大切な人を悲しませないための知恵

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大切な人を悲しませないための知恵

(箴言5)

永原アンディ

 箴言のシリーズ、今日は5章です。三つに分けて読んでゆきましょう。最初に15節まで読みます。

1. 書かれた時代の若い男性でない私たちは箴言をどう読むべきか?
 (1-14)

1 子よ、私の知恵に思いを向け私の英知に耳を傾けよ
2 それは慎みを守りあなたの唇に知識を保つため。
3 よその女の唇は蜜を滴らせその口は油よりも滑らか。
4 だが、ついには苦よもぎのように苦く両刃の剣のように鋭くなる。
5 彼女の足は死へと下りその歩みは陰府に達する。
6 命への道筋に気を配らず道をさまようが、それにも気付かない。
7 子らよ、今こそ、私に聞け。私の口の言葉から離れるな。
8 あなたの道を彼女から遠ざけその家の門に近寄るな。
9 あなたの誉れを他人に歳月を残忍な者に渡してしまわないために。
10 よその者があなたの富とあなたが労苦して得たものによって異国人の家を満たさないために。
11 後に、肉も骨も朽ちるときあなたは呻き
12 こう言うであろう。「どうして、私の心は諭しを憎み懲らしめを軽んじたのだろう。
13 導く人の声を聞かず教える人に耳を傾けなかったのか。14 集会の中で、会衆の中で私は追い詰められていた。」

 今までお話ししてきたように、箴言はイスラエルの伝統の中で父から息子へと語り続けられた知恵の言葉です。そして、それが単に破滅を避け繁栄をもたらす経験則のようなものではなく、私たちが人を造られた神様の意思に従う生き方の素晴らしさを保つために神様ご自身が折にふれて教えてくださるものだと学んできました。

 しかし箴言は、当時の社会を反映したものであること、また若い男性にその父が語ったものであったということを、私たちは十分考慮して読まなければなりません。さて、皆さんは、この部分を読んで、不快に感じられる点はなかったでしょうか。

 箴言は男性、しかもある程度高い社会的地位のある一族の父と息子の視点で書かれています。当時の社会、それはどこに国でも似たり寄ったりでしたが、そこでは箴言の父と息子のような立場、つまりその社会で一握りの人々だけが、今でいう「基本的人権」を持っていました。そこには、女性や子供や民衆、外国人の視点はありません。

 ですから、この箇所を表面的に読むなら、聖書は「偏見に満ち溢れた差別的な文書」になってしまいます。そこで、ある人々は聖書は他の宗教の経典とともにそれ以外の書物以上の価値はなく、神の言葉と信じるのは間違いだと断じます。またその一方で、聖書は歴史や文化を超越した、一言一句、文字通りの神の言葉であって、書かれた通りに受け止めなければならない、男性中心が神様の意思と信じている人々がいます。しかしそのどちらもがキリスト者を自認している人々です。

 皆さんはどのような意味で聖書を神の言葉と考えているのでしょうか。私自身はもはや若くはありませんが、異性愛者の男性で現代の制度に特権を得ている者です。しかし、男性中心が神様の意思とは考えられません。

 その根拠は創世記の初めに書かれている神様による創造の記事と、福音書に記録されているイエスの言動です。創世記によれば、すべての人が例外なく神様の似姿に創られました。そして、イエスも人を性別やその人の在り方で差別なさったことがありませんでした。そこには聖書の他の箇所でみられるような一見、男性優位は当然と思われるような考えはありません。

 私は聖書が神様の言葉であると信じていますが、同時に聖書が表面的には、その書かれた時代や社会の影響を避けられないものであることも確かです。それらの影響から生じたノイズを、創造の真理を体現したイエスの言動というフィルターで除かなければ、神様の真意は受け取れません。

2. 大切な人を悲しませないための知恵 (15-20)

15 あなたの水溜めから水を飲めあなたの井戸に湧く水を。
16 あなたの泉の水が路地に水の流れが広場に溢れ出てよいものか。
17 その水を自分だけのものとしあなたのもとにいるよその者に渡してはならない。
18 あなたの泉は祝福されよ。あなたの若い時の妻から喜びを得よ。
19 愛に溢れる雌鹿、恵みに満ちた野山羊。あなたはその乳房にいつの時も満ち足り絶えず彼女の愛に酔いしれよ。
20 子よ、なぜ、よその女に酔いしれるのか異国の女の胸を抱くのか。

 最初に読んだ部分とともに、ここにも誘惑する女性が悪であり、善良な若い男性を堕落させる者とされています。教会共同訳で「よその」と訳されている「女」にかかる形容詞の原意は「外の」 (outside) という抽象的なものなので、ここで言われている女性は「外国の女性」とも「律法に外れた女性」とも「婚姻関係にない女性」とも「夫を裏切って姦淫する女性」とも、「金銭と引き換えに性的関係を提供する女性」とも取れる言葉で、現代語で訳された聖書でも違う訳を採用していて、NIVでは「姦淫する女性」としています。

 聖書を表面的に、しかも権威ある神の言葉として読もうとすると、女性は男性に劣り、罪深い存在だと決めつけることになります。元来、神様の似姿として創られた人間が平等であることは自明なことであるはずです。しかしキリスト教社会に限らず、他の宗教でも、また宗教に限らず、人類社会全体が全歴史を通してこのことを認めてきませんでした。

 この不平等が大きく改善されたのは、ようやく19−20世紀のことです。貧富による差別も、階級による差別も、性別の差別も、人種の差別も、性的少数者に対する差別も、原理主義的な宗教者を除けば、それが神様の意思ではないことを誰もが知っています。それでも差別がなくならないのは、それが構造的に温存されてきたからです。 この問題の根源は私たちの持つ罪の性質です。

