格子窓越しに世界を見る

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日曜礼拝・英語通訳付

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格子窓越しに世界を見る

(箴言 7:1-9)

永原アンディ


 箴言のシリーズ、今日は7章です。最初の9節を読みます。

1 子よ、私の言葉を守り私の戒めをあなたの心に納めよ。
2 私の戒めを守って生きよ。私の教えを目の瞳のように守れ。
3 それをあなたの指に結び心の板に記しておけ。
4 知恵に「わが姉妹」と言い分別に「わが親族」と呼びかけよ。
5 それはあなたをよその女から滑らかに話す異国の女から守る。
6 私は家の窓から格子の外を眺めていた。
7 私が見たのは思慮なき者。その中に、浅はかな若者を認めた。
8 彼は街角まで通りを過ぎ女の家へと道を歩む
9 日の暮れるたそがれの中を闇の夜を。

1. 偶像礼拝者から神礼拝者へ

 このあと、この浅はかな若者が破滅に至る経緯が記されています。今日はその部分を読みませんが、ご自分で読んでみてください。ただし、この部分も例によって、男性中心の視点で描かれていることに気をつけなければなりません。

 登場しているのは、夫が旅に出ている間に遊女を装って若者を誘惑する女性ですが、女性が男性に劣り愚かであるとか、好色であるということを教えているのではありません。

 残念ながら、聖書の記述は書かれた時代や文化の影響を免れません。キリスト教信仰の土台となる考え方を明らかにした使徒パウロでさえ、全ての人が神様の似姿として創造されたという神様の人間創造の原理よりも、社会の中で無意識のうちに形作られた女性蔑視に囚われた発言を幾つもしています。

 一方、イエスは神様の創造の原理に忠実でした。当時の社会で当然だったさまざまな偏見から驚くほど自由でした。「それではなぜイエスの使徒は男ばかりだったのか」と反論する人がいましたが、理由は簡単です。当時、女性を使徒にすれば、彼に耳を傾ける人がいなくなるからです。

 しかし彼には実質的な女性の弟子が多くいたことは福音書を読めば明らかです。 しかも彼女たちは要所要所で、12使徒より重要な役割を担っていました。一例を引くなら、12使徒の全てが恐ろしくなってイエスの十字架から逃げ出し、尋問されれば激しく関係を否定したいたときに、十字架の元にいたのは彼女たちでした。復活の朝に、怯えて隠れていた使徒たちを尻目に、墓に赴き最初に復活のイエスに会ったのも女性でした。

 10節以下と同様の手口で、逆に女性を誘惑する男性もいるでしょう。その誘惑に負けて彼について行ってしまう女性もいるわけです。性別に関係なく性的な誘惑は人を破滅させるのです。

 しかし今日のテキストから学ぶ事ができるのは性的な誘惑についてだけではありません。前回にもお話ししましたが、姦淫の本質は偶像礼拝です。そして、偶像礼拝の本質は木や石でできた像を礼拝するということではなく、神様以外のものに心を向けることです。

 私たちにとって最も厄介な偶像となりやすいのは“欲望”です。欲望を持ってはいけないということではありません。もっと幸せになりたいという願いが世界を発達させてきたのです。

 ただその一方で欲望は、簡単に他者から奪っても手に入れたいという強欲になってしまうものです。だから神様は十戒で、他者に属するものを欲してはならないと言われました。 それでも、自身の強欲に従おうとするなら、もはやその人の主は神様ではなく欲望となり、その人は偶像礼拝者となるのです。アダムとエヴァは蛇に唆されて禁じられていた欲望に従い偶像礼拝者となったのです。

 そして、わたしたちは皆、その子孫です。私たちが偶像礼拝者でいる限り、誘惑の入り口からその深みに迷い込み、容易に破滅への道へと歩みを進めることになります。社会の良識や常識で自分が守られていると思うのは楽観的すぎます。それは誘惑の力を軽視していることです。その証拠に、毎日のように良識を伝える側であるはずの教育者や宗教家や政治家、公務員による恐ろしいスキャンダルがニュースとなっています。

 この偶像礼拝は個人的なレベルにはとどまりません。社会主義諸国の経済が破綻して以来、資本主義は実質的に世界で唯一の経済原理となりましたが、それは強欲と形容されるほどに加熱して、富がごく一部の富裕層に集中して貧富の差が広がっています。無謀な侵略や関税も強欲の現れです。自分ファースト、自国ファーストを追求することはイエスに従う道ではありません。偶像に従う道です。社会全体が偶像礼拝の道を進んでいるのです。

 イエスは、私たちが再び偶像礼拝者から神礼拝者となって、死の部屋に向かう者ではなく、神の国に向かって彼と共に人生を歩む者とするために来てくださったのです。これが、皆さんに「イエスに従う者」となっていただきたい理由なのです。

