精神疾患の癒し

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精神疾患の癒し


シリーズ「障害者と相互依存の神学」第9回 (ルカによる福音書 8:26-39)

池田真理

 今日はキャシー・ブラックさんの本を読むシリーズの9回目で、このシリーズの最終回です。これまで、視覚障害、聴覚障害、半身不随などの身体障害、ハンセン病、慢性疾患が取り上げられてきましたが、この本の最後に取り上げられているのは精神障害です。

 正直に申し上げると、この章を取り上げるのはやめようかと迷いました。なぜなら、精神疾患の癒しについて考えるために、悪霊追放の物語が取り上げられているからです。それは、精神疾患を持つ人は悪霊に取り憑かれているという誤解を招くと思います。でも、それは私の意図していることではなく、キャシー・ブラックさんの考えでもありません。

 精神疾患の原因は複雑で、現代医学でも分かっていないことがたくさんあります。まして、精神疾患の原因は悪霊によるものではありません。精神疾患の癒しに必要なのは、悪霊追放ではなく、医療的・社会的サポートです。今日読んでいく箇所も、精神疾患を患う人は悪霊に取り憑かれているのだということを教えているのではありません。

 では、それなのになぜキャシー・ブラックさんは悪霊追放の物語を精神疾患の癒しについて語るために取り上げたのかというと、精神疾患の苦しみは、まるで悪霊に取り憑かれたかのように感じる苦しみだからです。自分以外の何かに自分の精神を支配される感覚は、「悪霊に取り憑かれている」という表現が一番しっくりくるかもしれません。また、聖書の時代の人々が現代では精神疾患とされる病を悪霊によるものだとしていた可能性はあり、今日取り上げる箇所に登場する男性もそうだった可能性はあります。だから、キャシー・ブラックさんは、精神疾患を持つ人の苦しみと解放の物語として、今日の箇所を取り上げました。

 それでは読んでいきたいと思います。少し長いのですが、全体を通して読みます。ルカによる福音書8:26-39です。

26 一行は、ガリラヤの向こう岸にあるゲラサ人の地方に着いた。27 イエスが陸に上がると、この町の者で、悪霊に取りつかれている男に出会われた。この男は長い間、衣服を身に着けず、家に住まないで墓場を住まいとしていた。28 イエスを見ると、叫んでひれ伏し、大声で言った。「いと高き神の子イエス、構わないでくれ。頼むから苦しめないでほしい。」29 イエスが、汚れた霊に男から出るように命じられたからである。この人は長い間、汚れた霊に取りつかれたので、鎖でつながれ、足枷をはめられて監視されていたが、それを壊し、悪霊によって荒れ野に追いやられていたのである。30 イエスが、「名は何というか」とお尋ねになると、「レギオン」と言った。たくさんの悪霊がこの男に入っていたからである。31 悪霊どもは、自分たちに底なしの淵へ行けとお命じにならないようにと、イエスに願った。32 ところで、辺りの山でたくさんの豚の群れが飼ってあった。悪霊どもが豚の中に入る許しを願うと、イエスはお許しになった。33 悪霊どもはその人から出て、豚の中に入った。すると、豚の群れは崖を下って湖になだれ込み、溺れ死んだ。34 この出来事を見た豚飼いたちは逃げ出し、町や村にこのことを知らせた。35 そこで、人々はその出来事を見ようと出かけて行った。彼らはイエスのところに来ると、悪霊どもを追い出してもらった人が、服を着、正気になってイエスの足元に座っているのを見て、恐ろしくなった。36 成り行きを見ていた人たちは、悪霊に取りつかれていた人の救われた次第を人々に知らせた。37 ゲラサ地方の人々は皆、恐怖に捕らわれ、自分たちのところから出て行ってもらいたいとイエスに願った。そこで、イエスは舟に乗って帰ろうとされた。38 悪霊どもを追い出してもらった人が、お供をしたいとしきりに願ったが、イエスはこう言ってお帰しになった。39 「自分の家に帰って、神があなたにしてくださったことを、ことごとく話して聞かせなさい。」そこで、彼は立ち去り、イエスがしてくださったことを、ことごとく町中に言い広めた。

A. 精神疾患について
1. 自分の精神をコントロールできない苦しみ

 私は平日は福祉施設で働いているのですが、そこは様々な理由で住む場所を失った方たちに緊急一時的に住む場所を提供する施設です。入所してくる方たちの中には、DVや虐待を理由に家族から逃げてきた方もいれば、過去に受けていたDVや虐待が原因で精神疾患を発症し、体調を崩し、経済的に困窮した方もいます。また、そういう被害経験とは関係なく、精神疾患を発症し、働くことが難しくなった方や、精神疾患の自覚がなく、治療につながらずに社会生活が難しくなった方も来られます。私の経験は断片的なものですが、精神疾患を持つ苦しみがどういうものか、利用者さんたちに教えてもらってきましたので、少しお話しします。

