幸せ?幸運?祝福?

Harold Copping, Public domain, via Wikimedia Commons
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日曜礼拝・英語通訳付

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幸せ?幸運?祝福?

(箴言 8:32-36)

永原アンディ

 シリーズで読んでいる箴言、今日は8章32-36節です。今日もここから神様が教えてくださることに耳を傾けたいと思います。

 この部分は今まで読んできた第一部のまとめの部分です。この部分だけを読んでも分かりにくいと思いますので、ここまでの内容と背景となる事柄を簡単に確認しておきましょう。

 旧約聖書はイエス・キリストがこの世界に来られる以前のユダヤ教の経典です。39の文書が 1)ユダヤ教とイスラエル民族の歴史、2)イスラエルの民に与えられた戒め、3)知恵文学(Wisdom literature)、4)預言 という順番で四つのタイプにわけられて配置されています。箴言は「知恵文学」の部分に属する文書です。

 箴言は知恵に優れた古代イスラエルの王、ソロモンの箴言と呼ばれてきましたが実際にはもっと後世のイエスの生まれる500年位前にまとめられた複数の書き手による箴言集です。 

 今まで読んできた第一部は、主に「父の諭し」という形で書かれた部分と、「(擬人化された)知恵が人々に向かって勧める」という形で書かれた部分が交互に配置されているという特徴を持っています。

 私たちは、箴言が父から子へと語り継がれたものであることから、私たちが前の世代の信仰者から聞く者であるとともに、次の世代に伝える者でもあることを確認してきました。そして、その聞くべき事柄、伝えるべき事柄とは「神様からの知恵」であることを学んできました。

 聖書が伝える知恵は単なる気の利いた日常生活に役立つ警句のようなものではなく、人が正しく生きるために欠かすことのできないものであること。しかも、それは人間の内側に存在するものではなく、神様と共にあるもので、人は知恵を神様と繋がっていなければ用いることができないものです。

 旧約聖書の一部である箴言で紹介されている神様の知恵は、今はイエス・キリストによって全ての人にもたらされています。神の知恵によって生きるとはイエスと共に生きることだということが今日のお話の前提です。これからお読みする部分は、擬人化された知恵が人々に語りかけている部分です。読んでみましょう。

32 子らよ、今、聞け幸いな者とは私の道を守る人。
33 諭しに聞き、知恵を得よ。なおざりにしてはならない。
34 幸いな者とは私の言葉を聞く人 日々、私の戸口の傍らで番をし扉の柱を守る人。
35 私を見いだす人は命を見いだし主からの喜びにあずかる。
36 私を見失う者はその魂を損なう。私を憎む者は皆、死を愛する。」

1. 神様に聞きながら生きましょう

 知恵は私たちに「私の道を守りなさい」と言います。神様の知恵を頼りに人生を歩みなさいということでしょう。実際には擬人化された知恵が語りかけてくれるわけではなく、神様が語りかけてくだるのです。

 神様の知恵を聞き、それを自分の歩みに生かすことで、人は本来の歩み方ができるのだと言っているのです。 「諭しに聞き、知恵を得ることをなおざりにしてはならない」という警告が置かれているのは、裏返せば、なおざりにして生きている人が多いという事です。それは箴言の書かれた時代も、現代も同じです。34節をみると、さらにただ知恵に聞くだけではなく、日々、知恵の住む戸口の傍らで番をし、扉の柱を守るような人であるべきだというのです。この比喩が意味するところは、神様からの知恵を自分が何よりも大切にすることにとどまらず、それをなおざりにする人々を諭し、社会の中で神様の知恵が尊重されるように努める人になりなさいということです。

 なぜこれほどまでに、神様は私たちに聞くことを求めるのでしょうか。神様は、どこかの国の指導者のように、誰にでも、どんな事でも、とにかく自分の言うことを聞かせたい、という方ではありません。神様は、自分たちにも王が欲しいと叫んだイスラエルの民に、預言者を通してその危険性を伝えはしましたが、結局民の選択に任せました。(最近もそのような話を聞いたような気がしますが)

 神様は私たちのことを心配して聞くことを勧めているのだということが、最後の2節でわかります。それは、神様からの知恵で生きるのか、それをなおざりにして生きるのかという選択が人の人生を大きく変えることになるからです。

35 私を見いだす人は命を見いだし主からの喜びにあずかる。
36 私を見失う者はその魂を損なう。私を憎む者は皆、死を愛する。

つまり、それは生きるか死ぬかの選択なのだと言うのです。大袈裟でしょうか? もちろん、それはこの世で長生きするかしないかという違いではありません。 

 しかし実はそれよりもはるかに深刻な、私たちの魂の状態についての生死を分けるといっているのです。「より深刻な魂の生死」と言われてもピンと来ない人は多いと思います。これを多くの人が多くの人が理解していれば、この世界はもう少し違ったものになっているはずです。

