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日曜礼拝・英語通訳付
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平和の王を待ち望む
(ゼカリヤ9:9,10 マタイ21:1-9)
永原
今日はまだアドヴェント・待降節に入っていませんが、箴言のシリーズは来年再開することにして、アドヴェント第0週として旧約聖書に記録されているイエスについての預言の一つを紹介します。
この預言は、先週聞いたイエスだけが与えることのできる真の平和についてさらに理解を深めてくれるものでもあります。今日取り上げるのは、預言者ゼカリヤの言葉です。ゼカリヤの預言は旧約聖書39巻の最後から二番目に置かれています。ゼカリヤが活動していたのはイエスが生まれる500年位前で、ゼカリヤ書の直前に置かれているハガイ書のハガイと同時代です。それがどのような時代であったかを知るために、古代イスラエルの歴史を簡単に振り返っておきます。
ダビデ王の死後、今シリーズで読んでいる箴言の著者と伝統的に考えられてきた、ダビデの子ソロモンが王となりました。その治世は栄華を極めました。しかしソロモンが亡くなると、イスラエル12部族のうち、ソロモンの出身であるユダ族とベニアミン族以外の10部族は、ソロモンの子を王と認めず別の王を立て、国は二つに分裂しました。それがイエスの生まれる1000年くらい前の出来事です。
ユダ族、ベニアミン族の居住地はエルサレムを中心とした南部でユダ王国を建て、他の10部族はその居住地である北部にイスラエル王国を建てました。南北の分裂、対立は国力を弱め、周りの大国からの侵略を容易にしてしまいました。実際、北の王国は紀元前700年代に、当時台頭したアッシリアによって滅ぼされてしまいます。アッシリアは、その後台頭したバビロニアによって滅ぼされます。
そのバビロニアに、今度は南王国が占領され、紀元前600年頃、つまり、きょうお話しするゼカリヤの預言の100年ほど前に滅ぼされてしまうのです。そのときバビロニアは、エルサレムの神殿を破壊し、ユダ王国の多くの有力者を、彼らの首都バビロンに連行したのでエルサレムは酷く荒廃しました。バビロニアによる支配は50年ほど続きましたが、ゼカリヤの時代に台頭したペルシャがバビロニアを滅ぼすと、ペルシャ王はイスラエルの自治を認め、バビロニアに囚われていた人々が戻されました。
ゼカリヤはハガイと共に破壊された神殿の再建を励まし、20年越しの歳月を経て神殿は再建されました。彼の預言は、この神殿再建前後にわたってなされましたが、今日取り上げる部分は、神殿再建後になされたものです。
それでは彼の預言を読んでみましょう。ゼカリヤ書9:9,10です。
9 娘シオンよ、大いに喜べ。娘エルサレムよ、喜び叫べ。あなたの王があなたのところに来る。彼は正しき者であって、勝利を得る者。へりくだって、ろばに乗って来る雌ろばの子、子ろばに乗って。
10 私はエフライムから戦車をエルサレムから軍馬を絶つ。戦いの弓は絶たれこの方は諸国民に平和を告げる。その支配は海から海へ大河から地の果てにまで至る。
1. そもそも神様は人が人を支配することを望まない (ゼカリヤ9:9,10)
ユダヤ人にとって、バビロンに支配されていた暗黒時代がようやく終わり、念願の神殿再建も実現し、将来に期待の持てる時代でした。しかし、王国は分裂と滅亡のあと、再興されることはありませんでした。民族を統一する王朝はもはや生まれず、イエスの時代もそうであっあように王と呼ばれる者があったとしても、それは、実際に支配していた強国の傀儡に過ぎませんでした。
バビロニアに変わってイスラエルを支配したペルシャは、やがてギリシャ人、アレキサンダー大王のマケドニア王国に滅ぼされ、イスラエルはマケドニアの領地となります。そして、イエスの時代には、マケドニアを滅ぼしたローマ帝国の支配下にあったのです。そして、イエスの十字架から100年も経たないうちにユダヤ人は完全に領土を失うことになります。その間、王と呼ばれる人物は存在しましたが、ごく稀な例を除き、それぞれの強国の傀儡でしかありませんでした。