 アルコール依存症や薬物依存症、統合失調症などを持つ方たちは、幻聴が聞こえたり幻覚が見えたりしますが、それはご本人たちにとってはとてもリアルで、リアルな恐怖を伴います。誰かに監視されているという感覚を持つ方も多く、部屋に誰かが勝手に入っていると感じて、施設職員を疑い、施設での生活に安全を感じられず、病状が悪化してしまう方や、黙っていなくなってしまう方もいます。治療につながり、自分に聴こえていた声が幻聴だと分かった後も、そういう声の影響を受けなくなるわけではありません。治療を受けていても、環境の変化によって症状が悪化したり、効いていた薬が効かなくなったりします。

 ひどい暴力経験や長期間にわたる虐待経験を持つ方たちの中には、うつ病やPTSDを発症する方や、自分の中にたくさんの人格を持つようになる方たちもいます。うつ病は、起き上がりたいのに起き上がれなかったり、生活を再建したい気持ちはあるのに動けないということがよくあり、自分を責めてしまう方が多くいます。PTSDによる症状は様々ですが、日常生活のちょっとした物音や匂いなどによってパニックを起こしてしまいます。記憶が曖昧になったり、特定の記憶がすっぽり抜け落ちたり、逆に突然忘れていた記憶が生々しく蘇ることがあります。そういう症状を経験していると、自分に自信がなくなって、不安が強くなるのは当然だと思います。

 これらは精神疾患の一部であり、それぞれの疾患にもっとたくさんの症状があり、同じ病名でも人によって症状は違います。また、私は精神科医ではないので、お話しした内容も私の誤解があるかもしれません。ただ、様々な違いがあるにせよ、精神疾患を得た人は自分の精神をコントロールできなくなるという共通の苦しみを持っています。身体障害ならば、体の自由が効かなくても自分の精神を頼りにすることができますが、精神障害は自分の精神そのものが頼りにならないかもしれないという恐れや落胆を感じます。また、それによってその人の人格やアイデンティティも変えられてしまったように感じられることもあります。それは、家族や友人にとっても、かつてのその人がいなくなってしまったような喪失感を抱かせるものです。

2. 社会から疎外される苦しみ

 今日の聖書箇所で出てきた男性は、「この町の者だった」とあるので、昔はゲラサの町に住んでいて、家族や友人もいたはずです。でも、「悪霊に取り憑かれて」からは、「墓場に住み、鎖をつながれ、足枷をつけられて、監視されていた」とあります。町の人々は、家族や友人も含めて、彼のことを恐れ、距離を取るしか方法がないと思ったのだと思います。

 私がこの箇所を読んでとても切なくなるのは、悪霊はこの男性につけられた鎖や足枷を壊させて、荒れ野に追い立てたと書かれているところです。鎖や足枷を壊すために、この男性は自分の体を傷つけたでしょう。また、墓場に住んでいるだけでも孤独なのに、さらに誰もいない荒れ野に行かされることは危険も伴ったはずです。書いていないので分かりませんが、この人は自分で町に戻ろうとはしなかったのでしょうか?勝手な想像ですが、この人は、自分が家族や友人を傷つけないように、迷惑をかけないように、自ら墓場に住むことを選んだようにも思えます。

 世界では1960年代から精神医療の流れが変わったと言われています。それまでは精神疾患を持つ人の治療は入院治療が主流でしたが、治療薬が開発されたこともあり、地域社会で医療を提供する方向に変わりました。でも、日本では同時期に精神科病床の数が急激に増えていきました。戦後の高度成長期に、それまで家族と暮らしていた精神疾患の人々を病院に収容する流れに変わりました。そのような隔離政策によって、日本では精神疾患を持つ人に対する誤解や偏見が助長されてきたのかもしれません。

 それでは、ここからは、今日の聖書箇所から、イエス様がもたらす癒しとはどのようなものなのか、考えていきたいと思います。

B. イエス様の癒し
1. 病の癒し

 この箇所でイエス様がもたらした癒しは、病からの解放そのものです。イエス様は悪霊にこの人の中から出て行くように命じ、悪霊はその命令に従ってこの人から出ていきました。豚の群れが溺れ死ぬという代償が必要でしたが、イエス様は一瞬でこの人を悪霊から解放されました。

 精神疾患の癒しというのは、多くの場合、とても長い時間がかかります。症状が重ければ、継続した医療的サポートが不可欠ですし、この悪霊追放のような形での完全な治癒というのは難しいかもしれません。でも、精神医療には様々な方法があり、自分に合った薬を探すと同時に、カウンセリングやピアサポートなどもあります。病気になる前の自分に戻ることは難しいかもしれませんが、病気との付き合い方が分かっていくことや、自分の弱さと強さを再発見していくことで、新しい自分を見つけていくことができます。それは実際にはたくさんの葛藤があることで、私が軽々しく言っていいことではありませんが、施設の利用者さんが治療を通して笑顔を取り戻していく姿を見てきました。

