インマヌエル、神様は共におられる

Peter Paul Rubens, Public domain, via Wikimedia Commons
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インマヌエル、神様は共におられる

(待降節第3曜日 マタイによる福音書1:18-25)

吉野真理


 このクリスマスの時期によく聞く言葉の一つに「インマヌエル」という言葉があります。「神様は私たちと共におられる」という意味のヘブライ語です。この言葉を、私たちは今年一年、また今日の時点で、どのように実感しているでしょうか?「神様は共におられる」とは、神様は私たちのことをすべてよく知っておられ、私たちの苦しみをそのままにはしておかれず、必ず良い方に導いてくださるということです。ですから、「インマヌエル」を信じることができたら、どんな苦しみの中でも希望を取り戻すことができるはずなのですが、私たちはそんなに強くありません。それでも、「インマヌエル」は事実なのだとイエス様は証明して下さいました。今日は、マタイによる福音書1:18-25を読んで、インマヌエルの意味を改めて心に留めることができたらと思います。それでは最初に18-20節を読んでいきましょう。

1. 聖霊による妊娠 (創世記 1:2, イザヤ 11:2; 61:1)

18 イエス・キリストの誕生の次第はこうであった。母マリアはヨセフと婚約していたが、一緒になる前に、聖霊によって身ごもっていることが分かった。19 夫ヨセフは正しい人であったので、マリアのことを表ざたにするのを望まず、ひそかに離縁しようと決心した。20 このように考えていると、主の天使が夢に現れて言った。「ダビデの子ヨセフ、恐れずマリアを妻に迎えなさい。マリアに宿った子は聖霊の働きによるのである。

 新約聖書は、この箇所も含め、マリアがイエス様を妊娠したのは聖霊によると伝えています。このことを通して、マリアが未婚の女性で、イエス様は人間の罪とは無関係にお生まれになったのだということ(いわゆる処女降誕)を強調するのは、本来の聖書のメッセージからはずれていると思います。本来の意味とは、二つの観点からとらえることができます。一つは、神様がイエス様を通して新しい創造のわざをなさったのだということ。それは、神様が人間の歴史に介入され、新しい時代を始められたことを意味しました。もう一つは、イエス様は聖霊の力が注がれた、旧約聖書の時代から待望されていた救い主メシアであるということです。それぞれ旧約聖書の箇所から確認してみましょう。

 まず、創世記1章の1−2節です。

(創世記1:1-2) 初めに神は天と地を創造された。地は混沌として、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。

天地創造の時にも神様の霊が働いていました。この箇所以外にも、旧約聖書には、神様の霊または神様の息が世界を創り、私たちに命を与えるということが言われています。

 それと同じように、マリアに聖霊様の力が働きました。聖霊様による妊娠というのは、歴史上マリアにだけ起こった奇跡です。それは、歴史上にただ一度だけ、神様が人としてこの世界に来られ、人間の歴史に介入するためになさったことです。イエス様の誕生は、まさしくそこから新しい時代が始まることを意味していました。何が新しいのかというと、それまで曖昧にしか見えなかった神様の愛が、イエス様を通してはっきり分かるようになり、私たちと神様の関係は新しくされました。私たちはその新しい時代を生きています。

 もう二箇所、旧約聖書の箇所を読みましょう。まずイザヤ書11章です。

(イザヤ11:1-2) エッサイの株から一つの芽が萌え出で/その根から若枝が育ち/その上に主の霊がとどまる。/知恵と分別の霊/思慮と勇気の霊/主を知り、畏れる霊。

これは、ダビデの家系から人々を救うメシアが生まれるだろうという預言です。その人には神様の霊が留まると言われています。イエス様が洗礼者ヨハネから洗礼を受けた時、この言葉の通りに、イエス様の上に神様の霊が降りました。

 イザヤはさらに、そのメシアがどんなメシアかも預言しています。61章です。

(イザヤ61:1) 主なる神の霊が私に臨んだ。/主が私に油を注いだからである。/苦しむ人に良い知らせを伝えるため/主が私を遣わされた。/心の打ち砕かれた人を包み/捕らわれ人に自由を/つながれている人に解放を告げるために。

聖霊の働きによって生まれたイエス様は、神様からメシアとしての使命を与えられていました。その使命は、イザヤ書が語っている通りです。「苦しむ人に良い知らせを伝えるため、心の打ち砕かれた人を包み、捕らわれ人に自由を、つながれている人に解放を告げるために。」

 イエス様誕生の物語は、このように旧約聖書の時代から約束されていた神様の救いがいよいよ実現し、新しい時代の始まりを告げる、喜びの物語です。マタイは、そのことを天使の言葉を通してもっと明確に語っています。続く21節にこうあります。

