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日曜礼拝・英語通訳付
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主は私の羊飼い
(詩編 23:1)
池田真理
先月、障害者と相互依存の神学のシリーズを終えて、しばらくはヨハネによる福音書のシリーズを続けていこうと思っていたのですが、今日は特別に別の箇所からお話しすることにしました。これには事情があって、今週水曜日にある大学で若い人たちに向けて短くお話しすることになったので、その準備をする中で、ユアチャーチではこのお話をもう少し深く広げてお話ししようと思いました。取り上げるのは詩編23篇です。この詩編は、私が聖書の中で好きな箇所の一つです。いつも私の信仰の原点に戻してくれる箇所かもしれません。今回はさらに読む箇所をしぼって、1節だけに注目したいと思います。読みます。
主は私の羊飼い。私は乏しいことがない。(詩編23:1)
1. 「私は乏しいことがない」とは
「私は乏しいことがない」は、「私には何も欠けることがない」とも訳されてきました。この言葉の意味は、この詩編全体を読むと分かるのですが、物質的に何も不足しないという意味よりも、精神的に(または能力的に)足りないものはないという意味です。でも、この感覚は、信仰を持つ前の10代の私にとって、とても自分の感覚からはかけ離れていました。自分は苦手なことが多く、人よりもできないことが多く、欠けだらけだと思っていたからです。
世間では、自分に自信がないなら自信が持てるように何かを頑張ればいいと言われます。人と比べるのをやめて、ちゃんと自分の頑張りを見ればいいとも言われます。そういうことも、自尊心を保つためには確かに役に立ちます。でも、この詩編で言われていることは、人が自分に自信を持つとか自尊心を保つとかいうこととは違う種類のことです。むしろ、自分に対する自信を捨てて、本当に信頼に足るものを信じることによって、確かな人生を歩めるのだという教えです。
中国の思想に性善説と性悪説というものがあります。性善説は人間は生まれながらに良いものであると考え、人間は他人を思いやる心や善を行う心を持って生まれていると考えます。対して、性悪説は人間は生まれながらに悪いものであると考え、人間は生来自己中心的で欲望に満ちていると考えます。皆さんはどちらを信じますか?おそらく、多くの人は「性善説を信じたいけれど、実際は人間は生まれつき悪いものなのかな」と考えるのではないかと思います。
聖書は、どちらかというと性悪説に近い考え方をしますが、神様は私たちを最初から悪く造られたわけではないので、完全に性悪説でもありません。むしろ、神様は人をご自分に似せて造られ、人は最初は良いものだったことを考えると、性善説にも近いです。
では、この詩編23:1はどちらに基づいているでしょうか?「主は私の羊飼い」と「私は乏しいことがない」をつなぐのは、「だから」だと思います。「主が私の羊飼いだから、私は乏しいことがない」という意味です。「私が乏しいことがない」と自信を持てるのは、「主が私の羊飼いだから」です。これはこう言い換えられると思います。「神様は私をご自分の羊として導いてくださる、だから、私は何も足りないことはない。」つまり、自信の根拠は自分にあるのではなく、羊飼いである神様にあります。
このように、聖書の教える人間像は、どんな人になるかは私たち次第だという考え方です。神様に属するかどうか、神様の愛を信じるかどうかで、人は良くも悪くもなります。これは単純にクリスチャンはいい人でそれ以外の人は悪い人だという意味ではありません。信仰を持っていても神様を忘れていることがあり、信仰がなくても神様の愛を知っている人もいます。ですから、本当の意味で、心の深くから、自分自身は頼りにならないことを知っていて、神様に従うことが自分には必要だと信じている人が、神様に属する人であり、本来神様が「良く」造られた人の状態です。従って、聖書は、人が生まれつき良いか悪いかに注目するよりも、どうすれば本来の良さを取り戻していくことができるかということに注目していると言えるかもしれません。
