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一粒の麦は死んで多くの実を結ぶ
(ヨハネによる福音書12:20-26)
池田真理
今日はヨハネによる福音書のシリーズに戻ります。12:20-26です。この箇所は、イエス様の言葉の中でも最も有名なものの一つを含んでいます。それが今日のメッセージのタイトルにした、「一粒の麦は死んで多くの実を結ぶ」という内容の言葉です。それは後半に出てくるのですが、まず前半から読んでいきましょう。20-23節です。
A. 世界に広がるイエス様の愛 (20-23)
20 さて、祭りのとき礼拝するためにエルサレムに上って来た人々の中に、何人かのギリシア人がいた。21 この人たちが、ガリラヤのベトサイダ出身のフィリポのもとへ来て、「お願いです。イエスにお目にかかりたいのです」と頼んだ。22 フィリポは行ってアンデレに話し、アンデレとフィリポは行って、イエスに話した。23 イエスはお答えになった。「人の子が栄光を受ける時が来た。
この部分は不明なことが多いのですが、私たちが読み取るべきことははっきりしています。それは、イエス様のうわさがユダヤ人の間だけにとどまらずギリシャ人の間にも広まり、イエス様への期待は民族の壁を超えて高まっていたということです。そして、イエス様はそれを通して「人の子が栄光を受ける時が来た」と悟られたということです。
ヨハネによる福音書の中で、イエス様に好意的な関心を持つギリシャ人が登場するのはこの箇所が初めてです。この人たちは、ユダヤ人たちにまじって「礼拝するためにエルサレムに上ってきた人々」でした。彼らは、ユダヤ教やユダヤ人文化に共感し、ユダヤ人の習慣に従って生きていた異邦人だったと思われます。ユダヤ人たちはそういう人々のことを「神を畏れる者たち」と呼んで受け入れていました。そういう人たちの中からも、イエス様に期待を寄せる人々が現れていたということが、この箇所から分かります。
残念ながら、このギリシャ人たちとイエス様の会話は記録されていません。イエス様は、彼らの訪れを聞いてすぐに、「時が来た」と言われ、このギリシャ人たちはもうこの後登場しません。これは、彼らの訪れが意味することを私たちが理解することの方が重要だからだと思います。
永遠に変わらないものや絶対的な正義や愛を求める心は、時代や文化を超えて、すべての人が持つもので、イエス様に関心を持ったギリシャ人たちもそうだったと思います。彼らも、イエス様がどういう存在なのか分からないままでも、「この人は何かが違うかもしれない」と感じて、もっと知りたいと思ったのだと思います。
そして、イエス様は確かにその答えでした。イエス様が十字架で死なれたのは、時代も文化も超えて、すべての人に生きる意味と希望を知らせるためでした。このギリシャ人たちは、イエス様の救いを待つ全世界の人々を象徴していたのかもしれません。この時、神様は、全世界の人々の叫びを聞いて、すべての人がご自分の愛を受け取ることができるために、大きな代償を払おうとされていました。それが、イエス様の十字架で、その時は迫っていました。
後半の24-26節を読んでいきましょう。
B. イエス様の死が私たちにもたらした新しい生き方 (24-26)
24 よくよく言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。25 自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む者は、それを保って永遠の命に至る。26 私に仕えようとする者は、私に従って来なさい。そうすれば、私のいるところに、私に仕える者もいることになる。私に仕える者がいれば、父はその人を大切にしてくださる。」
1. イエス様の死が多くの人に命をもたらす
「一粒の麦は死んで初めて多くの実を結ぶ」というたとえは、私たちの生き方に関するたとえでもありますが、それよりもまず第一にイエス様の生き方をたとえているものです。イエス様は一粒の麦となって死なれ、それによって多くの人に豊かな人生を与え、今も与え続けておられます。
もし、イエス様が十字架で死なれることなく、多くの人から尊敬されたユダヤ教の教師または預言者のひとりとして平穏に生涯を終えていたとしたら、キリスト教は始まらなかったでしょうし、イエス様が時代を超えて世界中の人々に影響を与え続けることはなかったでしょう。また、イエスの十字架の死が自分には関係ないと思っている限り、その人にとってのイエスは単なる歴史上の人物の一人に過ぎず、その人の人生を根本的に変えるほどの影響をイエスから受けることはないでしょう。
イエス様の死がそれほど大きな意味を持つのは、それが私たちに対する神様の計り知れないほど大きな愛と憐れみを証明するものだからです。
まず、イエス様は実在したひとりの人でありながら、同時にこの世界を造られた神様ご自身でした。神様自らがこの世界に来られるということは前代未聞の事態ですが、それ以外に神様が私たちを救う方法はありませんでした。なぜなら、私たち人間は神様のことを忘れて、それぞれ自分勝手に生き、互いに苦しめ合っていて、しかもそのことに自分で気が付けないからです。だから、神様ご自身がこの世界に来て、私たち人間に理解できる形で、私たちの罪と弱さがもたらす代償の大きさと、私たちに対する神様の願いを伝えようとされました。それが、イエス様の十字架です。
神様は、イエス様として十字架で死なれることを通して、私たちの罪を裁き、同時に赦されました。私たちを裁く方ご自身が、裁かれる私たちの身代わりに裁かれました。神様は、正しい裁きをなさる正義の方であるので、私たちが互いに苦しめ合っている罪を無視するわけにはいきません。でも、神様は私たちを滅ぼすのではなく生かしたいと願われました。そして、神様が選んだのは、私たちの代わりに自らが罰を受けて、私たちの代わりに自らの命を献げるという方法でした。
