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日曜礼拝・英語通訳付
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励ましてきたあなたへ
(ヨブ記4:3-6)
裵在伊
3 あなたは多くの人を諭し、その萎えた手を強くした。
4 あなたの言葉は、つまずく者を起こし、弱った膝に力を与えた。
5 しかし今、あなたにそれが降りかかるとあなたは耐えられない。それがあなたの身を打つと、あなたはおびえる。
6 神を畏れることが、あなたの頼みではなかったのか。その歩みが完全であることが、あなたの望みではなかったのか。
皆さんは、これまで誰かを励ましたり、支えたりされた経験はありますか?
仲間が落ち込んでいるとき、そっと話を聞き、「大丈夫だよ」と声をかけたことがあるかもしれません。私たちは、人を支えることができる存在です。けれども、いざ自分自身がつらいときに、自分を励ますのがどれほど難しいことか。そういう経験をされたことがある方もおられることでしょう。
ある方はこう語っていました。「友だちがつらいときは、夜中でも電話に出て話を聞けるし、「大丈夫だよ」って言ってあげられる。でも、自分が落ち込んでいるときは、誰にも言えなくて、ベッドから出ることさえできなくなるんだ」。その言葉を聞いたとき、「ああ、それが私たち人間の弱さだな」と思いました。同時に、そこにこそ信仰の意味があると感じたのです。
ヨブ記4章には、ヨブの友人エリファズの言葉が記されています。ヨブは、財産と家族と健康を一度に失うという、耐えがたい苦しみに襲われました。そのヨブに最初に言葉をかけたのがエリファズでした。先ほどお読みしたヨブ記4章3-5節には、こうあります。
「あなたは多くの人を諭し、その萎えた手を強くした。あなたの言葉は、つまずく者を起こし、弱った膝に力を与えた。しかし今、あなたにそれが降りかかるとあなたは耐えられない。それがあなたの身を打つと、あなたはおびえる。」(3-5節)。
私自身も、心身ともに疲れ果て、誰にも言えずに一人で泣いていた時期がありました。そんなとき、ある後輩がそばに来て、こう言ってくれました。「つらいよね?つらいよね?」そう言って、私の手を引き、トイレの鏡の前に立たせたのです。そして続けて、こう言いました。「ジェイちゃんは、たくさんの人を励ましている。慰めている。ご飯もいっぱい作って、みんなを支えている。本当によくやっているよ。神さまが、きっと一番そう言ってくれている。だから、頭に手を置いて、自分に言ってみて。よくやった、よくやった」、と。戸惑いながらもそうしてみると、不思議と少しずつ力が戻ってきました。
私たちは人を励ますことはできても、自分を責めたり、信仰が揺らいでしまうことがあります。ヨブは、正しく生きてきたにもかかわらず、突然、財産も家族も健康もすべて失いました。理由もわからぬまま苦しみの中にいたとき、友人エリファズがこう語りかけます。
「あなたは多くの人を諭してきた。でも、自分が苦しむと耐えられないのか」と。
この言葉は、一見真実のようにも聞こえますが、苦しむ人には重く響きます。信仰者であっても、心が折れる時があります。信じていても、泣いて立ち上がれない時もあります。でも神さまは、そんな私たちに寄り添い、「あなたはよくやっているよ」と静かに語ってくださる方です。
誰かの話をじっくり聞いたことがある方もいるでしょう。ただそばにいるだけで、その人の人生が変わっていく。そんな瞬間に立ち会ったことはあるでしょうか。
ヨブ記4章4節には、こう記されています。「あなたの言葉はつまずく者を起こし、弱った膝に力を与えた」。その言葉は、特別な人のみが語れるものではありません。何かすごいことを言う必要もない。ただ、立ち上がれずにいる人に向けて、そっと差し出されたひと言です。心が折れそうな人、足に力が入らないような人のためにかけた、あたたかなひと言、それが、慰めの言葉なのです。
私も、かつて埼玉に住んでいたときこんなことがありました。ある日、アルバイト先の社長さんが、ふと私に自分の家庭の悩みを話してくれました。