2. 格子窓越しに世界を見る

 今日、もうひとつ皆さんと分かち合いたいことがあります。そのキーワードを今日のお話の題としました。それは6節に記されている 「私は家の窓から格子の外を眺めていた。」という言葉です。

 格子窓はエルサレムの家々の通りに面した側に普通にあったものだったそうです。格子窓は外からは中が見えにくく、内からは外の様子がよく見えるものです。 形は違いますが、日本各地の古い街並みでも特徴のある格子窓がよく見られます。箴言の語り手は、自宅の格子窓から見える通りで起きている出来事を観察しながら、誘惑に陥る危険を喚起しています。

 1-5節で、父が言葉を尽くして神様からの知恵に注意深く従うよう息子を諭していますが、それは、ある格子窓を通して世界を見るという勧めです。格子窓を通して外を見る利点は二つあります。

 一つは外で起きていることを当事者としてではなく客観的に見ることができるという点です。

 もう一つは内側にいることで、外で起こる危険から身が守られているということです。

 私たちにとってこの格子窓のように、世界を正しく、安全に把握させてくれるものは何でしょうか。私は、それが教会というコミュニティーの役割だと考えます。そしてこのコミュニティーの本質が“キリストの体”であるということも併せて心に留めておく必要があります。

 わたしは、このところ今更ながら「キリスト教会とは何か?」ということをよく考えさせられています。長い夏休みをいただきましたが、この間も、この事が頭を離れませんでした。また、このことを考えるためにヒントとなる何冊かの本を見つけることもできました。滞在先で出席した教会では「救い」とは何かと問いかけられました。

 キリストの体である教会は、人々に「救い」を提供する存在です。教会が真の「救い」を知らなければ、それを神様の意図通りに提供することはできません。それは私たち、ユアチャーチにも人ごとではなく、取り組まなくてはならないとても大切な課題です。

 ユアチャーチはちゃんと機能する格子窓を持つコミュニティーでしょうか?

 神様の意図した「救い」を提供しているでしょうか?

 私たちは、私たちの格子窓によって世界を正しく見る事ができているでしょうか?

 イエスを慕ってここに加わる一人一人に、誘惑からの、偶像礼拝からの安全を提供しているでしょうか?

 それは、この建物に格子窓が備わっているという意味ではありません。実際、私たちがこの場所にいるのは多くても、週にせいぜい2時間ほどなのです。1週間は168時間です。格子窓がこの場所にあるのだとすれば、それ以外の週に166時間、私たちはさまざまな誘惑と危険に満ちた通りで過ごしていることになります。

 しかし、イエスに従う者はどこにいようと格子窓で守られ、格子窓から見るように冷静に物事を見る事ができます。どこにいても、私たちは教会の一部だからです。キリストの体の一部としてしっかりとつながり合いながら、イエスが見るように見、聞くように聞き、語るように語り、行うように行うのです。もちろん、完全にできるものではありません。おそらく、半分もおぼつかない。1日を振り返って、ほとんどダメだった思う日もあるでしょう。でも、その意思を持ち続けることです。一つでも、二つでも「イエスのように」をやってみましょう。

 そして誰もが、格子窓の向こうで破滅の道に吸い込まれていく若者のようにではなく、イエスを知って格子窓を心に備えた者として生きることを、人々に勧めてゆきましょう。

(祈り)神様、あなたが欲望に従って滅びに向かう道を進んでいた私たちのところに来て、命の道を教えてくださったことをありがとうございます。

 私たちの罪の性質、誘惑に負けてあなたに背を向けてしまいがちであることを警告し導いていてくださることをありがとうございます。

 私たちが、自身の欲望ではなくあなたに従って歩む事ができるように、あなたの体である教会を備えてくださってありがとうございます。

 格子窓を通して物事を冷静に正しく見続け、なすべき事、そうではないことを見極めて行動する事ができるように導いてください。

 イエス・キリストの名によって祈ります。


要約

誘惑に遭わずに生きることはできません。しかし、誘惑を避けること、誘惑に抵抗することはできます。その方法は、目の前で起こりつつある出来事を神様の助けを借りて正しく見、行動することです。このような生き方を可能にするのは、イエスと共に生きることです。それはキリストの体である教会の一部として生きることなのです。 

話し合いのために

1. 偶像礼拝の本質とは?

2. 私たちにとって格子窓越しに外を見るとは?

子どもたち(保護者)のために

十戒(出エジプト記20:2-17)を読んで、欲望に従うことが神様に背くことになりやすいことを伝えてください。人間の欲望は、本当に自分に必要なのだからというより誰かが持っているから欲しくなるという場合が大きいこと(例えばおもちゃの取り合いのように)を知らせましょう。自分に本当に必要なものは、神様が与えてくださるので人から取り上げる必要はありません。