このことは、聖書の別の箇所ではこう言われています。イザヤ書53:6です。
2. 私たちはそれぞれ勝手に進む羊
私たちは皆、羊の群れのようにさまよい
それぞれ自らの道に向かって行った。
その私たちすべての過ちを
主は彼に負わせられた。(イザヤ書53:6)
後半はイエス様のことが言われていますが、前半では私たちがそれぞれ自分勝手に進む羊のようだということが言われています。私たちは皆、神様に良いものとして造られたことを忘れて自分勝手に進んだ結果、どこに向かうのかも分からなくなってさまよっているという意味です。従うべき羊飼いを見失った迷子の羊ということです。
迷子というのは、人も羊も同じですが、自分が迷子になっていると気づくまでは、何かに気を取られてズンズン進みます。でも、気を取られてついていったものが間違っていたと気が付いて初めて、自分が知らないところに来てしまったことに気が付きます。そこから自力で元来た道を戻れればいいのですが、さらに迷ってしまったり、疲れて動けなくなってしまったりするかもしれません。
神様と私たちの関係の場合、神様は、迷子になった羊をどこまででも探しに行き、必ず見つけ出して連れ戻してくださる羊飼いです。イエス様はこう言われています。ヨハネによる福音書10:11です。
私は良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。(ヨハネ10:11)
イエス様は、自分の羊を取り戻すために、ご自分の命を献げることも惜しまない愛情深い羊飼いです。それは、迷い出た羊を見つけて連れ戻すには、羊飼いが苦労して危険を冒さなければいけないのと同じです。険しい道を行ったり、狼と闘ったり、雷雨に襲われたりするような苦労です。神様が私たちをご自分のもとに取り戻すためには、神様はまず、ご自分が人となられるという道を選ばれました。そして、罪人として捕らえられ、十字架に架けられて殺されるという運命を受け入れられました。なぜ神様がそのような厳しい運命を辿らなければならなかったのかというと、迷い出た羊たちの罪は軽くないからです。
自分勝手な道を歩んでさまよう羊は、自分の周りの羊も道連れにして、危ない目に合わせます。特に、まるで自分が羊飼いであるかのように、自分は正しい道を知っていると思い込んで他の羊も巻き込んでいる場合があります。従うべき羊飼いを見失って勝手な道を進むということは、自分を危険にさらすだけでなく、周りの人も混乱させることなのです。だから、羊のすべきことはただ一つ、本来従うべき羊飼いの元に戻ることです。
でも、それならなぜ神様は私たちに自由を与えたのかという疑問が湧いてくるかもしれません。羊が迷い出ることを防ぎたいなら、綱でも鎖でも首につけて、絶対に離れないようにすればいい話です。言い換えるなら、なぜ神様は私たちを最初からもっと意志が強くて正しくて善良なようにしかならないように造らなかったのか、という疑問です。この疑問に対する答えは、「愛するということは自由な意志によるものだから」です。私たちが自分の意志で自分のいるべき場所は神様の元であると信じて戻ってくることを、神様は望みました。その結果、私たちの多くが神様の元に戻らず、この世界に苦しみをもたらすとしても、神様は私たちに選択を委ねられました。
3. 主は私の良い羊飼い
もう一度、詩編23:1を読みます。
主は私の羊飼い。私は乏しいことがない。(詩編23:1)
この言葉は信仰の告白でもあります。「私はあなたの羊です、私はあなたを主として従います」という告白です。それは、自分が自分勝手にさまよう迷子の羊であったことを認め、神様はその全てを知っておられた上で自分を探しに来て見つけ出してくださった羊飼いであるということを信じるということです。そう信じても、私たちが欠けだらけで、間違いを犯すことには変わりありません。それでも、「私は乏しいことがない」と宣言できるのは、神様はいつも私たちの過ちを正し、私たちを進むべき方向に導いてくださる方だからです。そして、私たちが何度迷い出ても、どんなに遠く離れても、私たちのことをあきらめずに追いかけて、探し出して、連れ戻してくださる方です。