 それから、この聖書の箇所で見落としたくないのは、イエス様は、この男性が何も言う前に、悪霊にこの男性から出ていけと命じられたことです。この人が悪霊に取り憑かれているのを見て、イエス様は即座にこの人を解放しなければと思われたということです。この人が悪霊に取り憑かれたままでいるということは、イエス様にとってあり得ないことでした。なぜなら、この人も神様の愛されている子どもの一人であり、神様の支配下にいなければいけない人だからです。悪霊に支配されたままでいていいわけがありませんでした。

 精神疾患を持つことは、この人が悪霊に取り憑かれたのと同じように、なぜそれが自分の身に起きたのか、誰にも答えられません。でも、少なくとも、その病に生活も人生も支配される状態を、神様がよしとしているのではありません。病があっても、神様の大切な子どもであることに変わりなく、神様の愛の中で安心して生きられることが、神様の望みです。多くの場合、癒しには時間がかかりますが、神様の意志ははっきりしているということを、知っていただきたいと思います。

2. 信頼と敬意

 この箇所で注目すべきイエス様の行動は他にもあります。まず、イエス様はこの人に名前を尋ねています。答えたのは悪霊でしたが、イエス様が聞こうとしたのは、この人自身の名前です。イエス様は、悪霊の支配の中にあるこの人自身のことを知ろうとしていました。イエス様は、病という問題が私たちの全てではないことを知っておられます。病の中にある一人ひとりに対して敬意を持って接し、一対一の関係で知り合おうとしてくださる方です。

 でも、反対に、イエス様はこの男性が自分に依存することを許しませんでした。悪霊を追放された後、この人はイエス様についていきたいと願いましたが、イエス様はそれを許さず、自分の家に帰って、神様のしてくださったことを伝えなさいと命じられました。イエス様は、この人のことを信頼し、新たな責任を与えたと言えます。それまで彼のことを排除してきた町に戻るということは、この人にとっては勇気のいることだったはずです。でも、彼にはそれができると、イエス様は思われたのだと思います。そして、実際この人はその通りにしました。彼がしたことは、イエス様にはできなかったことです。彼は、町を追い出されたイエス様に代わって町に戻り、イエス様の働きを担ったのでした。

 これは、病気が癒やされて初めてイエス様の働きを担えるという意味ではありません。イエス様と出会うことによって、自分は病に支配されているのではなく、神様の愛の元にいるのだと信じることができたなら、たとえ病が癒やされていなくても、自分はイエス様から信頼されているのだということが分かります。自分の病と付き合う力も、周囲と新しい関係を作っていく力も、イエス様は与えてくださいます。それはただ、イエス様の十字架によって証明された神様の愛が教えてくれる事実です。

 ただ、これは一人でできることではありません。病に対する恐れを一緒に乗り越えて、信頼し合える人の存在が必要です。

 今日の箇所で、イエス様は町の人々の恐れを取り除くことができませんでした。それは、悪霊を追放された男性と、町の人々自身に委ねられた使命でした。精神疾患に対する恐れを取り除くことは、この社会の中で生きている私たちの役割です。病を持つ人と持たない人が共に病に対する理解を深め、恐れと偏見を取り除き、病によって失ったものもあれば、新しく変えられる部分もあるということを、受け入れていく作業です。簡単なことではありませんが、イエス様の愛を知った私たちにはそれができるはずです。

(祈り) 主イエス様、どうか私たちが、病があってもなくても、頼りになるのは自分ではなくあなたしかいないということを、もっとよく知ることができますように。自分の体調をコントロールできず、先が読めず、不安になる時、どうぞあなたの霊で私たちの心を守って強めてください。病によって眠れない夜も起きられない朝も、焦らずに、あなたと過ごすことができますように。私たちの人生はすべてあなたの手の内にあるということを、どうぞ教えてください。主イエス様、あなたのお名前によってお祈りします。アーメン。


要約

<キャシー・ブラック著「癒しの説教学−障害者と相互依存の神学」を読むシリーズ第9回>精神疾患の原因は複雑で、分からないことが多くあります。共通するのは、自分の精神をコントロールできない苦しみです。その苦しみは、まるで「悪霊に取り憑かれた」かのように自分ではどうにもならないという点で、聖書の中の悪霊追放の物語は精神疾患からの回復を考える上で参考になります。ただし、精神疾患を持つ人は「悪霊に取り憑かれている」のではなく、精神疾患からの回復に不可欠なのは「悪霊追放」ではなく医療的・社会的サポートです。それは、悪霊追放のように一瞬で簡単に終わるものではなく、病の中にあっても自分は神様から信頼を受けているのだということを確認する、時間のかかる作業です。その作業はひとりでできることではなく、病に対する恐れを一緒に乗り越えて、信頼し合える人の存在が必要です。イエス様の愛を伝える教会は、そのような存在になることを求められています。

話し合いのために

人々はなぜこの人が回復したことを喜ばず、一連の出来事を恐れたのでしょうか?