将来への不安の中で思い出すべきこと

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将来への不安の中で思い出すべきこと

(ヨハネによる福音書14:1-7)

池田真理

 今日もヨハネによる福音書の続きで、14:1-7を読んでいきます。
 ここのところ読んでいるのは、イエス様が自分はもうすぐ逮捕されて処刑されるが、弟子たちは自分のことを見捨てて逃げるだろうということを予告している場面です。でも、イエス様は弟子たちに対して何も怒っておらず、むしろ彼らのことを心配しています。自分のことを慕って生活のほぼ全てを捨てて従ってきた弟子たちにとって、自分の処刑も彼ら自身の裏切りも大きな試練になることが分かっていたからです。だから、数回前から読んでいる13章から17章までをかけて、イエス様は何度も何度も「これから経験することの意味を、今すぐにあなたたちには分からないだろうけれども、必ず分かる時が来る」と繰り返し伝えています。そして、どんな時でも神様を信頼して希望を失わないようにと教えています。
 そういうわけで、17章までの一連のイエス様の言葉は弟子たちに対する励ましの言葉であり、私たちを励ます言葉でもあります。特に、今日の箇所は、思い描いていた未来が思いがけず断たれた時や、それに対して自分が無力に思えてどうして良いか分からない時に、私たちが何を覚えているべきかを教えてくれています。
 短い箇所ですが、少しずつ読んでいきたいと思います。まず1-2節です。

1. 神様の愛は私たちの想像より大きいこと (1-2)

1 「心を騒がせてはならない。神を信じ、また私を信じなさい。 2 私の父の家には住まいがたくさんある。もしなければ、私はそう言っておいたであろう。あなたがたのために場所を用意しに行くのだ。 

 「心を騒がせてはならない」とイエス様が弟子たちに語りかけているのはなぜか、この時弟子たちが置かれていた状況を少し思い起こしておきたいと思います。

 イエス様は弟子たちに、ここから先はしばらくの間、弟子たちはもうイエス様に従ってくることはできないと予告しました。それは、弟子たちはイエス様のことを本当の意味で理解しておらず、これからイエス様が通る苦しみを一緒に耐えることはできないという意味でした。これを聞かされた一番弟子のペトロは、「そんなことはない、自分はあなたのためなら命を捨てる覚悟もできています」と食い下がりました。でも、イエス様はそんなペトロですら自分との関係を3回否定して裏切ることになると断言されました。それが前回読んだ、今日の箇所の直前の箇所の内容です。

 このイエス様とペトロの会話は、ペトロ自身にとってショックだったのはもちろんですが、それを聞いていた他の弟子たちにも動揺を与えたはずです。一番弟子のペトロですらイエス様を裏切ることになるなら、これからイエス様に起こることと自分達に降りかかる試練はどれだけのものなのか、恐ろしくなったと思います。

 また、イエス様が自分たちを置いて行ってしまうということ自体も、弟子たちを動揺させたと思います。彼らは、イエス様に出会って、それまでの生活を捨ててイエス様に従ってきました。イエス様が彼ら一人ひとりを大切にしてくださることに心を動かされ、そのように人々の心に触れて社会全体を良くしてくれる方なのだと、イエス様に希望をかけていました。そんなふうに尊敬して期待をかけていた先生が急に自分たちを残していなくなってしまうかもしれないということは、彼らを不安にさせて当然です。

 このように、弟子たちはこの時、これまで希望を持って思い描いていた未来が断たれる瀬戸際におり、それが分かっていても自分たちにはどうすることもできない無力感と不安を抱えていました。イエス様について行きたいのについていけない、しかもその理由は自分たちの弱さにありました。

 私たちにもこういう時があります。希望を信じたくても信じられず、どうして良いか分からない時。目の前の試練が大きすぎて、イエス様を信じたくても信じられない時。そういう時、今日のイエス様の言葉は私たちにも向けられています。「心を騒がせてはならない。神を信じ、また私を信じなさい。」私はいつもお話しすることですが、神様を信じること、イエス様を信じることというのは、神様の愛を信じることです。

 神様の愛がどういうものかは、続くイエス様の言葉にヒントがあります。「私の父の家には住まいがたくさんある。」繰り返しになりますが、イエス様がこれを告げているのは、これから自分を裏切ることになる弟子たちに向けてです。イエス様は、弟子たちの弱さも、私たちの弱さもご存じで、神様の愛を信じられない私たちのことを赦して、それでも迎え入れてくださる方です。神様の愛というのは、ご自分を拒む者を赦して愛し続ける愛なのです。それは、私たちがどういう態度を取ろうと、信じようと信じまいと、変わらずに注がれている愛です。私たちの過ちや裏切りを赦してくださる愛とも言えます。

