス様は先を急ぐ途中だったにも関わらず、この女性のために時間を費やすことをためらいませんでした。先を急いでいたというのは、名のある高官から「瀕死の娘を助けてほしい」と頼まれていたからです。その状況を知っていた弟子たちは、群衆の中で自分に触れたのは誰かと気にするイエス様に苛立ちました。高官の頼みは公に行われた正当なものでしたが、この女性の行動は密かに行われた勝手なものです。でもイエス様はそんなことは気にせず、立ち止まって辺りを見回し、無名の女性が誰か知ろうとしました。イエス様は、その人と個人的に知り合い、その人が元気で暮らすことが自分の願いであると伝えたかったからです。イエス様のこの女性に対する態度や言動は、全て、イエス様のこの女性に対する偏見のない無条件の愛によるものでした。
震えながら名乗り出た女性に対して、イエス様はこう言われました。「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。病苦から解放されて、達者でいなさい。」「娘よ」という呼びかけは、この女性が神様にとって大切な娘のひとりであるということを証ししています。既存の宗教や社会がこの女性のことを拒絶し排除してきたとしても、神様は確かにこの女性のことを愛しておられ、この女性が病気であろうとなかろうと、その愛には変わりありませんでした。
でも、ここで私たちには疑問が浮かびます。この女性はイエス様に体も心も癒されて良かったかもしれないけれど、今まさに神様に助けを求めても癒されずに苦しんでいる慢性疾患の人が世界中にいるじゃないか、という疑問です。この疑問に対して、今日の箇所は何を教えてくれるのでしょうか?後半はこのことについて考えたいと思います。
B. 病気が治らない現実の中で
1. イエス様に手を伸ばし続ける
まず、この箇所が教えているのは、これは時に不可能なこともあると思いますが、慢性疾患を患う人自身とその人を支える人たちが、この女性のように、イエス様に手を伸ばし続けることが大切だということです。イエス様に助けと癒しを求め続けることは、病気が治らない現実の中では、虚しく感じられるかもしれません。希望を信じ続けることにはエネルギーが必要ですし、助けを求めること自体に疲れてしまう時もあります。それでも、「この人は違うかもしれない」という期待をイエス様に持つことを、あきらめないでいただきたいです。医者たちが驚くような奇跡が起きるかもしれないし、医療技術が進歩して新しい治療法ができるかもしれません。そして、何よりも、そのようなことが起こらず、体の癒しが起こらなかったとしても、神様の愛は病気になる前もなった後も何も変わらずに自分に注がれているのだということを、理屈ではなく心で理解できる時があります。それは、人の力によるものではなく、確かにイエス様が私たちの心に起こしてくださる奇跡です。体の状態は悪化しているとしても、心に希望と安心を持てるのは、神様の霊が私たちに働いて助けてくださるからです。それは人間にはできないことです。
2. イエス様に手を伸ばし続ける
ただ、私たち人間にもすべきことがあります。それは、一人ひとりがイエス様の体の一部になることです。十字架で示されたイエス様の愛と憐れみを受け取っているなら、私たちはイエス様の体の一部になれます。そして、今は目に見えないイエス様の代わりに、誰かが手を伸ばせば届くイエス様の体として、存在することができるはずです。それは、私たち自身には力がなくても、私たちに手を伸ばしてきた人たちに、私たちを通してイエス様の愛が届くということです。教会は「キリストの体」と言われますが、教会は社会の中で「ここは他とは違うかもしれない。ここなら自分を助けてくれるかもしれない」と人に思わせる共同体でなければ、「キリストの体」とは言えません。
では具体的に、私たちは何をすれば良いのでしょうか?言い換えるなら、慢性疾患を持つ人たちが、安心して一緒にいられる教会を作るためには、どうすればいいのでしょうか?それは第一に、神様の沈黙という現実に、一緒に向き合うことだと思います。病者でもそうでなくても、助けを求めても神様は答えてくださらないという現実に向き合わなければいけない時があります。私たちは、イエス様が十字架上で「なぜ私をお見捨てになったのですか」と叫ばれたことを知っています。それは、イエス様ご自身が神様の沈黙という絶望を自ら体験されたということを意味します。だから、神様が私たちの叫びを無視しておられるように思える時にこそ、イエス様が私たちと共におられることの本当の意味を理解できます。私たちは、一緒に、「なぜあなたは応えてくださらないのですか」と叫ぶことができます。不思議なことですが、この叫びを誰かと一緒に叫ぶ時、一人で叫んでいる時とは違って、確かに神様は聞いてくださっているのだと思えるのではないかと思います。神様に対して、社会に対して、自分自身に対して、安心して怒ったり泣いたりできる場所、そうしていいと思わせてくれる人がいる場所、それが「教会」だと思います。
また、もう一つ、教会に必要なのは、どんな人のことも神様の家族の一員として大切にすることです。今日の箇所でイエス様は女性のことを「娘よ」と呼びかけました。それまで社会に拒絶され排除されてきた女性に、イエス様はためらいなく親しみを込めて話しかけたのです。私たちも、イエス様のように、互いに親しみを込めて、互いを知り合うことができるでしょうか?お互いに知り合うということは、互いの強みも弱みも知っていくということで、病気や障害はその中の一つです。病気も障害も、それらによって引き起こされる苦しみも、その人の存在の全てではありません。病者は常に心配されて助けられてばかりの存在ではありません。病気であっても、一緒に楽しい時を過ごすことができ、互いに嬉しい時には一緒に喜ぶことができます。そうやって一緒に時間を過ごしていくことなしに、教会の家族というのは成り立ちません。
キャシー・ブラックさんが、「相互依存の神学」を訴えている意味がここにも見られると思います。私たちは、イエス様の愛をよりよく伝える共同体になるために、病や障害を持つ人たちを必要としています。私たちの成長はその人たちに依存しています。ユアチャーチがそのように互いに安心して依存しあえる場所になれるように、神様の憐れみを一人ひとりが求め続けましょう。
(祈り) 主イエス様、どうぞ私たちが互いの苦しみを共に担い、あなたに向かって共に叫ぶことができますように。分かったふりをするのではなく、無理に希望を持とうとするのでもなく、あなたは本当に私たちの叫びを聞いておられるのだと、私たちに分かるように教えてください。そして、たとえ現実が変わらなくても、心に深い安心と希望を与えてください。あなたの霊を注いで、私たちの心を導いてください。主イエス様、あなたのお名前によってお祈りします。アーメン。
要約
<キャシー・ブラック著「癒しの説教学−障害者と相互依存の神学」を読むシリーズ第8回>慢性疾患は私たちの日常生活や社会生活に制限を加えます。その制限が大きければ大きいほど、私たちは無力感や孤立感を持ちやすくなります。そして、その状況を変えてくださらない神様を信じ続けることは難しくなります。それでもイエス様の愛は何も変わっていないということを、私たちは互いに伝え続ける使命があります。病気も絶望も人間であるということの一部です。私たちが共に神様の沈黙という現実に向き合う時、そこに共におられるイエス様の愛を知ることができます。
話し合いのために
- この女性の絶望と信仰について話し合ってみてください。
- 慢性疾患を持つ人々が安心して一緒にいられる教会であるために、私たちは何ができるでしょうか?
子どもたちと保護者の皆さんのために
子どもたちの周りには、家族や親戚の中でも学校でも、治らない病気や障害を持っている人がいるでしょうか?イエス様はなぜその人たちの病気を治して下さらないのでしょうか?みんなはその人たちと一緒にどう過ごしたいですか?話し合ってみてください。