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マリヤのように受け入れ、ヨハネのように知らせる
(待降節第一日曜日 ルカによる福音書 1:28-45, 68-79)
永原アンディ
待降節第二日曜日となりました。このチャペルも先週とはすっかり様子が変わり、待降節らしくなりました。クリスマスの飾り付けは、何才になっても楽しくウキウキするものですが、それは救い主が来られるという当時の人々の期待を思い起こすことでもあります。先週、礼拝の後でクリスマスの飾り付けをしてくださった皆さんありがとうございます。
ただ、実際には、イエスが来られたその日に彼を期待して待ち望んでいた人はほとんどいませんでした。ユダヤ人には預言者たちを通してメシア(救い主)の登場が知らされてはいましたが、周囲の大きな国の支配のもとで何百年も過ごし、当時はローマ帝国の支配にあったイスラエルでは、それがすぐに成就するとは考えられないような状態だったからです。
福音書は、その数少ないイエスの誕生を待ち望み、喜んだ人々のことをイエスの誕生の物語の初めに取り上げています。今日はルカによる福音書第1章から二人の人のことを取り上げてお話しします。
1. マリアの場合 (28-38)
初めに28-35節を読みます。
天使は、彼女のところに来て言った。「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる。」 マリアはこの言葉にひどく戸惑って、これは一体何の挨拶かと考え込んだ。 すると、天使は言った。「マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた。 あなたは身ごもって男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。 その子は偉大な人になり、いと高き方の子と呼ばれる。神である主が、彼に父ダビデの王座をくださる。 彼は永遠にヤコブの家を治め、その支配は終わることがない。」 マリアは天使に言った。「どうして、そんなことがありえましょうか。私は男の人を知りませんのに。」 天使は答えた。「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを覆う。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる。 あなたの親類エリサベトも、老年ながら男の子を身ごもっている。不妊の女と言われていたのに、もう六か月になっている。 神にできないことは何一つない。」 マリアは言った。「私は主の仕え女です。お言葉どおり、この身になりますように。」そこで、天使は去って行った。
それは突然の出来事でした。天使が現れること自体ありえないことですが、その話の内容はそれ以上にありえないものでした。
マリアは独身の女性でした。その彼女が身ごもるということは、周囲からすればスキャンダルでしかありません。マリアが天使のお告げを伝えたとしても誰もが荒唐無稽な言い訳としか思ってはくれなかったはずです。しかも、この時マリアにはすでに決まった結婚相手がいたのです。それはヨセフという人でした。
ルカはこの時のヨセフについて全く触れていません。ルカによる福音書では2章のイエスの誕生の部分に初めて登場するのですが、そこでも彼の心情には全く触れていないのです。彼の心情はマタイによる福音書の1:18以下に記されています。それを読むと彼には夢の中で天使がマリアの身に起こっている出来事を告げられ、それを受け入れたことがわかります。
婚約者との新しい生活に希望を抱いて準備していたマリアに、婚約が解消され、人々の信頼を失うなかで子供が生まれるという受け入れ難い未来を天使は告げたのです。しかも天使はそれが神様からの恵みであるというのです。
ところが、マリアはそれを訝り、思い悩むことはありませんでした。「少し考えさせてください」とも言わず、黙っていることもなく、「私は主の仕え女です。お言葉どおり、この身になりますように。」と答えています。
マタイによれば、ヨセフもまた、即座に天使の言葉を受け入れ、マリアとの婚約を守り、彼女と彼女の身籠った子供を受け入れる決心を即座にしていたことがわかります。
