イエス様の叫び

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日曜礼拝・英語通訳付

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イエス様の叫び

(ヨハネによる福音書12:37-50)

池田真理

 今日はヨハネによる福音書の続きで、12章の終わりを読んでいきます。実はこの箇所はヨハネによる福音書の中で一区切りとなる箇所です。今日の箇所でイエス様の公の活動の記録は終わり、次の箇所からはイエス様の弟子たちへのメッセージの記録が始まります。そして、その先はイエス様の逮捕と処刑、復活の記事になります。そういうわけで、今日の箇所はこれまでのイエス様の教えのまとめでもあり、弟子たち以外の広い聴衆に対するイエス様の最後の呼びかけでもあります。実際、イエス様は「叫んだ」とあります。イエス様は、ご自分のことを嫌い拒む人々に向けて叫び続けました。

 今日の箇所の内容は、前半は人々がイエス様を信じることができなかった理由をヨハネが解説しており、後半はイエス様を信じるとはどういうことかをイエス様ご自身の言葉で聞くことができます。

 それではまず前半を読んでいきましょう。ヨハネによれば、イエス様の言葉や行いを知っても人々がイエス様を拒む理由は二つあります。まず一つ目から読んでいきましょう。37-41節です。

A. イエス様を信じることができない理由 
1. 神様の計画 (37-41)

37 このように多くのしるしを彼らの前でなさったが、彼らはイエスを信じなかった。38 預言者イザヤの言葉が実現するためであった。彼はこう言っている。「主よ、誰が私たちの知らせを信じましたか。主の腕は、誰に示されましたか。」39 彼らが信じることができなかった理由を、イザヤはまた次のように言っている。40 「神は彼らの目を見えなくし、/心をかたくなにされた。彼らが目で見ず/心で悟らず、立ち帰ることのないためである。私は彼らを癒さない。」41 イザヤは、イエスの栄光を見たので、このように言い、イエスについて語ったのである。

 私たちの大切な人たちの中には、イエス様を信じていない人たちがたくさんいます。その人たちがイエス様を信じていない理由は、まず第一に、ここで言われているように、それがまだ神様の計画ではないからです。「えっ、じゃあ、あの人が神様を信じないのは神様が信じさせないようにしているってこと?じゃあ私が何をしても無意味じゃない?」と聞くたくなりますが、そういうわけではありません。

 「なぜある人々は先に神様を信じるようになり、他の人々は何十年も神様を信じようとしないのか?」ということは、旧約聖書の時代から人々が問い続けた課題です。そして、その答えが、先ほど読んだイザヤ書の言葉です。新約聖書でも、パウロがこのように言っています。「神はご自分が憐れみたいと思う者を憐れみ、かたくなにしたいと思う者をかたくなにされる。」(ローマ9:18)信仰は神様の働きです。私たちは誰も、神様の助けなしに自分の力だけで信仰を持てません。そして、神様がいつ、どう働かれるのかは、神様のお決めになることで、私たちが決められることではありません。神様は、さまざまな人や出来事を通して、一人ひとりの心に働きかける方です。私たちが信仰を与えられた時もそうでしたよね。

 だから、私たちにできることは、自分自身が神様を愛して信頼することだけです。それは人に神様について言葉で説明するよりずっと地道な誠実さを求められることです。神様は一人ひとりに良い計画をお持ちです。信仰を持っていようとなかろうと、それは変わりません。何よりも、今日のテーマですが、イエス様ご自身が誰のこともあきらめなかったのです。

 次の42-43節では、人が信仰を持たないもう一つの理由が言われています。

2. 社会的圧力 (42-43)

42 とはいえ、議員の中にもイエスを信じる者は多かった。ただ、会堂から追放されるのを恐れ、ファリサイ派の人々をはばかって告白はしなかった。43 彼らは、神からの誉れよりも、人間からの誉れの方を好んだのである。

 信仰は、神様の働きと計画によるものであると同時に、私たち自身の決断という側面もあります。そして、私たちの決断にはさまざまな要因が影響します。自分自身の考えや希望だけではなく、親しい人がどう思うか、世間体はどうか、自分のキャリアにどう影響するかなど、さまざまな要因です。

