知恵の起源

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日曜礼拝・英語通訳付

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知恵の起源

(箴言 8:22-31)

永原アンディ


 箴言のシリーズ、今日は8:22-31節を読みます。 箴言は、7章まで知恵に聞くことの大切さを説いています。そして、この8章の前回のところまででは知恵が自己紹介をしているような仕方で、その性質について教えています。
 今日の箇所もその自己紹介の続きなのですが、ここでは特に知恵の起源について語っています。

1. 世界が創られる前に創られた知恵 (22-26)

22 主はその道の初めに私を造ったいにしえの御業の始まりとして。
23 とこしえより、私は立てられていた太初より、地の始まりから。
24 まだ深淵もないとき私は生み出されていた大いなる原初の水の源もまだないときに。
25 山々もまだ据えられず、丘もないとき私は生み出されていた。
26 神が、まだ地も野もこの世界の塵の先駆けさえも造っていなかったとき

 私たちはこの「知恵」という語を注意深く理解する必要があります。私たちは普通、それを生活を豊かにする、あるいは困難を回避する能力のように考えがちだからです。
 しかしそのような「知恵」なら人間以外の動物も持っています。いまやAIは人類のあらゆる知識を蓄積した上に、それを効果的にアウトプットする「知恵」を備えて、高校生のリポートはおろか、大学生の卒業論文くらいは立派なものを書いて先生方を悩ませています。将棋やチェスの名人でさえAIに負けてしまいます。面倒くさい人間と共に生きるよりAIと結婚したほうがマシと考える人もいるくらいです。
 しかし、箴言で“語っている”知恵は、そのようなものではありません。創世記の書き出し、天地創造の物語を皆さんはもう何度も読まれたと思います。神以外に全く何の存在もない状態から、神はまず天と地が、そして海、陸、植物、動物、そして最後に神の似姿である人間を創られたと書かれていたはずです。けれども今日のテキストを読むと、「知恵」が天地創造の前から存在していたことを5節も用いて明言しています。これは何を意味しているのでしょうか。

 それは元来、知恵は最後に創造された動物、つまり人間の属性ではないということです。知恵が世界が神によって生み出される前から、神と共にあったということです。 それは「言」とよく似ています。ヨハネによる福音書の最初の部分には「初めに言があった。言葉は神と共にあった。言葉は神であった」と書かれています。
 知恵についても以前に紹介したように、イエスご自身が、そしてパウロら初代教会の指導者たちが、知恵がイエスに属するものであることを教えています。

 イエスがこの世界に生まれる400年ほど前に、ギリシアにソクラテスという哲学者がいました。それは箴言が今のような形にまとめられた100年ほど後の時代です。彼は自身の著作を残しませんでしたが弟子のプラトンが彼の言葉を多くの著書で紹介しています。
 その中に、「真の知恵とはたった一つしかない。それは自分の無知を自覚することである」という言葉が記されています。皆さんの中には、「無知の知」(I know that I know nothing)という表現で聞いたことがある人もいると思います。 ソクラテスに箴言を読む機会はなかったと思いますが、彼は聖書が教えているように、人の内に知恵がないことに気づきました。人間にとっての最高レベルの賢さとは、せいぜい「知恵が自分のうちにはないということを知っている」というのが残念ながら真実なのです。

 それでは、知恵が人間の属性ではないとしたら、どうして私たちが知恵を働かせることができるのでしょうか。後半の部分を読んでいきましょう。

2. 神と人の喜びであることを楽しむ知恵 (27-31)

27 神が天を確かなものとしたとき私はそこにいた。神が深淵の上に蒼穹を定めたとき
28 神が上にある雲を固めたとき深淵の源に勢いを与えたとき
29 この原初の海に境界を定め水が岸を越えないようにして地の基を定めたときに。
30 私は神の傍らで腕を振るう者となり日々、神を喜ばせいつの時も御前に楽しむ者となった。
31 神の造られたこの地、この世界で楽しみ人の子らを喜ばせた。

