
❖ 見る
日曜礼拝・英語通訳付
❖ 聞く (メッセージ)
❖ 読む
「互いに愛し合う」のは難しいから
(ヨハネによる福音書14:15-24)
吉野真理
今日もヨハネによる福音書の続きで、今日は14:15-24を読んでいきます。早速、最初の1節を読んで始めたいと思います。ヨハネ14:15です。
A. 「互いに愛し合いなさい」
1. イエス様に愛されて、イエス様を愛するなら (15)
15 「あなたがたが私を愛しているならば、私の戒めを守るはずである。
イエス様の戒めとは、少し前にこう言われていました。13:34です。
13:34 あなたがたに新しい戒めを与える。互いに愛し合いなさい。私があなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。
「互いに愛し合いなさい。」これが、イエス様が私たちに与えた命令です。この命令は、イエス様を信じていようといまいと、誰も反対する人はいないと思います。私たちがこの世界で互いに愛し合って生きることができるなら、それは素晴らしいことだと、誰もが賛成すると思います。
でも、現実に互いに愛し合うことがいかに難しいか、多くの人が知っています。身近な家族を愛することにおいてさえ失敗を繰り返すのが私たちですし、社会の中でさまざまな差別や搾取があり、世界の至るところで戦争が続いています。
それでも、イエス様は「あなたがたが私を愛しているならば、互いに愛し合うはずである」と言われています。そして、「私があなた方を愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」と教えています。ここから分かるのは、私たちがイエス様の愛を受け取ることとイエス様に愛を捧げることが、私たちが互いに愛し合うことができるようになるためのキーになってくるということです。
それでは私たちはどのようにしてイエス様の愛を受け取ることができるのかということが、今日の箇所でイエス様が教えてくださっていることです。まず16-17節を読んでいきましょう。
2. 聖霊様が「弁護者」として共にいてくださるから (16-17)
16 私は父にお願いしよう。父はもうひとりの弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。 17 この方は、真理の霊である。世は、この霊を見ようとも知ろうともしないので、それを受けることができない。しかし、あなたがたは、この霊を知っている。この霊があなたがたのもとにおり、これからも、あなたがたの内にいるからである。
イエス様はここで「もうひとりの弁護者」を遣わそうと言われています。この「弁護者」と訳されている言葉は新約聖書の中でヨハネしか使っていない珍しい言葉です。法廷で自分の弁護をしてくれる人を指すそうです。それは、必ずしも法律の専門家ではなく、友人であることが多かったようで、単純に「助けてくれる人」という意味にも取れます。
この「弁護者」は「真理の霊」と言われています。次回読む26節にはこうあります。
しかし、弁護者、すなわち、父が私の名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、私が話したことをことごとく思い起こさせてくださる。
この「弁護者」は聖霊様のことで、神様の霊、イエス様の霊でもあり、私たちに神様のことを分かるようにし、イエス様の言葉を受け取れるようにしてくださるということです。神様の真理を教えてくださるから、「真理の霊」なのです。
ただ、イエス様はここで不思議なことも言われています。弟子たちに聖霊様を与えるというのはこの時点ではまだ未来のことのはずですが、こう言われています。
あなたがたは、この霊を知っている。この霊があなたがたのもとにおり、これからも、あなたがたの内にいるからである。
弟子たちはすでに聖霊様のことを知っているはずで、もう弟子たちの中に聖霊様はいるのだと言われています。これが、聖霊様の働きの不思議なところです。私たちがイエス様に関心を持ち、惹かれているなら、その時点ですでに聖霊様は私たちに働いています。聖霊様の存在が自分では分からなくても、心にイエス様の言葉が響き始めているなら、もうあなたの中に聖霊様はおられるのだということです。
