心を尽くして主に信頼しよう

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日曜礼拝・英語通訳付

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心を尽くして主に信頼しよう

(箴言3:1-12)

永原アンディ

 箴言のシリーズは、今日から3章に入ります。今日は12節までを取り上げてお話しします。 
 父の息子に対する諭しという内容で六つのことが記されています。そして、その一つずつに、その諭しに従うことによってもたらされる神様の祝福も記されています。どのような諭しがどのような祝福をもたらすのか、ひとつづつ見てゆきましょう。

1. 神様の意思に適った教え、戒めに従いなさい (1,2)

1 子よ、私の教えを忘れず私の戒めを心に保て。2 あなたには長寿と命の歳月が与えられ平和が増し加わる。

 父という言葉の持つイメージは、人によってずいぶん異なるものです。息子に向かって語っている、この父親の言葉を正しく受け取るために、私たちは自分の持つ“父”のイメージから離れる必要があります。
 ここで持つべきイメージは「神様を信頼して生きる人が、自身が神様に教えられた真理を次世代の人に伝えている」というものです。そしてさらに言えば、ここにいる皆さんの多くはもはや諭される者というより、伝える人なのだと思います。
 皆さんは自身の信仰をこの父親のように自信を持って伝えることができるでしょうか?多くの人はそれが牧師の役割で自分には関係ないと思っていますが、それは間違いです。皆さんが神様に信頼して歩んでいる人なら誰でも、家族や子供、友人に伝えるべき真理を持っています。そしてそれをシェアすることを神様は期待しています。
 先週、私たちは主イエスの目に見える体として働いていると教えられました。 あなたが最も信頼できる方、イエスを誰かに紹介することは、その働きの中心です。イエスを紹介する以外に、その人と神様を結びつける方法はないのです。

イエスを知ることで、人は神様だけが与えることのできる永遠という長寿と、何があっても揺るがない平和を心に持つことができるからです。


2. 慈しみ深く誠実に生きなさい (3,4)

3 慈しみとまことがあなたを捨てることはない。それらを首に結び、心の板に記しておけ。4 あなたは神と人の前に好意と良い成果を得る。

 前の部分で、「私たちは伝えるべき真理を持っている」と話しましたが、それはどのように人に伝わるのでしょうか?

 当時のイスラエルの宗教指導者、あるいは今もよくいるカリスマ的な宗教指導者のような上から目線の押し付けがましいアプローチは、洗脳して自分に従属させることはできても、イエスを知ってもらうことにはなりません。

 イエスは人々を神様と再び親しく結び合わせるために、当時の宗教家たちのアプローチを全く用いませんでした。そうではなくイエスは慈しみとまことを尽くすというシンプルな方法で私たちが神様との健康な関係を再建してくださったのです。そして、神様との健康な関係を持っていることは、健康な人間関係を築く前提条件です。

 しかしそうだとしても、「慈しみ、誠意を保つ」ことが口で言うほど簡単ではないことを皆さんは身に沁みてよくわかっているでしょう。そこで次の部分が良いヒントになってくれると思います。


3. 自分の分別に頼らず、心の底から主に頼りなさい (5,6)

5 心を尽くして主に信頼し自分の分別には頼るな。6 どのような道を歩むときにも主を知れ。主はあなたの道筋をまっすぐにしてくださる。

自分自身の分別は、事と次第によってぶれます。ぶれるどころか、簡単に180度変わります。正義は人の数だけあると聞いたことがあります。人はみな自分勝手にそれが正義だ、それが真実だと思い込んでいます。そして、考えが正反対に変わっても気にしません、自分が正しいからです。

 そんな自分勝手な分別をもつ強者が弱者を苦しめることが、国際関係から家族関係に至るまで、あらゆるレベルで起こり続けています。宗教的なコミュニティーでさえそこから自由ではありません。もちろんキリスト教も例外ではありません。クリスチャンとは、そう自称する人のことではなく、自分の分別に頼らず心の底から主により頼む人のことです。

 私たちは、自分の力で慈しみ深く誠実であることはできないのです。私たちにできることは自分の弱さ、愚かさを自覚して、ただ主にたよること以外にありません。


4. 思い上がらず、主を畏れ、悪から離れなさい (7,8)

7 自分を知恵ある者などと思わず主を畏れ、悪から離れよ。8 それはあなたの体の癒やしとなりあなたの骨の潤いとなる。

 周りの人々以上に自分には知恵があると思っている人は、無意識のうちに真理は神様のうちにあるのではなく自分のうちにあるとしているのです。それは自分が正しく、自分の行動が正義ということであり、自分を王、神としていることになります。