 イエス様を信じたユダヤ人たちは、その信仰を公に言い表せば、会堂から追放されることを覚悟しなければなりませんでした。会堂から追放されるとは、異教徒と同じとみなされ、ユダヤ人社会から追放されることを意味します。それは、それまで自分が努力して手に入れた社会的身分や信頼関係を捨てるということです。それは確かに勇気のいる大きな決断だったでしょう。でも、反対に言えば、彼らにとって自分の社会的身分を守ることはイエス様を信じることよりも重要だったと言えます。

 私たちがイエス様を信じると決める時も、新約聖書の時代のユダヤ人ほどではないにしても、ある程度の社会的圧力の影響を受けます。家族や親戚、友人にどう思われるかは、誰でも多少は気にすることだと思います。でも、イエス様を信じるということは、自分が生きていく上で何を一番大切にするか決めるということです。人にどう思われるかでその気持ちが揺らぐとしたら、イエス様のことがまだそれほど自分にとって重要ではないからです。また、神様の計画の中で、まだその時は来ていないということです。

 キリスト教の礎を築いたパウロは、もともととても熱心なユダヤ教徒でしたが、イエス様を知って、それまで自分が獲得した社会的地位を捨ててイエス様を信じました。彼はこう言っています。フィリピの人々への手紙3:4-8です。

4 …肉を頼みにしようと思う人がいるなら、私はなおさらのことです。5 私は生まれて八日目に割礼を受け、イスラエルの民に属し、ベニヤミン族の出身で、ヘブライ人の中のヘブライ人です。律法に関してはファリサイ派、6 熱心さの点では教会の迫害者、律法の義に関しては非のうちどころのない者でした。7 しかし、私にとって利益であったこれらのことを、キリストのゆえに損失と見なすようになったのです。8 そればかりか、私の主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさに、今では他の一切を損失と見ています。キリストのゆえに私はすべてを失いましたが、それらを今は屑と考えています。

イエス様を知ることの素晴らしさに比べたら他の全ては無意味で、だからイエス様を信じることで全てを失っても構わなかったのだ、と言っています。イエス様を信じることは何がそんなに素晴らしいのでしょうか?いよいよイエス様ご自身の言葉で聞いていきましょう。イエス様の公の活動最後の叫びです。まず44-45節です。

B. イエス様を信じるとは
1. 神様がどういう方かを知ること (44-45)

44 イエスは叫んで、こう言われた。「私を信じる者は、私ではなくて、私をお遣わしになった方を信じるのである。45 私を見る者は、私をお遣わしになった方を見るのである。


 イエス様を信じるということは、イエス様が神様によってこの世界に送られた神様の子であると信じるということです。それは、この世界を作られた創造主である神様が、一人の人となってこの世界に来られたことを信じることとも言い換えられます。歴史上に実在したひとりの人物が実はこの世界の創造主である神様だったということが事実なら、(私たちはそう信じているのですが、)大変なことです。私たちは、イエス様を通して神様がどういう方なのか知ることができるということです。では、イエス様はどういう方で、何のためにこの世界に来られたのでしょうか?続くイエス様の言葉を読みます。46-47節です。

2. 赦された罪人として生きること (46-47)


46 私を信じる者が、誰も闇の中にとどまることのないように、私は光として世に来た。47 私の言葉を聞いて、それを守らない者がいても、私はその者を裁かない。私は、世を裁くためではなく、世を救うために来たからである。

 私たちは、神様が私たち一人ひとりのことをそれぞれが生まれる前から知っておられ、愛しておられるということを、なかなか受け入れられません。なぜなら、互いにそのことを忘れさせ、否定させ合っているからです。例えば、人に傷つけられたり裏切られたり、失敗したり挫折したりする経験を通して、私たちは、「神様も誰も私のことなんて愛していないし、必要としていない」と感じるようになります。また、私たち自身が人を深く傷つけ、神様のことも深く悲しませます。私たちは、互いにとって、また神様にとって、怒りと悲しみの原因を作り出している罪人だということです。そのままでは、私たちは何が正しいのかも分からず、闇の中でさまよっているのと同じです。