2. イエス=「主は救い」 (イザヤ 53章、エレミヤ 31章)

21 マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。」

 イエスという名前はヘブライ語で「主は救い」を意味します。でも、「救い」が何を意味するのかは、人によって、時代によっても違います。マタイはそれをここではっきりこう言っています。「この子は自分の民を罪から救う」と。

 罪からの救いというのは、それを必要としていない人にとっては何の意味もありません。それよりも、私たちは自分に都合のいいように働いてくれる「救世主」を求めがちです。聖書の時代の多くの人々が求めていたのも、彼らをローマ帝国から救い出してくれる政治的・軍事的リーダーでした。今の時代、多くの人が求めるのは自分に経済的利益をもたらしてくれるリーダーです。そのような人々の間で、「苦しむ人に良い知らせを伝え、心の打ち砕かれた人を癒し、捕らわれている人を解放する」救い主が来られたと言っても、その人たちの心を動かすことはないかもしれません。

 でも、旧約聖書の時代から、イエス様の時代も現代も、罪からの解放と癒しこそが必要で、それこそが私たちの人生とこの世界を新しく造り変えるのだと信じてきた人たちがいます。イザヤ書53章6節にこうあります。

(イザヤ53:6) 私たちは皆、羊の群れのようにさまよい/それぞれ自らの道に向かって行った。その私たち全ての過ちを/主は彼に負わせられた。

政治が腐敗し、不毛な戦争が続き、経済の不均衡と社会の不公平さが是正されない根本原因は、一人ひとりの心にあります。旧約聖書の時代から、それを見抜いている人々がいました。私たちはそれぞれが自分の都合のいいように勝手に歩み、実は行くべき方向を見失ってさまよっているのだと。そして、その過ちを全て担って、私たちを行くべき方向に導く方こそが必要なのだと。それがイエス様でした。

 エレミヤ書31章は、イエス様がもたらす新しい時代について、このように語っています。

(エレミヤ31:33-34) その日の後、私がイスラエルの家と結ぶ契約はこれである——主の仰せ。私は、私の律法を彼らの胸の中に授け、彼らの心に書き記す。私は彼らの神となり、彼らは私の民となる。もはや彼らは、隣人や兄弟の間で、「主を知れ」と言って教え合うことはない。小さい者から大きな者に至るまで、彼らは皆、私を知るからである——主の仰せ。私は彼らの過ちを許し、もはや彼らの罪を思い起こすことはない。

イスラエルの民は神様の民のはずですが、ここでは、神様が与える新しい契約を受け入れる人々が神様の民になると言われています。その新しい契約とは、文字で書かれたものではなく、私たちの心に記されるものです。それは、イエス様の十字架での死によって私たちの心に刻みつけられる神様の愛です。イエス様は、私たちの罪のために死なれ、また、私たちを赦すために死なれました。その愛を受け取って生きるなら、私たちは神様の民なのです。

 マタイが語る天使の言葉をもう一度読みます。

「その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。」

イエスの名の意味、「主は救い」、私たちを罪から救い、ご自分の民となさる神様の救いは、イエス様の十字架によってもう私たちに差し出されています。

3. 預言の成就 (イザヤ 7:14)

マタイは22-23節でさらにこう解説しています。

22 このすべてのことが起こったのは、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった。23 「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」これは、「神は我々と共におられる」という意味である。

この元となった預言はイザヤ書7:14にあります。読んでみましょう。

イザヤ7:14 それゆえ、主ご自身があなたがたにしるしを与えられる。見よ、おとめが身ごもって男の子を産み、その名をインマヌエルと呼ぶ。

 この預言のポイントは、インマヌエルと呼ばれるようになる救い主の誕生です。イザヤは処女の妊娠を預言したわけではなく、マタイがこの預言を引用したのもそれを強調するためではなかったと思います。そう言える理由をお話ししようとすると大変長くなるので今日は省略しますが、イザヤは7章から11章を使ってインマヌエルについて預言しており、マタイもここでイザヤ書7−11章全体を念頭に置いていたはずです。ですから、マタイが言いたかったのは、イザヤとイザヤの時代の人々が待ち望んでいたインマヌエルの救い主は、イエス様において実現したのだということだったと思います。