 自分の将来に希望が持てない時、思いがけない試練が襲う時、それでも神様の愛は変わらないと信じるのは難しいことです。でも、それが希望を取り戻す第一歩になります。そして、そのための道をイエス様が用意してくださいました。そのことは後でまたお話ししたいと思います。続く3節を読んでいきましょう。

2. 神様は私たちを忘れていないこと (3)

3 行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたを私のもとに迎える。こうして、私のいる所に、あなたがたもいることになる。 

 イエス様はここで、自分がいなくなるのは一時的なことで、必ず戻ってくると言われています。イエス様がこれから行くと言われているのは、「父の家」、つまり神様の家であり、天国のことです。イエス様は、十字架で死なれ、三日後に復活されましたが、その後で天国に帰られました。その意味で、イエス様がこれから行こうとしているのは天国であり、いつかそこから戻ってこられるというのは、この世界が終わる時にイエス様が再び私たちの目に見える形でこの地上に来られるという約束を指しています。その時には、死者もよみがえり、イエス様を愛する人はそのそばで永遠に共に生きるようになるということが約束されています。これを教会ではイエス様の「再臨」と呼んでいて、人間がこの世界にもたらしている不正義と苦しみが神様によって裁かれ、神様の愛が完全な形で実現する希望の時として信じています。

 このことが私たちの日常にどう関係があるかというと、神様なんていないと思わされるような現実の中にあったとしても、その現実が永遠に続くのではなく、神様は私たちを忘れてしまったのではないということを保証してくれる点です。神様は確かに私たちの目に見える形で今は存在していません。そして、人間が引き起こしている戦争や貧富の格差、社会の中でも個人間でも繰り返される搾取や差別などによって、多くの人が絶望しています。その全てに対して神様が無関心だったとしたら、確かに私たちは絶望するしかありません。でも、神様は無関心でおられるのではなく、ご自分を信じる人々や良い意志を持った人たちを用いて、今もこの世界を変えようとしておられます。そして、最後にはご自身がこの世界に戻ってこられると約束されています。だから、私たちは私たちの無力さや残酷さに絶望しないで、この世界をより良くする努力をあきらめてはいけません。

 それから、ここでのイエス様の言葉にはもう少し別の意味もあります。イエス様が行こうとされていたのは天国ですが、天国は肉体の死後にしかいけない場所というわけではありません。イエス様の言葉通り、天国というのは「父の家」「神様の家」です。そこは、神様の愛が支配しているところです。私たちと神様を隔てるものが何もない、私たちが神様のもとで安心していられるところです。それは、具体的な場所ではなく、私たちの心の中にもある場所です。私たちが神様に愛されていることを信じて、その愛を自分の周りの人にも届けようとする時、そこに天国が現れます。お互いの過ちを許し、理解しようと努め、支え合う関係性の中に、神様の愛は実現しています。そこに、神様もイエス様も共におられます。

 では、イエス様がその場所を私たちのために用意しに行かなければならなかったというのはどういう意味でしょうか?それは、続く4-7節を読むと見えてきます。読んでいきましょう。

3. イエス様が私たちの道になられたこと (4-7)

4 私がどこへ行くのか、その道をあなたがたは知っている。」 5 トマスが言った。「主よ、どこへ行かれるのか、私たちには分かりません。どうして、その道が分かるでしょう。」 6 イエスは言われた。「私は道であり、真理であり、命である。私を通らなければ、誰も父のもとに行くことができない。 7 あなたがたが私を知っているなら、私の父をも知るであろう。いや、今、あなたがたは父を知っており、また、すでに父を見たのだ。」

 「私がどこへ行くのか、その道をあなたがたは知っている」というイエス様の言葉は、これまでの言葉と矛盾しているようで、トマスが質問したのも当然だと思います。トマスだけでなく、弟子たちは皆、「『あなたたちは私について来られない』と言っていたのはあなたじゃないですか」と心の中で困惑していたと思います。