「うちは家庭が崩壊していて、特に母のことがどうしても許せないんだ。隣に兄が住んでいて、私もすぐ近くに住んでいるのに、誰も母を訪ねていない。だけど、ジェイちゃんにお願いがある。母のところに行って、話を聞いてやってほしい」。突然の頼みに驚きましたが、なぜか私は「はい」と答えていました。それから、5年ほど、勉強を終えた夜にそのお母さんの家を訪ね、聖書を読んだり、イエスさまの話をしたり、ご飯を作り、一緒に食べて、ゆっくり話を聞く。そんな時間を少しずつ積み重ねていきました。
するとある日、不思議なことが起こりました。隣に住んでいた社長さんのお兄さんが、私の姿を見て「自分たちにはできなかったことを、この子はしている」と心を動かされたのです。そのことを、彼は妹である社長さんに伝えました。やがてふたりは、長年心に抱えてきた「憎しみ」と向き合い始めたのです。ついに、彼らは自分の足で母親のもとを訪ねるようになりました。少しずつ、でも確かに、和解が始まりました。そしてやがて、家族全員が教会に来るようになったのです。
私は、特別なことをしたわけではありません。ただ、そばにいて、聖書の話をする、ご飯を作って、一緒に食べて、話を聞いただけです。けれども、その小さな時間が、壊れていた家族をつなぎ直す大きな一歩になっていたのです。「あなたの言葉は、つまずく者を起こし、弱った膝に力を与えた」。それは、まさにこのような事なのだと思います。
神さまは、私たち一人ひとりを「励ましの器」として用いてくださいます。特別な資格も、大きな力も必要ありません。ただ、主の愛をもって寄り添い、聞き、共にいることです。それが、人の心を少しずつ溶かし、変えていくのです。それはときに、家族をつなぎ直し、人生を動かす力になります。けれども私たちは、誰かを励ませても、自分が苦しいときにはがっくりしてしまうこともあります。信仰が揺らぎ、祈れなくなるときもあるでしょう。
だからこそ、今日あらためて読み返したいのです。「しかし今、あなたにそれが降りかかるとあなたは耐えられない。それがあなたの身を打つと、あなたはおびえる。」(5節)
この言葉を言ったエリファズは、きっとこう言いたかったのでしょう。「信仰があるなら、こんなに取り乱すはずがない。あなたは人を励ましてきたのに、自分が試練にあったら耐えられないんだね」と。一見、正論のようにも聞こえます。でもこれは、苦しんでいる人にとってはあまりに重く、冷たい言葉です。
信仰があるからといって、いつも前向きでいられるわけではありません。誰かの話を聞くことはできても、自分が苦しむと、言葉が出なくなる。信仰も揺らぐ。祈る気力すら失われてしまいます。誰かの前では強く見えても、自分の心が折れそうになると、どうにもならない。そんな自分にがっかりしたことのある方も、きっとおられるでしょう。
でも、たとえば小さな子どもが転んで泣いているとき、親は「なんで泣くんだ、立てるだろ!」とは言わないでしょう。その子をそっと抱き上げて、「痛かったね。でも大丈夫」と声をかけて、また歩けるように支えてあげるはずです。
神さまも同じです。私たちが苦しみ、耐えられなくて、信仰が揺らいでいても、すぐに責めるような方ではありません。むしろ、その痛みの中で私たちに寄り添い、「よく頑張ってるね」と、そっと語ってくださる方です。
ヨブも、自分の力では立てないほどの試練を受けました。けれども、神さまは彼を見捨てませんでした。どん底の中で、神さまがどう向き合ってくださるかを、ヨブはやがて深く知るようになります。
だから大丈夫です。どうか、自分を責めすぎないでください。「自分も弱い」と認めるところから、神さまとの本当の信頼関係が始まっていくのです。そして、そのような体験をした人こそ、もっと深く人の痛みを理解し、もっと優しく人を励ますことができるようになるのです。
私はその家族に起こった和解の奇跡を通して、信仰とは「特別な力を持つこと」ではなく、主の愛をもって「ただ寄り添うこと」にあるのだと教えられました。ちょうどイエスさまが私たち一人ひとりにしてくださったかのようにです。罪深い私たちのために、主イエスは今日も寄り添い、罪を赦し、励まし続けておられます。小さな愛の行いが、人の心を動かし、家族をつなぎ直し、人生を変えていく。そのように、私たち一人ひとりは神さまの「励ましの器」とされていくのです。でも、そのように誰かを励ました経験があっても、自分自身が苦しいときには、がっくりしてしまうこともあります。信仰が揺らぎ、祈れなくなる時もあるでしょう。
だから、こう祈りましょう。「神さま、自分が弱くて立てなくなるときがあります。でも、そんな私をあなたは見捨てず、寄り添ってくださると信じます。どうか、誰かのつまずきに静かに寄り添える人としてください」。