 この部分で注目したいことは、知恵がただ天地創造以前から存在していただけではなく、神の創造のプロセスの中で神と共にあって、「腕を振るうものとなった」と紹介されていることです。つまり、この世界の創造に知恵が深く関わっていたということです。
 神は、天地創造の最後に人を創られ、人にこの世界の管理を任されました。そして、人がこの任務を遂行するのあたって、必要な知恵を預言者たちを通して、与え続けてこられました。
 しかし神の知恵は人々に問題なく順調に受け取られてきたわけではありませんでした。その知恵を伝えるために神が送った多くの預言者の言葉に、人々は耳を貸さなかったばかりか、彼らの命を奪ってきました。イエスは自分とその弟子もまた同様な目に遭うことを預言されていました。神に遣わされ知恵を携えてくる人々を殺したのは、世の中では知恵があるとされてきた権力者、宗教家たちでした。
 そのような人々を強く非難したイエスは知恵という言葉を皮肉を込めて使うこともありました。ルカによる福音書は、イエスが72人の人々をご自分が行こうとしている全ての町や村に遣わして、彼らがイエスの名を使うと悪霊さえ屈服するという経験をして喜んで帰ってきてイエスに報告した時の様子をこう記しています。 

その時、イエスは聖霊によって喜びに溢れて言われた。「天地の主である父よ、あなたをほめたたえます。これらのことを知恵ある者や賢い者に隠して、幼子たちにお示しになりました。そうです、父よ、これは御心に適うことでした。
(ルカ 10:21)

 イエスはこのことを“喜びに溢れて”言われました。神の知恵が自分から、自他共に知恵者とされていた宗教家や権力者たちではなく、弱く、小さく、罪深いとされていた人々によって発揮されたからです。
 喜んで帰ってきた弟子たちに、喜びに溢れてイエスはこう言われたのです。

 神の知恵によって生きる私たちに大きな喜びが与えられ、イエスもまたそのことに大きな喜びを感じておられるのです。もしあなたが、それでもなかなか自信が湧かず、喜びが溢れてこないならこの言葉を聞いてください。パウロがコリントの信徒に送った最初の手紙1章の言葉です。

きょうだいたち、あなたがたが召されたときのことを考えてみなさい。世の知恵ある者は多くはなく、有力な者や家柄のよい者も多くはいませんでした。 ところが、神は知恵ある者を恥じ入らせるために、世の愚かな者を選び、強い者を恥じ入らせるために、世の弱い者を選ばれました。 また、神は世の取るに足りない者や軽んじられている者を選ばれました。すなわち、力ある者を無力な者にするため、無に等しい者を選ばれたのです。 それは、誰一人、神の前で誇ることがないようにするためです。 あなたがたがキリスト・イエスにあるのは、神によるのです。キリストは、私たちにとって神の知恵となり、義と聖と贖いとなられたのです。 「誇る者は主を誇れ」と書いてあるとおりになるためです。

(祈り) 主よ、あなたの知恵を豊かに注いでいてくださることをありがとうございます。私たちは多くのことを知りませんが、あなたが必要なことを必要な時に教えてくださるので、正しく歩むことができます。無知であることを恥じることなく、あなたの知恵に頼って歩み続けることができるように導いてください。
イエス・キリストの名によって祈ります。


要約

知恵は世界の誕生の前から神と共にあって、神がこの世界をデザインするにあたって用いられたものです。神は人がこの世界を正しく治めるにあたって、その知恵を人間に惜しみなく与えてくださいます。自分の知恵を誇る者は神の知恵を受け取ることができません。自分を賢いと思うものは神と喜びを分かち合うことはできません。自分の無知を受け入れ、神の知恵によって、イエスと共に喜んで歩んでいきましょう。

話し合いのために

1. 知恵はどのような意味で「腕を振るう者」なのですか?

2. 知恵が人を喜ばせているとはどのようなことですか?

子どもたち(保護者)のために


20-26を読んで、知恵が神様のものであり、私たちのうちにあるのではなく、神様から教えていただくものであることを伝えてください。そして第一コリント26-31を読んで、神様が子供達を神様のなさる素晴らしいことごとのために用いることを伝え励ましてください。