目を離せば見失う

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日曜礼拝・英語通訳付

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目を離せば見失う

(箴言3:21-35)

永原アンディ

1. 安らかに生きる知恵 (21-26)

21 子よ、よき考えと慎みを保ち見失うことのないようにせよ。
22 それらはあなたの魂の命となり首を飾る恵みとなる。
23 そうして、あなたは安らかに道を歩み足がつまずくこともない。
24 身を横たえるときも、おびえることなく横たわれば、その眠りは快い。
25 突然の恐怖にも、悪しき者の騒乱が生じてもおののくことはない。
26 主があなたの傍らにおられ罠から足を守ってくださる。

 あなたが一番最近感じた不安は、どのようなものだったか、思い出してみてください。夜眠ることに妨げになるくらい怖いという思いから離れられなくなることはないでしょうか?誰もが安らかに過ごしたいと願うものですが、恐怖や不安でいたたまれない気持ちになることもあるのではないでしょうか?
その中には、具体的な困難に直面してのこともありますが、合理的な理由もないのに心が不安でいっぱいになってしまうこともあります。

 ここでは「良い判断をすること」「慎重に行動すること」が安らかに人生を歩むために必要だと教え、それらが与えてくれる恵みが23節から具体的に書かれています。

安らかに道を歩み足がつまずくこともない(23) 
身を横たえるときも、おびえることなく横たわれば、その眠りは快い(24) 
突然の恐怖にも、悪しき者の騒乱が生じてもおののくことはない(25)

 私たちの実際は、とても自分がそのような状態を保っているとは言えないでしょう。判断を誤ったり、焦って先走って失敗したり、逆に決断をためらって手遅れになってしまったりするのが私たちです。この父の教えは理想論に過ぎないと思えて当然です。

 しかし、今読んだ部分の最後の一節が、やはり箴言は私たちの日々の歩みの指針となる神様からのことばであることを教えてくれています。

「主があなたの傍らにおられ罠から足を守ってくださる。(26)」という事実こそが、私たちに平安をもたらすのです。

 ですから、「良い判断をすること」とか「慎重に行動すること」とは、私たちの能力にかかっているのではないのです。そうではなくイエスと共に歩んでいるということが、良い判断や慎重な行動を可能にするということなのです。

 そして、それは、イエスを主と信じている人にとっては事実です。多くの人が「それはわかりますが、感覚としてはそう感じられないのです」と言います。それは、もっとイエスと親しくなること以外に改善する方法はありません。

 誰かともっと親しくなるために何をしたら良いか、皆さんはよく知っていると思います。イエスと過ごす時をもっと充実させる。それ以外に方法はありません。

 続く箇所で、「父」は子に二つの人間関係において大切にすべきことを教えています。一つは親しい友に対する態度(27-29)、そしてもう一つは、悪を行う者に対する態度です。これらのことが今学んだ事柄と同様に、イエスと共に歩むことによって可能になるということを念頭に置いて読んでゆきましょう。まず29節までです。

2. 友に対する態度 (27-29)

27 あなたの手に善を行う力があるならなすべき相手にそれを拒むな。
28 あなたにその力があるなら友に「出直してくれ、明日あげるから」と言うな。
29 友に対して悪意を耕すな彼はあなたのそばで安らかに住んでいるのだから。

 人間関係の中で、人の心を傷つけてしまったり傷つけられてしまったりすることが起こります。また親しい関係であればあるほど、傷つけられた時の悲しみは深いものです。 深い関係のない人との間ではそのようなことは起こり得ません。誰も、親しい人の心を傷つけたいと思ってはいません。それでも、そのようなことが起こるのは、私たちがイエスのようには人と接することができないからです。

 私たちの自己中心性や、甘えは、親しい人の心をを傷つける鋭い刃物になりかねないのです。だからこそ最初にお話しした、イエスにあっての「良い判断」「慎重な行動」が求められるのです。

 NIVはシンプルに「隣人に危害を加えることを企ててはならない」と訳していますが、協会共同訳はおそらく原語のニュアンスから「悪意を耕すな」と比喩的な表現をとっています。それはたまたま傷つけてしまうことではなく、意図的に、計画的に傷つけることを意味しています。互いに対する愛を惜しまず、親しい人たちを自分のエゴの犠牲にしてしまわないように、イエスに助けを求め、イエスと共に歩みましょう。

3. 悪に対する態度

30 訳もなく他人と争うなあなたに悪事を働いていないなら。
31 暴虐をなす者を羨むなその道のいずれも選んではならない。
32 主は曲がった者をいといまっすぐな人と親しくされる。
33 悪しき者の家には主の呪い正しき者の住まいには祝福がある。
34 主は嘲る者を嘲りへりくだる人に恵みを与える。
35 知恵ある人は誉れを受け継ぎ愚かな者は恥を増す。