では反対に、「世は、この霊を見ようとも知ろうともしないので、それを受けることができない。」とはどういうことでしょうか?それは、イエス様に関心を持たず、自分とは関係ないと思っている人には、聖霊様は働くことができないという意味です。自分は正しいと思い込んでいて、神様の助けなど必要ないと思っている人には、聖霊様の力は届かないのです。ただし、聖霊様は私たちの心の奥の渇きも見通す方なので、本人が自覚していなかったとしても、神様の愛に飢え乾いている人には、間違いなく働いてくださいます。
聖霊様というのは、神様とイエス様と違って、三位一体の神様の中で一番分かりにくいと思います。でも、お話ししてきたように、聖霊様はイエス様の霊であり、神様に代わって私たちの友人として一番そばで助けてくださる存在です。ですから、聖霊様のことをイエス様と神様と明確に区別する必要はありませんが、私たちに神様とイエス様のことを教えてくださるのは聖霊様の働きです。それは聖霊様にしかできないことで、それによって私たちに人間の力を超えた力があると教えてくださいます。神様の愛が人間関係を癒してくださる奇跡、絶望しかなかったところに希望が生まれる奇跡、それらは私たちに働く聖霊様の力です。イエス様に叫び求めることも、神様を信頼することも、聖霊様の助けなしには、私たちにはできないことです。
イエス様は、父にお願いして、聖霊様が永遠に私たちと一緒にいるようにしようと言われました。そうでなければ、私たちには互いに愛し合うという命令を守ることが到底できません。聖霊様は、私たちが拒まない限り、私たちと永遠に一緒におられ、いつも私たちを助け、導いてくださいます。互いに愛し合うことの壁にぶつかる時、私たちがすべきことはただ聖霊様に助けを求めることです。聖霊様は、私たちに自分の過ちを認める謙虚さを与え、他人の過ちを許す心を与え、想像を超えた働きで私たちを驚かせてくださるはずです。
それでは、次のポイントに進みましょう。神様の愛を受け取るために必要な二つ目のことです。それは聖霊様の働きを求める前提となっていることで、最も重要なことです。18-20節を読んでいきます。
3. イエス様の死によって生かされているから (18-20)
18 私は、あなたがたをみなしごにはしておかない。あなたがたのところに戻って来る。 19しばらくすると、世はもう私を見なくなるが、あなたがたは私を見る。私が生きているので、あなたがたも生きることになる。 20 かの日には、私が父の内におり、あなたがたが私の内におり、私があなたがたの内にいることが、あなたがたに分かる。
イエス様は「あなたがたのところに戻ってくる」と言われています。これはイエス様が十字架で死なれた後に復活されて、弟子たちに会いに来られる時のことを指していると考えられます。少し先の16章では、こうも言われています。
16:22 …私は再びあなたがたと会い、あなたがたは心から喜ぶことになる。その喜びをあなたがたから奪い去る者はいない。
今日のテーマで考えると、私たちが互いに愛し合うことができるのは、ここで言われている喜びが私たちを捉えているからです。死から復活されたイエス様と再会した弟子たちの喜びは、私たちがイエス様を信じると決めた時の喜びに通じています。この世界を造られた神様が、確かにイエスというひとりの人としてこの世界に来られ、私たちのためにその命を捧げられたことが事実だと知った時の喜びです。私たちを造られた方は、私たちを忘れていないどころか、私たちのことを愛してくださっていると知った喜びです。この喜びを私たちから奪い去れる者はいません。
そしてさらに、この喜びは、イエス様の死によって私たちの罪が赦され、私たちに新しい命が与えられているという喜びでもあります。私たちの弱さも過ちも、イエス様は全て知っておられて、その全てを十字架で背負われて死なれました。私たちがもうそれらによって縛られることなく、神様の赦しと憐れみの中で互いに許し合って生きられるようになるためです。だから、私たちは何度間違ってもその度に起き上がることが許されており、起き上がる力が与えられています。それは、イエス様の死によって私たちが生かされており、イエス様が死から復活されたように、私たちも死んだも同然の状態でも生かされているということです。
イエス様が神様の子であり、神様は私たちと共にいるためにその子の命を捧げられたという事実は、もう取り消されることはありません。イエス様の死が自分のためであったと受け入れる人のうちにイエス様はおられ、その人はイエス様のうちに生きていると言えます。このことに関して、最後に21-24節を読みます。