 だから、イエス様はこの世界に来られ、十字架で死なれました。神様は私たちを裁くよりも赦して救いたいと願われており、神様が私たちを私たちが生まれる前から愛しておられるということは本当のことなのだと、証明するためです。神様の変わらない愛、それが私たちを導く光です。その光に導かれて、どんな状況においても神様の愛を信頼して歩むことが、互いに傷つけ合う連鎖を止め、自分の周りから世界を変えていく方法です。そのためには、私たちはイエス様が十字架に架かられたのは私たちの罪を贖うためであり、イエス様の死は私たちのためであったと認めることが必要です。

 このように、イエス様を信じるということは、イエス様に赦された罪人として生きることであり、神様への信頼と感謝を第一として生きるということです。

 イエス様のなさったことはこれで終わりではありません。最後の48-50節を読みましょう。

3. 神様と共に永遠に生きること (48-50)

48 私を拒み、私の言葉を受け入れない者に対しては、裁くものがある。私の語った言葉が、終わりの日にその者を裁く。49 なぜなら、私は自分勝手に語ったのではなく、私をお遣わしになった父ご自身が、私の言うべきこと、語るべきことをお命じになったからである。50 父の命令は永遠の命であることを、私は知っている。だから、私が語ることは、父が私に言われた通りを、そのまま語っているのである。」

 イエス様がこの世界に来られた最終目的は、私たちに永遠の命を与えることです。神様は、私たちと永遠に共に生きたいと願われ、それを実現するためにイエス様としてこの世界に来られ、十字架で死なれ、三日後に復活されました。イエス様の死と復活は、私たちがもはや罪の力にも死の力にも支配されずに、神様を信頼して生きる道を開きました。その新しい生き方は、神様と共に永遠に生きる新しい命の始まりです。肉体を持ってこの世界を生きている間から始まり、肉体の死を超えて続く神様との信頼関係です。

 神様は、私たちが神様のことを信じる前から私たちを導いておられる方です。目に見えないので、時に神様は私たちのことを忘れてしまっているか、無関心なのではないかと思うこともありますが、イエス様の十字架が「そうではない」とはっきりと証明してくれました。神様は、私たちと共に歩んでおられ、私たちがどんな時でも希望と喜びを失わないで生きられることを望まれています。

神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。御子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。(ヨハネ3:16)

(祈り)主イエス様、どうぞあなたの深い愛で私たちの心を満たしてください。私たちにはあなたが必要です。あなたは、私たちがあなたを信じる前から、私たちを守り導いてくださいました。どうか、私たちがいつもあなたを信頼して歩むことができますように。あなたはそれぞれに良い計画をお持ちであることを、どんな時でも忘れないようにさせてください。あなたが私たちにそのことを教えるためにその命を献げてくださったことを覚えます。どうかあなたの霊でによって私たちの心にあなたの叫びを聞かせてください。主イエス様、あなたに心からの感謝を捧げて、あなたのお名前によってお祈りします。アーメン。

要約

イエス様の言葉や行いを知っても、全ての人がイエス様と個人的な信頼関係を持つわけではありません。それには神様ご自身の助けが不可欠です。誰も自分の力だけで信仰を持てる人はいません。また、イエス様を信じることによって社会的に排除される可能性があれば、私たちは公に信仰を言い表すことを恐れます。でも、イエス様はご自分のことを拒んでいる人たちに向かって叫び続けました。そして、自分を通して神様の深い愛を受け取るように呼びかけ続けました。

話し合いのために

1. 神様の計画によって信仰を持つ人と持たない人がいるということについて、どう考えますか?

2. イエス様はここでなぜ叫んだのでしょうか?

子どもたち(保護者)のために

イエス様はご自分の弟子たちだけでなく、ご自分のことを嫌っている人たちに向けても語りかけ続けたことを話してください。「私を通して神様の愛を知ってほしい」と願われていたからです。