それなのにゼカリヤは、王が立てられると預言しています。しかしその預言の王は変な人物です。まったく王様らしくありません。子ロバに乗ってやってきて、戦車も軍馬も武器も持たずに諸国に平和をもたらす王です。人々が待ち望む王の姿とはかけ離れた王の預言は顧みられずに忘れ去られました。
ユダヤ人は国が再建されるのには20世紀まで待たなければなりませんでした。 近代イスラエルは民主主義国家であって王国ではありません。第二次対戦後、イスラエルに限らず多くの国が定期的な選挙で国のリーダーを選び直す民主主義で治められるようになってきました。
しかしここ10年、民主主義は危機に瀕しています。世界で突出して大きく強い三つの国のうち、二つは民主主義が機能しておらず王様的人物が君臨し、残る一つも、できれば自分も王様になりたい人がトップに立っているという有様です。
なぜ人は、自分の自由が損なわれるかもしれないのに王的存在を許容するのでしょうか?私たちはこのことを古代イスラエル史から学ぶことができます。
もう何度かイスラエルの王政の始まった経緯をお話ししてきましたが、それは誰かが勝手に王を名乗り権力を握ったのではなく、民自身が王がほしいと、国の精神的なリーダーであったサムエルに願った結果でした。それが神様の意思ではないことを知っていたサムエルの祈りに神様はこう答えています。
「民の言うままに、その声に従いなさい。民が退けているのはあなたではない。むしろ、私が彼らの王となることを退けているのだ。(サムエル記上8:7)
王を持とうとすることは、神様が自分の王であることを拒むことである、それが神様の見解です。
一人一人が神様に従って歩むなら、王は必要のない存在なのです。それでも神様はサムエルを通して王を持つことの危険をさらに伝えました。「やがて王は、あなたに重税を課し、奴隷のようにされ、自ら選んだ王のゆえに泣き叫ぶことになる」
それでも民はサムエルの声に聞き従おうとはせず、こう答えています。
「いいえ、我々にはどうしても王が必要なのです。我々もまた、すべての国々と同様、我々を治める王が必要であり、王が陣頭に立って進み、我々のために戦の指揮を執るのです。」 (サムエル記上8:19b, 20)
この言葉に人々が王を求める理由がはっきりと現れています。「周りの国と同様に強い軍事的なリーダーが必要です。」最近世界中で聞かれる声だと思いませんか。この国でも、「日本は戦争ができる”普通の国”になるべきだ」と言ったり、好戦的な失言をするリーダーの方が人気を集めるようになってしまいました。
「自国ファースト」を叫ぶリーダーの本質は「自分ファースト」です。彼らは、決して自分を立て支持してくれた民のために働いてはくれません。その結末、サムエルが警告した通りになることを古代イスラエル史は教えてくれているのです。
自国ファーストを主張するのはナショナリズムです。ナショナリストは王室や宗教を利用して権力を得ようとします。キリスト教も利用されています。しかし、キリスト教ナショナリズムは、もはやイエスの教えとは似ても似つかないものだと私は思います。
ナショナリストの自国ファーストは自己中心の拡大版であって、その本質は罪すなわち神様に対する背きであることを聖書は教えているのです。
神様の望みは、自分の似姿に創った全ての人が協力して世界を治め、全ての被造物を正しく管理して、そこから得られる富を公平に分かち合って神様の栄光を表すことです。
2. イエスはどのような意味で私たちの王なのか (マタイ21:1-9)
忘れ去られていたゼカリヤの預言は500年後、唐突に成就しました。
マタイによる福音書21章1-9節を読みます。
一行がエルサレムに近づいて、オリーブ山に面したベトファゲに来たとき、イエスは二人の弟子を使いに出そうとして、言われた。「向こうの村へ行きなさい。するとすぐ、ろばがつないであり、一緒に子ろばのいるのが見つかる。それをほどいて、私のところに引いて来なさい。もし、誰かが何か言ったら、『主がお入り用なのです』と言いなさい。すぐ渡してくれる。」