自分がマリアあるいはヨセフの立場であることを想像してみてください。私たちの誰もが天使のお告げなしに受け入れることはできないでしょう。それどころか、悪夢か妄想と感じ、受け入れられるように告げてくれた天使を追い返してしまうかもしれません。そのとき聖霊が働いてマリアやヨセフにブレない決心を与えたのです。
2. ヨハネの場合 (39-45)
ルカによる福音書はイエス誕生の前にもう一人の誕生について記しています。 後に、イエスに洗礼(バプテスマ)を授けたバプテスマのヨハネについてです。 39-45節を読みます。
その頃、マリアは出かけて、急いで山里に向かい、ユダの町に行った。そして、ザカリアの家に入ってエリサベトに挨拶をした。マリアの挨拶をエリサベトが聞いたとき、その胎内の子が躍った。エリサベトは聖霊に満たされて、声高らかに言った。「あなたは女の中で祝福された方です。胎内のお子様も祝福されています。私の主のお母様が、私のところに来てくださるとは、何ということでしょう。あなたの挨拶のお声を私が耳にしたとき、胎内の子が喜び躍りました。主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう。」
ヨハネは登場すると言っても、この時点ではまだ母エリザベトの体内にいるのです。ですから、彼のセリフはこの部分にはありません。ただ彼は、マリアの訪問にエリザベトの胎内で”喜び踊りました”。
ルカによる福音書第1章は、このエリザベトの言葉の後、46-55節まで、「マリアの讃歌」と呼ばれているマリアの賛美の歌を紹介して、最後にバプテスマのヨハネ誕生の次第で締めくくられています。そして実際のイエスの誕生は2章に記されています。つまり、ルカによる福音書は、福音のはじめとしてイエスご自身のことからではなく、イエスに深く関わりのある二人の人物について紹介しているということになります。
今日は読みませんでしたが、一章の前半には、ヨハネの父、祭司ザカリアが、ヨハネの誕生を天使に告げられたことが書かれています。彼は、マリアとは違い、告げられた言葉をすぐに信じることができず。実際にヨハネが生まれた時まで、口を聞けなくされてしまいました。天使は生まれる子供をヨハネと名づけるよう命じていました。 周囲は慣例に従って父と同じザカリアと命名しようとしましたが、ザカリアはお告げが本当であったことで、今度は素直に従い、まだ口が聞けなかったので「その名はヨハネ」と字で書いた途端に口が聞けるようになりこのように預言したのです。
「イスラエルの神である主はほめたたえられますように。主はその民を訪れて、これを贖い 我らのために救いの角を僕ダビデの家に起こされた。昔から聖なる預言者たちの口を通して語られたとおりに。それは、我らの敵すべて我らを憎む者の手からの救い。主は我らの先祖に慈しみを示しその聖なる契約を覚えていてくださる。これは我らの父アブラハムに立てられた誓い。こうして我らは敵の手から救われ恐れなく主に仕える 生涯、主の御前に清く正しく。
幼子よ、あなたはいと高き方の預言者と呼ばれる。主に先立って行き、その道を備え主の民に罪の赦しによる救いを知らせるからである。これは我らの神の憐れみの心による。この憐れみによって高い所から曙の光が我らを訪れ、暗闇と死の陰に座している者たちを照らし我らの足を平和の道に導く。」
預言の前半はイエスについて、そして後半は自分の子ヨハネの役割についてでした。ヨハネの神様に与えられた役割は、イエスの来られること、イエスに従うことによって救われることを告げ知らせることでした。
3. マリヤのように受け入れ、ヨハネのように知らせる
なぜルカはイエスの福音の初めにマリアやヨハネのことに1章を費やしたのでしょうか。それは、彼らがイエスの福音が人々の心に届くのに大切な役割を持っていたからです。
マリアは神様が誰も思いつかなかった方法で来られること、しかも自分の胎を通して世に現れることを知らされ、それを受け入れました。
ヨハネは、イエスが神様であることを知っていて、人々がイエスに従うことができるように準備をしました。
私たちは、彼らのことを自分のお手本として見ることができます。私たちがこの21世紀にイエスに出会い従うことができたのは、私たちにイエスを紹介してくれた人が、マリアのようにイエスを受け入れ、ヨハネのようにイエスを告げ知らせてくれたからです。その人にイエスを知らせた誰かも同様にイエスを受け入れ、イエスを紹介したはずです。