 皆さんの中に、自分にはここにいる誰よりも知恵があると密かに思っている人はいないと思います。むしろ牧師や指導者が陥りやすい誤りです。自分で知恵で教会を導こうとするなら、民主主義を保ってきた国が突然、独裁者の国になってしまうように健康な教会もカルト化するのです。しかしそのような人は、たとえ物事を自分の思い通りに運べたとしても、神様との関係においては破綻した者、不健康な者です。その好調は長くは続きません。

 私たちは、思い上がらず主を畏れ、悪を注意深く避けながら、イエスを見上げて歩みましょう。

5. 神様への感謝を忘れずに生きなさい(9,10)

9 あなたの財産とすべての収穫の初物を献げて主を敬え。10 あなたの倉は穀物で満ち搾り場は新しいぶどう酒で溢れるだろう。

 繁栄の神学という言葉を聞いたことがありますか?イエスを信じるなら、心だけでなく物質的にも豊かになるはずだという考え方のことです。貧困も、病気も、強い信仰を持てば克服できるというのです。つまり問題が起きるのは信仰が足りない、弱いからだというわけです。

 信仰に強い弱いも、過不足もありません。しかし、一見そう思わせるような聖書の記述は多くあります。先週聞いた「娘よ、あなたの信仰があなたを救った」というのも、そのひとつです。しかしイエスがそう言ったのは、一つの言葉のあやです。救ったのはもちろん神様です。そしてイエスは、その女性がイエスならその衣に触れるだけでも癒せるのではないかと考えてイエスに近づいた行動を、そのような言葉で誉めたということでしかありません。

 今読んだこの部分は繁栄の神学の流儀で読むなら「穀物とワインで一財産築きたいなら惜しむことなく献金しなさい」ということになるでしょう。しかし私たちは神様と取引をしているわけではありません。

 どのような境遇に置かれても、神様が私に必要十分なものを満たしていてくださることを信じ、期待し、感謝しなさいというのがこの箴言の真意なのです。 

それでは最後の部分を読んでみましょう。


6. 神様の訓練で成長しなさい(11,12)

11 子よ、主の諭しを拒むな。主の懲らしめをいとうな。12 子をいとおしむ父のように主は愛する者を懲らしめる。

 この箇所は先に話した繁栄の神学には都合の悪いテキストです。繁栄の神学を信奉する人にとって、苦しみは信仰の力で避けるものなのです。
 しかし聖書は、試練の時を用いて私たちを成長させる方であることを多くのテキストで伝えています。わたしたちが苦しむのは、自分の落ち度によって招く困難だけではありません。 むしろ、なぜ私が苦しまなければならないのか理解を超えた事柄で苦しむことの方が多いのです。それでも、神様は私たちが耐えられないような試練を与える方ではありません。 私たちは、その只中にある時には分からなくても後になって、それが無駄に苦しむ時だったのではなく、そのことを通して神様に成長させていただいた時であったと知らされるのです。
 生きづらさの全てを自分のせいにする必要はありませんが、今日読んだ箴言に従って心の持ち方を少し変えるだけで、世界の見え方は変わるものです。 今日取り上げたどの戒めが、皆さんの心に留まったでしょうか?今週はそのことを思い返して過ごしてみてください。

(祈り) 主イエス様、あなたが聖書によって、また人々を通して諭しを与えてくださることをありがとうございます。
 あなたが示されたように、私たちがあなたに誠実であるだけでなく、人々との関係の中でも慈しみ深く誠実であることができるように導いてください。  自分の分別、自分の知識に頼らず、あなたに教えていただきながら歩んでゆくことができるように教えてください。
 あなたへの感謝を日々忘れずに、あなたの訓練を厭わず、心を尽くしてあなたを信頼します。
イエス・キリストの名前によって祈ります。


要約

人生の舵取りに大切なのは、自分の常識や知恵ではありません。不可欠なのは神様への信頼です。自分の分別に頼り、自分の知恵を過信することで人を悲しませ、自分を苦しませ、神様を悲しませることになりかねません。私たちがどのような境遇にあっても、イエスを信頼し、イエスの慈しみと誠実にならって歩み続けるなら、困難でさえ霊的な成長という益となり、イエスに似た者へとかえられていくのです。

話し合いのために

1. どの戒めが最も自分に向けられていると思えますか?それはなぜですか?

2. イエスはあなたにどんな生き方をしてほしいのでしょうか?

子どもたち(保護者)のために

全体を読み聞かせてから、保護者が子供達に特に伝えたい部分をいくつか取り上げて、それが自分たちにとってどのようなことか話し合ってみましょう。