B. 神様を愛する人の内に神様は住んでくださる (21-24)
21 私の戒めを受け入れ、それを守る人は、私を愛する者である。私を愛する人は、私の父に愛される。私もその人を愛して、その人に私自身を現す。」 22 イスカリオテでないほうのユダが、イエスに言った。「主よ、私たちにはご自分を現そうとなさるのに、世にはそうなさらないのは、なぜでしょうか。」 23 イエスは答えて言われた。「私を愛する人は、私の言葉を守る。私の父はその人を愛され、父と私とはその人のところに行き、一緒に住む。 24 私を愛さない者は、私の言葉を守らない。あなたがたが聞いている言葉は私のものではなく、私をお遣わしになった父のものである。
ユダの質問は、ご自分を全世界の救い主メシアであると示したイエス様に対して、メシアなら一部の人間にだけご自分のことを示すのではなく、なぜ世に広く知らせないのですか、という質問です。イエス様の返答は、一見、答えになっていません。でも、イエス様がこの世界に来られた目的を考えるなら、イエス様の真意が分かります。イエス様が命をかけて私たちに一番伝えたかったのは、最初にお話しした通り、イエス様が私たちを愛されたように、私たちが互いに愛し合うことです。それはイエス様一人ではできないことで、私たちがやらなければ意味がありません。私たちが互いに愛し合う中にこそ、イエス様の愛は生きており、神様の愛がこの世界に示されます。イエス様が、救い主メシアなのに、ご自分のことをご自分で広く世界に知らしめようとされなかったのは、イエス様の救いはイエス様だけで完結するものではなく、イエス様を愛して互いに愛し合う人たちによって担われるものだからです。私たちが互いに許し合い、愛し合う中に、イエス様はおられ、そこに私たちの救いがあります。
イエス様は、「私を愛する人は、私の言葉を守る。私の父はその人を愛され、父と私とはその人のところに行き、一緒に住む」と言われました。神様を愛する人の内に、神様は住んで下さいます。それは、神様を愛し、他の人々と互いに愛し合う人々には、神様の真理と愛がますます豊かに示されるということも表しています。私たちが互いに愛し合う時、そこにイエス様も神様も共におられます。神様は互いに愛し合う私たちに、さらにご自分のことを教え、私たちのうちに住んでくださいます。神様の愛というのは、常に外側に注がれるもので、内側に止まっていることはありません。私たちが神様の愛を受け取っているなら、私たちは神様を愛して、互いに愛し合うはずです。
(祈り)主イエス様、あなたがこの世界に来てくださり、私たちのためにその命を捧げてくださったことを、もう一度心に深く留め、あなたに感謝を捧げます。あなたの愛が惜しみなく注がれている喜びを、どうか改めて受け取ることができますように。そして、その愛によって私たちを作り変えてください。あなたの霊を注いでください。聖霊様、あなたの力に頼ります。どうぞ私たちが互いに愛し合うことができるように、助けてください。私たちが自分には見えていないことをあなたに委ねて、あなたの働きを楽しみに待つことができるようにさせてください。主イエス様、あなたのお名前によってお祈りします。アーメン。
要約
「互いに愛し合いなさい。」これが神様が私たちに望まれ、命じられたことです。でも、この命令を守りたくても守れないのが私たち人間の弱さと罪の現実です。神様はそれも知っていたので、私たちが何度でもやり直せるように、イエス様としてこの世界に来られ、十字架で私たちの全ての罪を担って死なれました。また、私たちが自分の力を超えた神様の働きを知ることができるように、聖霊様としても私たちと共にいるようにして下さいました。私たちが神様の愛によって作り変えられ、互いに愛し合う時、そこに神様もイエス様も聖霊様も共におられます。
話し合いのために
1. 聖霊様が「弁護者」とはどういう意味でしょうか?
2. イエス様と会う喜びとは?
子どもたち(保護者)のために
「互いに愛し合う」とはどういうことなのか、喧嘩したり、誰かを嫌いになったりするのは悪いことなのか、誰かに大切にされるとどんな気持ちがするか、話しやすいところから話し合ってみてください。そして、大人でも互いに愛し合うことは難しいこと、神様の助けがなければできないことを、ご自分の経験をもとに話してください。