 一つ一つの差別を解消させようとする地道な努力が続く一方でで、それを後戻りさせたい人々の活動が止むことはありません。私たちが無邪気に、表面的にも「聖書は誤りのない神の言葉」として読めば、そのような人々の手助けをしてしまうことになります。

 そこで私たちは、あらゆる偏見から自由なイエスにならって彼の視点で聖書を読む必要があるのです。

 イエスが十字架にかけられる直前の木曜日、彼は弟子たちとともに夕食をともにした後、突然、弟子たちの足を洗うと言い出しました。弟子たちは大変驚き、賛成できませんでした。なぜなら足を洗うのはしもべが主人にすることであって、その反対はあり得ないことだったからです。

 イエスは強いて弟子たちの足を洗い手拭いで拭った後で

主であり、師である私があなたがたの足を洗ったのだから、あなたがたも互いに足を洗い合うべきである。私があなたがたにしたとおりに、あなたがたもするようにと、模範を示したのだ。 (ヨハネによる福音書13:14,15)

と言われました。さらにイエスは続く一連の会話の中で彼らにこう語りました。

あなたがたに新しい戒めを与える。互いに愛し合いなさい。私があなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。互いに愛し合うならば、それによってあなたがたが私の弟子であることを、皆が知るであろう。

 イエスは、愛することは仕えることだと教えているのです。そして地位や能力の違いに関わらず「互いに愛し合う」こと「互いに仕え合う」ことを、私たちが守るべき新しい戒めとして命じられたのです。このことは、社会的構造によって特権を享受している人ほど強く自覚しなければならないことです。

 女性に対する男性や、性的少数者に対する多数者、また貧しい者に対する富んでいる者などです。私たちはその特権を意識せずに当たり前のことのように享受しているので、その特権を持たない相手を傷つけてしまいがちなのです。

性別に関わらず自分は配偶者に仕える者だと考えてください。

 ここでは男性に対して配偶者を大切にし、他の人に心を寄せることを戒めていますが、神様の意思は女性にも同様に向けられています。それはどのような人間関係に対しても言えることです。

 だからイエスは「隣人を自分自身のように愛しなさい」(マタイ22:39) といわれたのです。私たちが仕えている者なら、その相手を諌めることはあっても、感情に任せて怒って暴言を吐くことはできないはずです。ましてや怖がらせる、暴力を振るうことはあってはならないことです。

 神様は皆さんが、相手が誰であれ、欲望に負けて祝福された人間関係を失ってほしくないと思っておられるのです。

3. 私たちの道のりの全てに気を配る主 (21-23)

21 人の道は主の目の正面にある。主はその道のりのすべてに気を配っておられる。
22 悪しき者は自らの過ちの罠にかかりその罪の綱につながれる。
23 諭しがないため死に至るが底知れぬ愚かさに酔いしれている。

 箴言の“父”が懸命に、神様からの知恵を大切にすることを求めているのは、ここに書かれているように、私たちの人生が神様の手によって守られているからです。神様との関係をこちら側から切ろうとしない限り、神様は決して私たちを見放さないのです。

 神様に従おうとしない者が、この地上でどんなに豊かに見えても、羨んではいけません。それは本当の豊かさではありません。神様に背を向けて歩んでいるという恐ろしい不幸に気付くことのできない憐れな人々です。

 「隣人を愛しなさい」と言われたイエスは、そこにとどまらず、「敵を愛し、迫害する者のために祈れ」(5:43,44)とさえいわれました。そのような人々のために祈るとすれば、「彼らが神様の恵みに気付いて、方向転換できますように」という祈りになるでしょう。実際、使徒パウロはそのような経験の持ち主です。

 幸いなことにイエスに従う者とされたわたしたちは、イエスの意思に従って、「仕える者」となってイエスとともに歩んでゆきましょう。

(祈り)イエス様、ただ恵みによってあなたを知る者とされ、あなたとともに歩む者とされていることをありがとうございます。
 私たちの罪が、不平等、不公平を作り出し、今もこの世界に多く残る貧困や差別、迫害を引き起こしていることをあなたに申し訳なく思います。
 また、私たちが身近にいる人々に対して偏見を持って見下してしまう者であることを痛感しています。
 どうか私たちに、あなたの思いを持たせてください。
 目の前にいるその人に対して、あなたがかけたい声をかけ、してあげたいことをすることができるように、必要な知恵と忍耐そして愛を私たちのうちに満たしてください。
 この世界の仕組みを、あなたが始められた創造の意図に戻すことができるように、一人一人にできることを教え、する力を与えてください。
 あなたがいつも私たちとともに歩んでいてくださることを感謝してイエスキリストの名前によってお祈りします。


要約

神様はすべての人々をご自身の似姿として造られました。しかし人は互いに自分とは異なる特性を持つ人を認められずに、自分より劣る者として扱います。社会の構造はそれを反映して力を持つ者に都合よくできています。しかし、イエスは「互いに仕え合いなさい」と、それまで当然とされてきた社会の構造に異を唱え、ご自身から私たちに「仕える者」となってくださり十字架から逃れませんでした。イエスに従いたいなら、私たちは仕える者となるほかありません。誰かを愛するとは、自分がその人に仕える者となることです。 

話し合いのために

1. なぜ不平等や差別はなかなかなくならないのでしょうか?

2. 今日のテキストから得た新たな気づきをシェアしてください。

子どもたち(保護者)のために

創世記1:27−28と、イエスが偏見なく女性や子供、外国人と接している箇所(例えば、マタイ15:21-28、ルカ16:18、ヨハネ4章、8章など)を読み聞かせて、性別などのその人の属性に限らずすべての人が神様のに姿として創造されていることを伝え、どのような差別も神様の意思ではないことを教えてください。