それは、預言者を通して言われたことが実現するためであった。 「シオンの娘に告げよ。『見よ、あなたの王があなたのところに来る。へりくだって、ろばに乗り荷を負うろばの子、子ろばに乗って。』」
弟子たちは行って、イエスが命じられたとおりにし、ろばと子ろばを引いて来て、その上に上着を掛けると、イエスはそれにお乗りになった。大勢の群衆が自分の上着を道に敷き、また、ほかの人々は木の枝を切って道に敷いた。群衆は、前を行く者も後に従う者も叫んだ。「ダビデの子にホサナ。主の名によって来られる方に祝福があるように。いと高き所にホサナ。」
イエスは、ご自身こそがゼカリヤの預言していた“王”であることを自覚していたのです。しかしそれは、それまでの王の概念とは全く異なったものでした。政治家や宗教指導者などの権力者たちはイエスに従うつもりもなく、むしろ彼らの罪深さを非難するイエスを殺すしかないと考えました。
群衆はイエスがエルサレムに入ってきたことを大歓迎しました。しかしイエスが軍事的な革命で権力者を倒すつもりも、ローマを追い出して独立を果たすつもりもないことがわかると、彼らは、イエスに敵意を持って「十字架につけろ」と叫び始めました。人々のイエスに対する期待は、サムエルに王を求めた人々と同様に間違っていたのです。
人は皆、イエスに自分勝手な期待を実現することを求めるのではなく、ただ彼に従って生きることを求めるべきでした。わたしは、もし皆さんがイエス以外の誰かを自分の王のように信頼して従っていきますと言ったら必ず反対するでしょう。誰も皆さんの期待には答えられないからです。
けれどもイエスだけは例外です。皆さんがイエスを自分の王・主として自分の心の中心にある王座にイエスをお迎えすることによって、平和があなたの中に生まれます。そして、イエスに従って生きる一人一人からその平和は他の人々に届くのです。
先週、平和とは戦争のない状態を指すだけではないと聞きました。平和の本質はイエスにつながっている人の心の状態のことです。世界は全く平和ではありませんが、皆さんの心にあるイエスの平和は、皆さんのすぐ近くの人に伝わり、それはやがて世界中に広がってゆきます。私たちは、イエスが平和の王として私たちに何を求めておられるのか聞きつつ人生を歩み続けることを神様から期待されています。
(祈り)神様、ゼカリヤの預言の通り、この世界に来てくださり私たちの王となって下さってありがとうございます。
けれども世界は今も、人々が自分の思うままに王のような存在の人物に従い、互いに争っています。
そしてそのために多くの人が苦しめられています。
どうか私たちのこの愚かさを憐れみ助けてください。
あなたを主として生きる私たちが、それぞれにできることを教えてください。
これから始まる待降節、クリスマスに一人でも多くの人が平和の王であるイエスを心の王座に迎えることができるよう、あなたの存在を私たちを通して表してください。
イエス・キリストの名によって祈ります。
要約
王を立てて他国と競い、自国が繁栄することを願う気持ちは誰もが持っていますが、神様は特定の民族や国だけが栄えることを望まれません。ナショナリズムは個人の利己主義が拡大したものです。王であれ大統領であれ、神様の目から見れば一人の罪人であり、彼らには本当の平和をもたらすことはできません。神様私たちに望まれることは、誰もが、人間の王ではなくイエスを王として心に迎えることにより平和を得、それを広げてゆくことです。
話し合いのために
1) 子ロバに乗ってやってくる王とはどのような存在を象徴していますか?
2) 神様はどのような社会を望んでおられると思いますか?
子どもたち(保護者)のために
初めにゼカリヤ書を読んで、その預言がイエスが来られる500年前になされたことを説明しましょう。もしイエスのエルサレム入場について話したことがあれば、この預言で思い当たることがないか聞いてみましょう。
歴史上の王がどのような存在であったか、イエスが信じる私たちにとって王であるとはどういうことなのか話し合ってみましょう。