ところがエリファズは、ヨブにこう問いかけました。「神を畏れることが、あなたの頼みではなかったのか。その歩みが完全であることが、あなたの望みではなかったのか。」(6節)。
これは、「あなたの信仰は本物ではなかったのか?」という非難の響きをもっています。でも、どうでしょうか?たとえば、健康に気をつけて生きてきた人が突然病気になったとき、「あなた、健康を頼りにしていたんじゃないの?それはどうしたの?」と問い詰められたら、どう感じるでしょう。悲しみや悔しさがこみ上げるはずです。信じていたことが無意味だったわけではない。ただ、それでも思い通りにならないことがある。それが現実であり、信仰者の歩みでもあります。
私たちも、「神さまを信じていれば大丈夫」と口にすることがあります。でも実際に、試練がやってくると、信仰が揺れる。疑いが出てしまいます。そして、自分を責めてしまうこともあるでしょう。
けれども、実は苦しみの中で信仰が揺れること自体が、信仰の証なのです。大切なのは、「揺れないこと」ではありません。「揺れながらも、神さまに向かうこと」です。
風の強い日、大きく枝を揺らす木も、根がしっかりしていれば倒れません。私たちも感情は揺れて当然です。でも、根が神さまに向いていれば、倒れません。
ヨブも、激しく揺れました。自分の身に何が起きているのか分からず、問い、嘆き、叫びました。でも、その根は神さまに向いていたのです。だからこそ、神さまは彼を見捨てませんでした。
今日、お伝えしたいのは、「信仰とは、動かないことではなく、揺れながらも神さまにより頼むこと」だということです。たとえ今、私たちの心が揺れていても大丈夫です。神さまは私たちの心の奥深くをご存じのお方です。「あなたの望みは神さまにあったのだろう? じゃあ今もそうだよね?」と責めるような方ではありません。
むしろ主はこう言われます。「あなたの願いがたとえ弱っていても、わたしはあなたを覚えている。あなたがわたしを信じた日も、わたしのもとに帰りたいと願った夜も、私は知っている」。主は、あなたが泣いているとき、苦しんでいるときにこそ、そばにいてくださいます。
だから、自分を責めすぎないでください。揺れる心ごと、主イエスのもとに差し出してください。そこからまた、希望の光が差し込んできます。
「神さまがともにいてくださる」。この言葉を、ぜひ自分自身に語りかけてください。
私たちの生活は、自由である一方、孤独や不安、プレッシャーに悩む時期でもあります。将来のこと、人間関係、自分の価値、さまざまなことで心が揺れ動きます。SNSでは誰かの楽しそうな姿が目に入る。けれども、自分はこのままでいいのか?努力しても結果が出ない時、自信はすぐに崩れてしまう。
だからこそ、信仰の言葉を、自分自身に語ってみてください。
「神さまがともにおられる」
「祈れば道が開かれる」
「主に信頼して進もう」
これらの言葉を、人に語るだけでなく、自分の心にも言い返してください。
「大丈夫。神さまがともにおられる。これまでも、これからも」。
あなたの励ましの言葉は、やがて自分自身への励ましにもなっていきます。そして、その信仰が、あなたを次の一歩へと導いてくれるのです。主が今、私たちに語っておられます。「あなたの信仰が、あなたの確かさだよ」。
「励ましてきたあなたへ」、今度は、神さまがあなたを励ましておられます。神さまは今もあなたと共におられます。だから、勇気を出して歩みなさい、と。
(祈り)天の父なる神さま。
あなたは、私たちの弱さを知っておられます。心が揺れるとき、涙が止まらないとき、信じることさえ難しいときも、それでも、私たちを見捨てず、そばにいてくださるあなたの恵みに感謝します。
主よ、私たちは時に、自分の信仰のなさを責め、誰かの期待にも、自分の願いにも応えられずに立ち尽くすことがあります。でもあなたは、そんな私たちに、静かに語りかけてくださいます。
「大丈夫。わたしが共にいる」と。
どうか、揺れ動く私たちの心の中に、あなたの変わらぬ愛の根を深くおろさせてください。苦しみの中にある友の隣に、静かに寄り添える者としてください。そして、自分自身にも、あなたの言葉を語る勇気を与えてください。
「神さまが共におられる」。その確かな希望が、私たちの一歩を導いていきますように。
主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。