 ちょうど、このテキストに使われている一つの言葉が、私たちが本来、深刻に考えなければならない「自分の魂の状態」に目を向ける良いヒントとなってくれます。そこで後半はその言葉をめぐって考えてゆきましょう。

2. イエスと共に歩みましょう


もう一度、32節と34節を読みます。

32 子らよ、今、聞け幸いな者とは私の道を守る人。
34 幸いな者とは私の言葉を聞く人 日々、私の戸口の傍らで番をし扉の柱を守る人。

注目したいのは、ほとんどの日本語訳聖書では「幸いな者」とされている言葉です。それは、多くの英語の聖書には「祝福された者」と訳されています。日本語の「幸いな者」だと、「祝福されている人」というより、「幸せな人」と言うニュアンスが強いのです。英語のBlessedも、本来の意味を意識することなく「ハッピー」とか「ラッキー」というニュアンスで使われますが、ここは「祝福された者」と意識していただきたいのです。

 「幸せ」や「幸運」と、「祝福」の違いは、前者が私たちの感覚を表現した言葉であるのに対して、後者は神様によって与えられる事実です。肉体の生死が感覚で捉えられるものであるのに対して、魂の生死は感覚としてはとらえられないのと同じです。自分の魂の状態にも、神様の祝福にも関心がなかなか向かないのは、感覚的にわからないことことだからです。

 しかし、私たちは自分の肉体的な生死をコントロールすることができません。 また、「幸せ」や「幸運」の感覚は置かれている状況の変化によって感じられたり、感じられなかったりする頼りにならないものです。

 イエスと共に人生を歩むこと、それは祝福された命の道を歩むことです。

それは状況や健康状態に左右されることなく、時間や空間の制限も超えて神様と共にあり続けることです。福音書にはイエスの言葉が多く記録されています。福音書を読むと、イエスもまた感覚的な「幸せ」や「幸運」を得ようとすることよりも、神様に祝福されることを私たちに勧めていることがわかります。 

 イエスも「幸い」と訳された言葉を、今日の箴言の筆者と同じ意味で使って大切な教えを解いています。もちろん、その意味は「幸せな」ではなく「祝福された」と言う意味です。マタイによる福音書3章3-10節からイエスの言葉を紹介します。

3 「心の貧しい人々は、幸いである天の国はその人たちのものである。
4 悲しむ人々は、幸いであるその人たちは慰められる。 
5 へりくだった人々は、幸いであるその人たちは地を受け継ぐ。
6 義に飢え渇く人々は、幸いであるその人たちは満たされる。 
7 憐れみ深い人々は、幸いであるその人たちは憐れみを受ける。
8 心の清い人々は、幸いであるその人たちは神を見る。
9 平和を造る人々は、幸いであるその人たちは神の子と呼ばれる。
10 義のために迫害された人々は、幸いである天の国はその人たちのものである。

「心の貧しい人」というのも誤解しやすい訳ですが、「その魂が、神様がくださる良いもので満たされたいと切に願っている人という意味です。そして、そのような人は、それ以降の部分でもわかるように、自身の魂についてだけではなく、人間関係においても、置かれている社会の状態においても、もっと良いものにしたいと願う人です。

 イエスはそのような人々を「神様に祝福されている人」だと言いました。それは神様の願いでもあるからです。イエスは私たちに、幸せや幸運ではなく、神様の祝福を求めてほしいと願っておられます。「幸せ」は何ができるかとか、何を持っているかで感じるものですが、それらは突然消えるかもしれない頼りないものです。しかし祝福は、イエスとの歩みをやめてしまわない限り、何があっても失われることはありません。どうか「祝福された者」として歩み続けてください。

(祈り) 神様、あなたが私たちを祝福してくださっていることをありがとうございます。私たちがあなたを礼拝するときに、あなたの思いを教えてください。
あなたの思いを生活の中で行うことができるように知恵と力を与えてください。 イエス・キリストとしてこの世界に来てくださり、祝福の道を示し、共に歩んでいてくださることを感謝します。どうぞいつまでもあなたと共に歩ませてください。イエス・キリストの名によって祈ります。


要約


神様から知恵をいただくことは人生を歩むことにおいて不可欠なことなのですが、多くの人はそれに気づいていません。しかし神様から頂く知恵がなければ、目の前に起こってくる出来事に振り回され、一喜一憂しながら生きることになります。イエスは私たちに、祝福されて生きる者の道を教えられました。私たちはその道を歩むことで、起こってくる出来事にかかわらず、イエスと共に喜んで歩み続ける人生を送ることができます。

話し合いのために

1. 祝福された人とはどのような人のことですが?

2. 神様はなぜあなたを祝福しているのでしょうか?

子どもたち(保護者)のために


今日のテキストを一緒に読んで、「幸いな人」が「祝福された人」であることを確認しましょう。それはイエスと共に人生を歩む人のことで、うれしい時も悲しい時も、楽しい時もつらい時も、自分が神様に喜ばれている存在であることを伝えてください。