知恵のもたらす果実

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日曜礼拝・英語通訳付

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知恵のもたらす果実

(箴言 8:12-21)

永原アンディ


 箴言のシリーズ、今日は8:12-21節を読みましょう。先週、イエスこそ神様の知恵の現れだとお話ししました。今日の部分には、この知恵が私たちに与えてくれる力によって、私たちは豊かな収穫を得ることができ、それは倉を満たすほどだと書かれています。今日のテキストは、私たちの持つ大きな力、期待できる収穫、それどう用いるかを教えてくれています。

1. イエスに従う者として現実を生きる力 (12-16)

12 私は知恵。熟慮と共にあり知識と慎みを備えている。
13 主を畏れることは悪を憎むこと。高ぶり、高慢、悪の道そして偽りを語る口を、私は憎む。
14 助言と洞察は私にある。私は分別。私には力もある。
15 私によって王はその職務をなし君主は正しい掟を定める。
16 高官、自由な身分の人、正しい裁き人は皆私によって治める。

 私たちは今までの学びで、知恵を身につけるということがイエスを身につける、つまり常にイエスと共に歩むということであることを知りました。
それが私たちの資質となること、その資質をもちいてなすべきことをこの部分は教えてくれます。その資質とは思慮深く、必要な知識を持つと同時に慎み深いこと、イエスが与えてくれる助言や洞察を聞き取る力です。それらは、私たちの置かれているあらゆる立場、役割に必要なものなのです。 
 私たちには、親として子として、教師として生徒として、雇用者として雇われている者として、為政者として市民として果たすべき責任があります。本当は、この資質は責任を果たすために不可欠なのですが、多くの人がその資質を持たずに今の地位に立っています。それが、家庭に、学校に、職場に、社会に問題を引き起こしているのです。

 15,16節は神様の望まれる理想ですが、残念ながら世界はそれに程遠い状態です。イエスは善と悪が混在するこの世界を、良い麦と毒麦が混在する畑に喩えて、「収穫の前に毒麦を抜こうとすれば良い麦も抜いてしまう恐れがあるので収穫に時まで待ちなさい」と言われました。ですから今は、この資質を持たない指導者たちを悲しむのではなく、私たちが自分に必要な資質を身につけ、置かれているところで力を発揮し、良い実を結ぶことに心を向けましょう。

2. イエスに従う者の得る果実 (17-19)

 それでは続く17-19節を読みましょう。 

17 私を愛する人を私も愛し私を探し求める人を私も見いだす。
18 私のもとには富と誉れがあり豊かな財産と正義もある。
19 私の与える実は金にも純金にもまさり私のもたらす収穫は銀よりも望ましい。

 10月に入り、やっと秋らしい日も見られるようになってきました。収穫の秋と言われるように、果実が店頭に並び、穀物の収穫の時期も始まりました。この地域、町田市、横浜市、稲城市、相模原市は市街化が進んでいますが、この季節、梨がよく収穫されていて、私は美味しいローカルな梨が食べられるのがとても楽しみです。

 この部分には知恵のもたらす収穫が金や銀も遠く及ばないほど良いものであることを記しています。聖書には、神様がくださるさまざまな恵みを収穫に例えて記されているところが多くあります。神様の恵みが単なる贈り物ではなく、収穫であるとはどういうことなのでしょうか?
 それは救いと恵みの違いを考えてみるとわかります。「救い」とは切れていた神様との関係が回復されることです。それは、願うものには誰にでも与えられる無償の贈り物です。それは何よりも大切なものですが、神様が私たちに与えたいと考えておられるものは「救い」には止まらないのです。
 それが、先にお話しした、神様の知恵による力で得ることのできる豊かな恵みです。しかし実際に果実を収穫するためには、「救い」とは異なり、私たちが継続して努力する必要があるのです。秋に美味しい果実を収穫するために、農夫がどれほど多くの手入れをするのか想像してみてください。それは相当なもので、収穫は私たちの想像をはるかに超えた努力の結果であるに違いありません。
 イエスもまた、神様の恵みを果実に例えて教えられました。

私につながっていなさい。私もあなたがたにつながっている。ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも、私につながっていなければ、実を結ぶことができない。
私はぶどうの木、あなたがたはその枝である。人が私につながっており、私もその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。私を離れては、あなたがたは何もできないからである。(ヨハネによる福音書15:4,5)