 イエス様の真意は、「私は道であり、真理であり、命である。私を通らなければ、誰も父のもとに行くことができない」という言葉に隠されています。神様の家に通じる道、神様の愛を知る道は、イエス様ご自身であるという意味です。だから、イエス様を知っているならその道を知っているはずで、弟子たちはイエス様を知っているのだからその道を知っているはずなのだということです。

 おそらく、これを聞いても弟子たちはポカンとしたでしょうし、私たちもすぐには理解できません。イエス様の真意を理解する鍵は、イエス様を「知る」とはどういうことかに注意を払うことです。弟子たちはこの時確かにイエス様のことを一人の尊敬する先生としてはよく知っていました。でも、十字架で命を献げ、三日後に死からよみがえられる神様の子としては知りませんでした。私たちも同じです。私たちがイエス様は私たちのために死なれ、復活された神様ご自身であると知らなければ、神様の愛を知ることはできません。イエス様が十字架で命を献げられたこと、三日後によみがえられたことが、神様の私たちに対する罪の赦しと憐れみ、愛の広さと深さを証明しているからです。

 だから、イエス様が神様から遣わされたひとり子であり、その命を献げるためにこの世界に来られ、その通りに実行され、神様の意志を実現されたと知るなら、私たちは父である神様がどういう方であるかも知ることになります。7節でイエス様が言われている通りです。「あなたがたが私を知っているなら、私の父をも知るであろう。いや、今、あなたがたは父を知っており、また、すでに父を見たのだ。」

 それでは、今日最初からイエス様が言われている、「私はあなたがたのためにその場所を用意しに行く」とはどういう意味なのかというと、イエス様が十字架で苦しみ死なれ、そして復活されることを指しています。神様の愛が私たちに届くためには、私たちの罪が邪魔です。イエス様はそれを取り除くために、自ら私たちの身代わりになって、私たちの代わりに苦しみ、死ななければなりませんでした。十字架で死なれることによって、イエス様は私たちのために、私たちが神様の愛を知る道、神様の家に戻る道を開いてくださいました。同時に、神様の愛がどういうものか、神様がどういう方か、神様の家はどういうところかを身をもって示してくださったのもイエス様なので、イエス様は道そのものでもあります。そして、その道案内をして私たちを導いてくださるのもイエス様です。ですから、イエス様は道を開いた方であり、道そのものであり、道の案内人でもあります。

 私たちが先行きの見えない不安に襲われる時、道を見失ってしまう時、それでも私たちが歩む道はすでに開かれています。イエス様の苦しみという道を、神様の愛を目指して、イエス様と共に歩む道です。私たちに先が見えなくても、神様は私たちのことを忘れておらず、変わらずに私たちを愛しておられ、将来の希望を約束してくださっています。だから、どんな時でも、私たちの想像を超えて働く神様に希望を置いて、一歩ずつ前に進んでいけば絶対に大丈夫です。

(祈り)主イエス様、あなたが私たちといつも共に歩んでくださることをありがとうございます。私たちがあなたを知らないときも、あなたに背を向けても、あなたは私たちを変わらずに憐れみ、愛してくださる方です。私たちが不安と孤独の中で道に迷う時、どうぞあなたをそばに感じられるように、助けてください。あなたの霊で私たちを満たして、歩むべき方向を示してください。そして、その道があなたの希望で満ちていることを信じさせてください。主イエス様、あなたのお名前によってお祈りします。アーメン。


要約

それまで思い描いていた未来が断たれたり、それに対して自分が無力であると感じたりする時、私たちは動揺し、不安になり、時には絶望してしまうこともあります。でも、どんな時も、神様が私たちのことを知っておられ、愛を注いでくださっていることは変わりません。神様の愛は私たちの想像を超えて広く深いものです。私たちには見えないだけで、神様が私たちに用意してくださっている良い計画も続いています。イエス様は、十字架で死なれることを通して、そのことを証明し、私たちがどんな時も希望を失わずにいられる道を開いてくださいました。 

話し合いのために

1. イエス様が道であるとはどういうことでしょうか?

2. あなたは生涯で何を目指して歩んでいますか?

子どもたち(保護者)のために

「イエス様は道である」ということを一緒に考えてみてください。イエス様は、神様と私たちをつなぐ道を開いた方であり、その道を案内してくださる方であり、その道そのものになってくださった方です。言い換えると、イエス様は、神様の愛が私たちに届くために私たちの罪という障壁を取り除き、神様の愛とは何かを教えてくださる方です。ちょっと難しくて、子ども達には不可解かもしれませんが、絵なども使って話してみてください。