そのような連続の営みによって、今私たちはイエスを信じ、イエスと共に歩んでいます。実際にイエスに会ったこともなく、世に起こる事柄だけ見るなら、神様なんていないか、あるいは神様はこの社会に関心がないのかと思ってしまうようなことの起こるこの社会のなかに生き、2000年前の中東で生まれた人物が自分の主であり神様であると信じることは、マリア同様に困難で聖霊の働きなしには起らなかったことです。
もしまだあなたが、イエスは私の主だと確信できないなら、天使のマリアへの言葉は、今あなたに向けられています。「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる。」 この言葉を受け入れるときに、神様と共に歩む新しい生活、永遠の命の道が始まるのです。 イエスは、あなたと共に歩むためにこの世界に来られた神様なのです。
神様の恵みによって、イエスを主として自分の心に迎え入れた人は21世紀のバプテスマのヨハネです。私たちは皆、誰かがヨハネのように備えをしてくれたことによってイエスを受け入れることができました。そのような人がいなければ、誰もイエスに出会うことはできなかったでしょう。
どうか新しいクリスマスを迎えるたびに、自分が現代のマリアであり、ヨハネであることを思い起こしてください。
(祈り) なぜルカはイエスの福音の初めにマリアやヨハネのことに1章を費やしたのでしょうか。それは、彼らがイエスの福音が人々の心に届くのに大切な役割を持っていたからです。
マリアは神様が誰も思いつかなかった方法で来られること、しかも自分の胎を通して世に現れることを知らされ、それを受け入れました。
ヨハネは、イエスが神様であることを知っていて、人々がイエスに従うことができるように準備をしました。
私たちは、彼らのことを自分のお手本として見ることができます。私たちがこの21世紀にイエスに出会い従うことができたのは、私たちにイエスを紹介してくれた人が、マリアのようにイエスを受け入れ、ヨハネのようにイエスを告げ知らせてくれたからです。その人にイエスを知らせた誰かも同様にイエスを受け入れ、イエスを紹介したはずです。
そのような連続の営みによって、今私たちはイエスを信じ、イエスと共に歩んでいます。実際にイエスに会ったこともなく、世に起こる事柄だけ見るなら、神様なんていないか、あるいは神様はこの社会に関心がないのかと思ってしまうようなことの起こるこの社会のなかに生き、2000年前の中東で生まれた人物が自分の主であり神様であると信じることは、マリア同様に困難で聖霊の働きなしには起らなかったことです。
もしまだあなたが、イエスは私の主だと確信できないなら、天使のマリアへの言葉は、今あなたに向けられています。「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる。」 この言葉を受け入れるときに、神様と共に歩む新しい生活、永遠の命の道が始まるのです。 イエスは、あなたと共に歩むためにこの世界に来られた神様なのです。
神様の恵みによって、イエスを主として自分の心に迎え入れた人は21世紀のバプテスマのヨハネです。私たちは皆、誰かがヨハネのように備えをしてくれたことによってイエスを受け入れることができました。そのような人がいなければ、誰もイエスに出会うことはできなかったでしょう。
どうか新しいクリスマスを迎えるたびに、自分が現代のマリアであり、ヨハネであることを思い起こしてください。
要約
神様は一人の人イエスとして、ご自身を世に表されました。その時、マリアとヨハネ、二人の人を用いて、人が神様を信じ、従うことができるようにしてくださいました。私たちは、マリアのように心にイエスを迎え入れ、ヨハネのようにイエスを信じ、彼に従う人生の素晴らしさを伝えるように期待されています。
話し合いのために
1) なぜルカはイエスの誕生の出来事の前にマリヤやヨハネのことを伝えているのでしょう?
2) なぜ私たちは現代のマリア、ヨハネと言えるのでしょうか?
子どもたち(保護者)のために
あまり取り上げられることのないバプテスマのヨハネについて、この章とマタイ3章からその生涯を伝えてください。そして、私たち、イエスを主と信じる者(教会)は、置かれているところ、時代にあってヨハネと同様の働きをしていることを伝えてください。