死に至る病”が癒やされる

Anonymous Russian manuscript illuminators, 1560-1570s Facial Chronicle (Illustrated Chronicle of Ivan the Terrible) (in 10 volumes: pdf, pdf with translation)Public domain image, Public domain, via Wikimedia Commons
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日曜礼拝・英語通訳付

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“死に至る病”が癒やされる

(箴言 6:20-35)

永原アンディ

 箴言のシリーズ、今日は6章の前半を読んでゆきます。初めに5節まで読みましょう。

20 子よ、父の戒めを守れ。母の教えをおろそかにするな。
21 それを常に心に結び付け首に巻きつけておけ。
22 それはあなたの歩みを導き床に就くときも守り目覚めればあなたに話しかける。
23 戒めは灯、教えは光諭しのための懲らしめは命の道。
24 それはあなたを悪い女から異国の女の滑らかな舌から守る。
25 彼女の美しさを心の中で追い慕うな。そのまなざしに捕らわれるな。
26 遊女への支払いは多くても一塊のパン人の妻は貴い命を貪る。
27 人が火を懐に抱え込み衣を焼かれないことがあろうか。
28 炭火の上を歩いて足にやけどをしないことがあろうか。
29 友の妻と通じる者も同様。彼女に触れる者は誰も罰を免れることはない。
30 飢えを満たそうと盗みを働く者を人々は侮りはしないだろう。
31 だが見つかれば、七倍を償い一族の財産すべてを充てることになる。
32 女と姦淫する者は浅はか身の破滅をもたらす。
33 彼は傷と恥を受けその屈辱は拭われることはない。
34 憤った男は嫉妬に駆られ復讐するときは容赦しない。
35 その男はいかなる償いをも受け入れずどれほど多くの贈り物にも応じない。

1. 姦淫は死に値する罪

 この箇所は強く姦淫を戒めている箇所です。そして今までも紹介してきたように、それはこの箇所だけではありません。父からから息子への戒めという形で書かれている箴言のなかで、性的な誘惑に対する警告が繰り返し出てくることは、私たちがこの誘惑に陥りやすい存在であるからに他なりません。そして、その代償が非常に大きいことを箴言はさまざまの表現で繰り返し警告しています。

 代償が非常に大きいことを知りながら、私たちがその深みに溺れてしまうのはなぜでしょうか。それは姦淫という行為自体が人を破滅させるものであるだけでなく、私たちの誰もが例外なく持つ厄介な性質の典型的な現れだからです。       

 聖書はそれを「罪」と呼びます。使徒パウロは「罪の報酬は死」(ローマ6:23)と言いましたが、今日のテキストには、姦淫が死をもたらすことを示す言葉がいくつか出てきました。26節には、人の妻(と姦淫する者)は貴い命を貪る、32節では、身の破滅をもたらす、34節では容赦のない復讐に合うとあります。反対に23節は、父母の戒めを守り姦淫に陥らないことが命の道であると言っています。  

 しかし、本当に姦淫は死をもたらすのでしょうか。聖書にはそう思えない箇所もあります。典型的なのはダビデ王です。イスラエルの歴史の中で最も優れた王ですが、今日の箴言の観点で言うなら、ダビデは自分の権力を用いて部下から妻を奪った人です。イスラエルの王、2番人気のソロモンは、そのダビデの犯した不倫関係によって生まれた人で、晩年には彼自身も神様に対し誠実ではない生き方を選択しました。  

 今日の箇所もそうですが、箴言には、「女」に、悪いとか、不道徳なといった否定的な形容詞をつけて、女性を誘惑者として描いている箇所が多くありますが、それは本質的な見方ではありません。姦淫が起こるのは、多くの場合、男性に偏った社会の構造と、体格的にも優る男性の欲望によって生じるものです。性犯罪の多くが男性によって起こされるのも同じ理由です。それは男性が、本質的により罪深いということを意味するわけではなく、男性がより容易に罪を犯しやすい社会的な要因が大きいということです。

 そして同じ男性の間にも格差があります。仮にもし、姦淫を犯していたのがウリヤであったなら、ウリヤは即刻ダビデに殺されていたことでしょう。

 誰もが神様の似姿に創られたはずの人間の社会で差別がなくならないのは、差別があることによる利益を惜しむ人がいるからです。しかしそこから、姦淫をはじめとする罪を犯しても、多少は後から苦しむことはあるかもしれないけれど、たいしたことではないと結論づけるのは早計です。罪は肉体の死よりはるかに深刻な本当の死をもたらすのです。

 デンマークの哲学者キルケゴールは、イエスによるラザロの復活の記事(ヨハネによる福音書11章)に着想を得て書名とした「死に至る病」を1849年に発表しています。彼の言う「死に至る病」とは「絶望」のことです。その「絶望」とは、自分の感じる「絶望感」を指す言葉ではありません。そうではなく、その人の魂の客観的な状態を指す言葉です。