イエス様の苦しみは、私たちが他の人に与えてきた苦しみであり、私たちが他の人から受けてきた苦しみです。イエス様の死は、人からも神様からも見捨てられる惨めで孤独な死でしたが、それは私たちが迎えるはずの運命でした。イエス様が私たちの身代わりになられたことにより、私たちはその運命を免れました。そして、イエス様の復活は、イエス様の死は神様の計画のうちにあるということを示し、神様は私たちを罪と死の力から解放してくださったことを示しています。
神様は、私たちが神様に罪を赦されて愛されていることを確信し、神様と人を愛して生きる新しい人生を私たちに歩んでほしいと願われました。その生き方は、体が生きていても死んでいても、神様と共に生き、神様の愛を人に伝え続ける生き方です。それが本来、神様が私たちに与えた生き方でした。それは、私たちもイエス様のように一粒の麦になるということです。それが具体的にどういうことなのか、もう一度25-26節を読みましょう。
2. 私たちが「一粒の麦」になるということ
25 自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む者は、それを保って永遠の命に至る。26 私に仕えようとする者は、私に従って来なさい。そうすれば、私のいるところに、私に仕える者もいることになる。私に仕える者がいれば、父はその人を大切にしてくださる。」
私たちの社会の中では、できるだけ自分の好きなように自由に生きて、ほしいものをできるだけ手に入れることが幸せだと考えられています。それと、このイエス様の教えは、一見、相容れないように思えます。「この世で自分の命を憎む」とは、自分の好きなことを諦めて、世俗的なものからできるだけ遠ざかって、世捨て人になる、と言っているように聞こえます。でも、そうではありません。
「この世で自分の命を憎む」とは、自分を信頼するよりも神様を信頼するということです。それは、私たちが考えることや願うことには常に誤りがあり、絶対の信頼を置けるのは神様しかいないという確信に基づきます。私たちの願いがどんなに正しくて、正当で、切実なものだとしても、それが叶えられなくても、神様を信頼して、結果を神様に委ねます。なぜなら、イエス様の十字架が取り消されることは決してなく、神様が私たちに注がれている愛は何も変わらないからです。だから私たちは、私たちの思い通りに物事が進むことよりも、私たちの思いとは異なる現実の中にも神様の良い意志が働くことを信じて期待することができます。
それから、「自分の命を憎む」または「自分の命を愛さない」ということは、もう一つの側面があります。それは、自分が人に愛されることよりも、自分を通して神様の愛が人に伝わることを優先するということです。神様の愛は、自分の都合を優先しません。誰もが神様に愛されている大切な子どもであるという確信を持って誰に対しても接するということは、私たちは生涯をかけても完璧にはできないと思います。でも、生涯をかけるに値する挑戦だと思います。私たちが、自分の偏見やこだわりにとらわれず、自分が好かれることを求めず、神様の愛が働くように願って行動すると、神様は確かに生きて働いておられるのだと分かる時があります。それは、私たちが自分に死ぬことによって生み出した小さな実りと言っていいと思います。
イエス様がこの世界にもたらした神様の愛という種は、それを受け取った人たちを通して実を結び続けてきました。その人たちは、神様を信頼して、自分の喜びよりも神様が喜ばれることを求めて、それぞれの人生を献げた人たちです。自分に死ぬことが実り多い人生をもたらすというのは逆説的なことですが、真実です。それぞれが置かれている環境の中で、イエス様はどこにおられるのか、何を望まれているのか、求めて、イエス様に従いましょう。それが、私たちも一粒の麦となるということです。
(祈り) 主イエス様、どうぞ私たちがあなたの中に生きる目的を見つけることができますように。あなたが十字架で教えてくださった愛を、自分自身で受け取って、日々確信を強めることができますように。そして、その愛を人に伝えていくことができますように。その中で、あなたが確かに私たちのことを知っておられ、共にいてくださることを教えてください。小さい私たちですが、どうぞ用いてください。あなたの愛の働きが、私たちの想像を超えて広がるように、私たちがそれぞれの場所で誠実にあなたに仕えることができますように。主イエス様、あなたのお名前によってお祈りします。アーメン。
要約
イエス様は一粒の麦となって死なれ、多くの人に豊かな人生を与え、今でも与え続けています。イエス様の死は、私たちの罪がそれほどに重いということと、神様の私たちへの憐れみはそれほどに大きいということの、両方を証明しています。そのことを受け入れることは、神様がどれほど深く私たちを愛しておられるかを知るということで、その神様を愛して生きることが私たちの人生の中で最高の幸せであると知ることです。それは同時に、私たちが自分自身よりも神様を信頼して、自分の願いの実現よりも神様の計画の実現を喜ぶことを指します。そのようにして、私たちも一粒の麦となって、この世界にイエス様の愛を届ける役割を担っています。
話し合いのために
- イエス様の死が私たちにもたらした命(新しい生き方)とは?
- 私たちが自分の命を憎み、イエス様に仕えるとはどういうことでしょうか?
子どもたちと保護者の皆さんのために
イエス様に従うことは、自分の願いを否定したり、自分のことを嫌いになったりすること(自己否定)を指すのではありません。でも同時に、自分の願いが叶うことや自分が人気者になることを求めること(自己実現)とも違います。忘れてはいけないのは、私たちの思いとイエス様の思いは必ずしも同じではなく、イエス様の方がいつも正しいということです。だから、私たちはイエス様に愛されていることを喜びながら、自分の間違いを修正してもらえるように求めます。また、自分の願いを率直に打ち明けながら、自分の願いよりもイエス様の考えが実現されることを喜べるように求めます。子どもたちには少し難しいかもしれませんが、話してみてください。