 このことは、マタイがイザヤ書の言葉に加えている編集からも分かります。日本語だと分かりにくいのですが、英語で読むと明白です。イザヤ書では、 “(She) will call him Immanuel” (おとめはその男の子の名をインマヌエルと呼ぶ)ですが、マタイはこれを “They will call him Immanuel” (彼らはその男の子の名をインマヌエルと呼ぶ)と変えています。小さな編集ですが、イエス様がやがて多くの人にインマヌエルを教え、多くの人からその名で呼ばれることを知っていたマタイの独自の解釈だと思われます。

 それに、話の流れで言えば、天使がヨセフに「この子をイエスと名付けなさい」と伝えたばかりで、「その名はインマヌエルと呼ばれる」という預言がここに挿入されるのは、少し不自然にも感じられます。でもマタイは、「イエス」という名の「主は救い」という意味は、インマヌエル「神は共におられる」と同じ意味だと言いたかったのではないでしょうか。イエス様のもたらしてくださった救いは、神様は私たちと共におられることによる救いです。私たちの罪を赦し、傷を癒し、共に生きることが、神様の望みであり、私たちへの約束でした。イエス様の誕生とその生涯、そしてその死は、神様の約束の成就であり、神様が私たちと共に永遠におられるという新しい時代の始まりでした。

 それでは、私たちがこの新しい現実を生きるとはどういうことなのでしょうか。最後の24-25節を読みます。

4. インマヌエル=「神は共におられる」 (マタイ28:20) 

24 ヨセフは目覚めて起きると、主の天使が命じたとおり、マリアを妻に迎えた。25 しかし、男の子が生まれるまで彼女を知ることはなかった。そして、その子をイエスと名付けた。

 婚約者が自分の知らない間に妊娠するという、普通なら悪夢としか思えない現実を、ヨセフは受け入れました。それは、自分の望んだことではなく、不名誉とさえ思えることでしたが、自分の力ではどうしようもない現実でした。夢に天使が現れたからと言っても、そしてヨセフが神様を信頼して受け入れることを決めたと言っても、ヨセフが100%喜びと期待に満ちあふれていたとは思えません。

 おそらく、私たちがそれぞれの現実の中でインマヌエルを信じるということは、このヨセフの状態と似ているのではないかと思います。神様が私と共におられるとは思えないような状況の中で、それでもイエス様の十字架の事実と聖霊様の助けによって、自分の力によらずに、神様のしてくださることに期待して自分の歩む道を委ねるということです。

 私たちと共におられるインマヌエルの主は、私たちのために人となられ、人の助けなしでは生きられない赤ちゃんとなられた方です。そして、十字架で人の悪意と裏切りの末の孤独を味わわれ、肉体の苦痛に耐え、神様からも見離された絶望を味わわれた方です。その方は、私たちの弱さを知っておられ、罪を赦しており、肉体の死の先にある復活の希望を与えてくださった方です。この方の知らない私たちの弱さ、私たちの苦しみはありません。その名はイエス、インマヌエル、私たちの救いです。

 最後に、マタイ福音書最後に記されているイエス様の言葉を読んで終わりにします。

(28:20) 私は世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。

(祈り) 主イエス様、あなたは私たち一人ひとりの心をよくご存知です。どうか、私たちが心の中にあなたを迎え入れて、自分の思いではなく、あなたの思いに従うことができますように。自分の思いとは異なる、受け入れ難い現実の中でも、あなたがしてくださることに期待して、苦しさをあなたに委ねていくことができるように助けてください。私たちの心が弱る時、体が弱る時、その時こそ、あなたがそばにいてくださることを、私たちに分かるように教えてください。そのために、私たちにあなたの霊を注いでください。そして、あなたは良い方であるという確信と希望を与えてください。主イエス様、あなたのお名前によってお祈りします。アーメン。


要約

イエス様の誕生は、旧約聖書の時代から長く待ち望まれてきた約束の成就でした。神様はイエス様を通して、この世界にご自分の正義と愛が実現することを望んでおられると示されました。また同時に、私たち人間が自分の弱さと罪の中で傷ついているのを知っておられ、その重荷を共に担って歩んでくださることも教えて下さいました。「インマヌエル」(神様は共におられる)を日々確認しましょう。

話し合いのために

1) イエス様の「救い」とはどういうものですか?
2) 今年、あなたが「インマヌエル」を一番実感したのはどんな時でしたか?

子どもたち(保護者)のために


イエス様は、「インマヌエル」=神様は私たちと共におられるということを教えて下さいました。どんな時でも神様は私たちのそばにいてくださり、良いことも悪いことも全部知って下さっています。神様が遠くに感じる時ほど、神様は実は一番近くにいてくださいます。「いつもそばにいてくださるイエス様」を子どもたちはどうとらえているでしょうか。話し合ってみて下さい。