 キルケゴールによれば、神学の言葉で原罪と呼ばれる私たちの罪の性質によって、神様から切り離されている状態こそが、肉体の死をもっても終わらない「絶望」です。そして、倫理的にも、能力的にも神様に近づくことのできない人間の悔い改めのない反抗的な開き直りが、偶像礼拝です。それは自分で神をでっち上げる行為です。実際に木や石を拝むことが偶像礼拝の本質なのではありません。自分の欲望に、それが神であるかのように従うことが偶像礼拝の本質です。木や石はそのカモフラージュに用いられる小道具にすぎません。

 イスラエルで一番人気の王も、二番人気のその息子も、この誘惑に勝つことができませんでした。本人たちは肉体的寿命をまっとうしたかもしれませんが、彼らの王家は何世代か経つうちに完全に滅びてしまいました。

 私たちは皆、絶望感を持っていようといまいと絶望的な存在なのです。私たちは信頼関係の中で生きているのですが、罪はこの関係を破壊するものです。人との関係を壊すとき、神様との関係も壊れます。私たちは壊れてしまった関係を回復する能力を持っていないので絶望的なのです。

 キルケゴールは、ほとんどの私たちより、「絶望感」に支配されながら短かい生涯を生きた人だったようです。その彼が、自身が感じてきた絶望感よりも根源的な絶望の存在を知ったのです。 さらに、その絶望はイエスに従って生きることによって希望に変えられることを理解しました。そして彼は私たちのために、この「死に至る病」から癒されるための、たった一つの希望、イエス・キリストに従うことを伝えようと「死に至る病」を著したのです。

2. 聞く者から伝える者に(20–23)

 それでは、順番が逆になりましたが、20-23節について考えてみましょう。

今まで、わたしたちは戒められている息子の立場でこの箴言のシリーズを読んできましたが、ここで皆さんに、息子ではなく“父”の立場で読んでみることをお勧めしたいと思うのです。実際に子供がいる、いないに関わらず、私たちは世代から世代へと、神様の知恵を伝えてきました。

 使徒パウロは生涯独身で子供はいませんでしたが、彼の生きた時代の教会の全ての人々の信仰的な父親のの役割を果たしました。彼は私たちの信仰の先祖とも言えるでしょう。そのような意味で、自分の子供であろうとなかろうと、私たちには次の世代の人々を神様の知恵に基づいて戒め、教え、正す責任があるのです。

 皆さんは、この父のように「私の戒めを心に結びつけ、首に巻きつけておきなさい。そうすれば、人生はいつもそれによって守られ、命に至る人生を歩めます。」と言えるほどの確固とした言葉を持っているでしょうか?それは大袈裟にいえば、人を育てるに際して教育哲学を持っていますかということです。

 先にお話ししたキルケゴールは、生涯結婚することなく、子供もおらず42歳で亡くなっています。傍目から見れば、失意の人生と見る向きもあるでしょう。しかし、それは全くの誤解です。彼は、その著作によって全ての人に「死に至る病」つまり「絶望」の真相を正しく伝え、そこから逃れる道を示すことで、信仰的な父の役割を果たしました。そして絶望が、神様に人生を委ねたことによって滅ぼされ、彼は希望のうちに天に召されたのです。

 イエス以外に私たちの絶望を癒すことのできるものはありません。希望はイエスのうちにあります。皆さんが、どうかこのことを自分が悟ることにとどまらず、次世代に伝える人として歩んでください。

(祈り)神様、目に見える状況がどうであれ、あなたのうちに希望があることを知る幸いを与えてくださってありがとうございます。
あなたは、私たちが誘惑に弱く罪を犯しやすい者であることをよくご存知です。
どうか罪に陥ることがないように守ってください。
どんな時にも、あなたに従って歩みを進めることができるように教えてください。
絶望から救い出されたものとして、あなたにある希望を伝える者としてください。
イエスキリストの名前によってお祈りします。


要約

姦淫は人間関係を破壊するだけでなく、それを望まない神様との関係を破壊します。人間関係の破壊もその代償は大きいですが、神様との関係の破壊こそ、私たちにとって、肉体の死以上に深刻な真の死です。神様はこの私たちを絶望的な状態から、創造された時の本来のあり方に回復するために、イエスとしてこの世界に来てくださり、「私に従いなさい」と招いてくださいました。 

話し合いのために

1. なぜ私たちは姦淫に陥りやすいのですか?

2. なぜ私たちは姦淫を避けるべきなのですか?

子どもたち(保護者)のために

20-23節を読んで、なぜ父母の言葉に聞き従うべきなのか、「戒めは灯、教えは光諭しのための懲らしめは命の道」なのか話し合ってみましょう。