最後に、詩編23篇を子ども向けに訳したものを読んで終わりにしたいと思います。サリー・ロイドジョーンズ作、廣橋麻子訳、「ジーザス・バイブルストーリー」という本です。
神さまはわたしの羊かい
わたしはその小さな羊
神さまは
おなかをすかせるわたしに食べさせ、
まよっているわたしをみちびき、
困っているわたしのめんどうをみてくださる
だから、わたしはいつも幸せ
わたしは心から安心
やわらかなみどりの草の上でしずかに横になっているときみたいに
きらきら流れる小川から、おいしい水をいっぱい飲んだときみたいに
もしも、わたしが
暗くて、こわいところにひとりぼっちにされたとしても
こわくない
わたしの羊かい、神さまが
いっしょにいてくださるから
いつもそばにいて
わたしをきけんから守り
助け出してくださる
だから
わたしもゆう気を出す
だから
わたしも強くなれる
神さまはすばらしいものを用意してくださる
わたしのために
わたしがゆめ見た、よいものすべて
神さまはわたしの心をよろこびでみたす
あふれるくらいに
どこに行ってもわたしは知っている
神さまが
けっしてあきらめないこと
けっしてやめないこと
何を?
わたしたちを愛するってこと
そしていつも、いつまでも
愛しつづけてくださることを
(祈り)主イエス様、私たちが、あなたの羊として、あなたの子として、あなたの元に戻ることができるように助けてください。あなたは、私たちがどんなにあなたから離れても、どんなに道を間違えても、あきらめずに探して見つけ出してくださる方です。あなたのその深い愛と憐れみを、私たちが信頼することができますように。あなたのような方は他にいません。どうか弱くて間違いを犯しやすい私たちを導いてください。私たちは自分の力であなたに従うことはできません。どうぞあなたの霊を私たちに注いて、助けてください。主イエス様、あなたのお名前によってお祈りします。アーメン。
要約
私たちは欠けが多く、間違いもたくさん犯します。私たちに未来を知ることはできず、不確かなままで進むしかありません。でも、イエス様は私たちの良い羊飼いになってくださった方です。私たちの欠点も過ちも受け入れて、私たちを正しい道に必ず導いてくださる方です。イエス様と共に生きるなら、私たちに足りないものは何もなく、どんな状況においても、神様の恵みと憐れみが注がれていることを知ることができます。良い羊飼いの声を聞きましょう。
話し合いのために
1. 性善説と性悪説についてどう考えますか?
2. 「私は乏しいことがない」とは?
子どもたち(保護者)のために
詩編23篇を子ども用に訳したものを一緒に読んで、自由に感想を言い合ってみてください。
(サリー・ロイド・ジョーンズ作、廣橋麻子訳『ジーザス・バイブルストーリー』より)
神さまはわたしの羊かい
わたしはその小さな羊
神さまは
おなかをすかせるわたしに食べさせ、
まよっているわたしをみちびき、
困っているわたしのめんどうをみてくださる
だから、わたしはいつも幸せ
わたしは心から安心
やわらかなみどりの草の上でしずかに横になっているときみたいに
きらきら流れる小川から、おいしい水をいっぱい飲んだときみたいに
もしも、わたしが
暗くて、こわいところにひとりぼっちにされたとしても
こわくない
わたしの羊かい、神さまが
いっしょにいてくださるから
いつもそばにいて
わたしをきけんから守り
助け出してくださる
だから
わたしもゆう気を出す
だから
わたしも強くなれる
神さまはすばらしいものを用意してくださる
わたしのために
わたしがゆめ見た、よいものすべて
神さまはわたしの心をよろこびでみたす
あふれるくらいに
どこに行ってもわたしは知っている
神さまが
けっしてあきらめないこと
けっしてやめないこと
何を?
わたしたちを愛するってこと
そしていつも、いつまでも
愛しつづけてくださることを