 ここでは、私たちの悪に対する態度を神様がどうご覧になるかが対照的に記されています。皆さんは、決して自分は訳もなく他人と争ったりしないと思っているでしょう。 また、暴虐な者を羨むはずがないとも思っているでしょう。

 しかし、イエスを十字架につけろと叫び続けた民衆の一人一人に聞いてみれば皆さんと同様に答えたはずです。神様の厭う生き方ではなく、神様の喜ぶ生き方を選ぶということはそれほど簡単ではないのです。

 今、私たちは世界中で民主的であることを大切にするよりも、自分の利益を暴力的な手段を用いても実行してくれる”強い”指導者、政府を求める傾向が強まっていると感じている方は多いと思います。社会に不満を持つ人々が増えれば、自分が力づくで解決してみせるという人に未来を託したい思う人が出てきます。ヒトラーは最初から独裁者だったのではありません。合法的な選挙によって人々に選ばれたあとで、あらゆる手段を用いて権力を自分に集中させ独裁者になったのです。

 私たちの罪の本質に関わることですが、肌の色の違い、言葉の違い、文化の違い、その人の性のあり方、あらゆる種類の偏見が私たちの心に中で発酵するように憎しみや、怒りとなって行動に現れるのです。独裁者は人々の偏見を煽り差別を増幅させて、そこから生じた憎しみのエネルギーを自分の支配に利用するのです。

 

 だからこそ、私たちは最初の部分から学んだように、イエスと共に歩むことによってすることのできる「良い判断」「慎重な行動」によって正しい道を選び取る意志を持ち続けなければならないのです。

4. 目を離せば見失う

 最後にもう一度、最初の二つの節に注目しましょう。「良き考えと慎みを見失うことがないようにしなさい。それを失うことは、魂に大きなダメージとなり、神様の恵みを失うことになるから」とありますが、私たちはなぜ見失ってしまうのでしょうか、それは簡単です。見つめ続けることを怠るからです。

 なぜ怠るのか、それは自分には知恵があるから大丈夫という、誤解に基づく無意味な自信があるからです。

 私たちの頼る知恵が自分のうちに備わっているものではないことをパウロの手紙で確認して終わろうと思います。どうか神様の知恵から目を逸らさず、むしろイエスを見つめ続けて今週も平安な歩みを続けてください

(コリントの信徒への第一の手紙1:26-31)きょうだいたち、あなたがたが召されたときのことを考えてみなさい。世の知恵ある者は多くはなく、有力な者や家柄のよい者も多くはいませんでした。ところが、神は知恵ある者を恥じ入らせるために、世の愚かな者を選び、強い者を恥じ入らせるために、世の弱い者を選ばれました。また、神は世の取るに足りない者や軽んじられている者を選ばれました。すなわち、力ある者を無力な者にするため、無に等しい者を選ばれたのです。それは、誰一人、神の前で誇ることがないようにするためです。あなたがたがキリスト・イエスにあるのは、神によるのです。キリストは、私たちにとって神の知恵となり、義と聖と贖いとなられたのです。「誇る者は主を誇れ」と書いてあるとおりになるためです。

(祈り)神様、今朝もあなたの呼びかけを箴言を通して聞くことのできた恵みをありがとうございます。
 私たちが知恵の源であるあなたと共に歩み続けることができるように、いつも声をかけて励ましてください。
 私たちの魂の目がいつもあなたを見上げていますように、目を離して見失うことがありませんように教えてください。
 恐れる時に、怯える時に、悲しむ時に、まずあなたに向かって叫ぶことのできる者としてください。
 あなたは、私たちにとって神の知恵となり、義と聖と贖いとなってくださいました。私たちはあなたを誇ります。

 イエスキリストの名前によってお祈りします。


要約

 箴言は知恵の勧めの書ですが、知恵は私たちの中にあるものではありません。私たちの内には目先の利益や責任を回避するような知恵はあっても、人生に喜びと満足を与える本当の知恵ではありません。本当の知恵とは私たちにとって神の知恵となり、義と聖と贖いとなられた主、イエス・キリストです。私たちが真の知恵を得たいと思うなら、人生をイエスと共に歩むことでそれは実現します。

話し合いのために

1. なぜ私たちは、正しい判断や慎重にことを進められずに失敗するのですか?

2. なぜイエスが私たちにとって神様の知恵なのでしょうか?

子どもたち(保護者)のために

「知恵」について子どもたちと考えてみましょう。一般的な「知恵」の意味とこの箴言やパウロが伝えているイエス=知恵についての違いを伝えてみてください。本当の知恵とは、賢く世渡りするための努力によって得られる技術ではなくイエスとできるだけ近くにいることだと伝えてください。