 この人生の歩みで豊かな実を結ぶために必要なことは、難しいことではありません。しかし生涯、収穫の季節が来るごとに豊かな収穫を得る農夫の生活のように根気のいる作業であることは確かです。目先の利得、困難、思いがけない出来事をきっかけに、イエスに繋がっていることを諦めてしまう人は少なくありません。しかし、イエスがその人たちを諦めているわけではありませんから、再び、イエスと共に歩むという地道な作業を再開するなら、また収穫を得ることができます。私たちはそのような人々も多くみてきました。

 いつもイエスに繋がっている秘訣はたった一つです。それは神様を礼拝することを生活の中心に据えることです。日曜日に共に集まりささげる礼拝、ミニチャーチで人々と共に捧げる礼拝、家族でささげる礼拝、自分一人でささげる礼拝。礼拝は皆さんの生活の中心に置かれているでしょうか。

3. イエスに従う者の満たされた倉 (20, 21)

次の20, 21節を読みます。

正義の道筋を公正の道の中を私は歩む。私を愛する人に宝を継がせ彼らの倉を満たす。

 聖書には倉についての記載が多くあります。聖書に記録されている倉は主に、穀物の収穫を保存して収穫のない時期に備えるためのものでした。例えば、エジプトの高官となったヤコブの子ヨセフは、倉に穀物を備蓄して大飢饉に備えたことが創世記に記されています。詩編や箴言では、神様の恵みを、大きな倉から惜しみなく取り出され与えられるものとして喩えられた表現が多くみられます。
イエスもまた、穀物や宝を倉に蓄えるという比喩を用いて、さまざまなことを教えられました。その中から今朝は一つの部分を紹介します。(マタイによる福音書13:51,52) それは天の国について、種を蒔き収穫するという作業に喩えて語った一連の教えのまとめとして、弟子たちに語られた言葉です。

イエスは言われた。「だから、天の国のことを学んだ学者は皆、自分の倉から新しい物と古い物を取り出す一家の主人に似ている。」

天の国のことを学んだ学者とは、ここでは弟子たちのことです。彼らは旧約に記された古い教えを知っていましたが、イエスに聞いて得た新しい教えによって、旧約の神様の意図を正しく受け取ることができるようになった人たちだったからです。
 私たちも彼らの系譜に連なる者であり、神様の意図を知る者です。倉の目的は溜め込むことではありません。倉に収めるのは使うためです。
 私たちは、イエスを信じる者となって以来多くのことを学んできました。多くの恵みをいただいてきました。神様はそれを用いることを皆さんに期待しています。
 どのように用いるべきなのでしょう。それもこの部分に記されています。
「正義の道筋を公正の道の中を私(知恵)は歩む」とあるのは、それが人間関係や社会の仕組みの中で、正義、公正、公平をもたらすために存在するということです。

イエスは、私たちが、私たちの心の倉に蓄えられた神様の下さった多くの恵みの収穫を、身近な人々から、この国の社会、世界全体に至るまで、神様の正義、公正、公平が実現するように惜しみなく用いることを期待されているのです。私たちの倉は、神様の倉と同様にどんなに恵みを持ち出しても空になってしまうことはありません。イエスもこう保証していてくださいます。

与えなさい。そうすれば、自分にも与えられる。人々は升に詰め込み、揺すり、溢れるほどよく量って、懐に入れてくれる。あなたがたは、自分の量る秤で量り返されるからである。」 ルカ 6:38

(祈り)神様、あなたの日々豊かに与えてくださる多くの恵みをありがとうございます。

 私たちが、あなたの手や足として期待されている働きを全うすることができるように、あなたの知恵で私たちを満たしてください。

 私たちが生涯、良い実を豊かに結び続けるために、あなたにしっかりとつながり続けることができるよう助けてください。

 あなたが豊かに与えてくださる果実を蓄え、必要なことに惜しまず用いることができるように導いてください。

 イエス・キリストの名によって祈ります。


要約

 神様の知恵は私たちが現実を生きる力です。それは社会の中に、あらゆる人間関係の中に正義、公正、公平(justice, fairness, impartiality)をもたらすものです。逆境にあっても諦めず、順境のときも慢心せずに、イエスと共に歩むものに豊かな収穫が約束されています。私たちはこの収穫を用いて、私たちが神様に期待されている働きをしてゆくことができるのです。

話し合いのために

1. 神様が私たちに与えてくださる果実とは何ですか?

2. 収穫し続けるために必要なことは何ですか?

子どもたち(保護者)のために


ヨハネによる福音書15:4,5を一緒に読んで、人が実を結ぶとはどういうことか、そのために大切なことは何か、話し合ってみましょう。