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イエス様につながっていよう
(ヨハネによる福音書15:1-17)
吉野真理
新しい年が始まりましたが、皆さんはどのような心持ちでいらっしゃるでしょうか。年の初めの礼拝はいつも、一年を通して心に留めておきたい聖書の箇所を選ぶことにしていますが、今回はヨハネによる福音書の続きの箇所がふさわしいと思いました。イエス様の言葉の中でも有名な箇所です。「私はぶどうの木、あなたがたはその枝である」という言葉の箇所です。
旧約聖書では、ぶどうの木はイスラエルの人々のことを指し、多くの場合は神様が植えて育てたのに実を結ばなかったという意味の嘆きの文脈で語られています。イエス様はもちろんその背景を知っておられて、ご自分は神様の望み通りに実を結ぶ本物のぶどうの木であるという意味で、ご自分をぶどうの木にたとえられたのだと考えられます。
今日はこの箇所を通して、これからの1年間、私たちがどんな状況に置かれるとしても、するべきことはただ「イエス様につながっている」ということなのだと心に留めたいと思います。少し長くて分かりにくい内容ですが、前半と後半に分けて読んでいきます。まずは1-10節を読んでいきましょう。
A.「私につながっていなさい」 (1-10)
1「私はまことのぶどうの木、私の父は農夫である。 2 私につながっている枝で実を結ばないものはみな、父が取り除き、実を結ぶものはみな、もっと豊かに実を結ぶように手入れをなさる。 3 私が語った言葉によって、あなたがたはすでに清くなっている。 4 私につながっていなさい。私もあなたがたにつながっている。ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも、私につながっていなければ、実を結ぶことができない。 5 私はぶどうの木、あなたがたはその枝である。人が私につながっており、私もその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。私を離れては、あなたがたは何もできないからである。 6 私につながっていない人がいれば、枝のように投げ捨てられて枯れる。そして、集められ、火に投げ入れられて焼かれてしまう。 7あなたがたが私につながっており、私の言葉があなたがたの内にとどまっているならば、望むものを何でも願いなさい。そうすればかなえられる。 8 あなたがたが豊かに実を結び、私の弟子となるなら、それによって、私の父は栄光をお受けになる。 9 父が私を愛されたように、私もあなたがたを愛した。私の愛にとどまりなさい。 10 私が父の戒めを守り、その愛にとどまっているように、あなたがたも、私の戒めを守るなら、私の愛にとどまっていることになる。
1. イエス様につながっているとは?
イエス様は私たちに、「私につながっていなさい」と語りかけられています。日本語では「つながっていなさい」と訳されていますが、英語では「とどまりなさい」という意味の remain または abide が使われており、英語の方が原語の直訳です。イエス様につながっている、またはイエス様のうちにとどまっているとは、どういう意味なのでしょうか?
このことを考える上でヒントになるのは、「私もあなたがたにつながっている」というイエス様の言葉です。5節では、「人が私につながっており、私もその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ」とも言われており、私たちがイエス様につながっていることと、イエス様が私たちにつながっていることは、二つで一つのことだと分かります。これは、私たちとイエス様の信頼関係が双方向のものであることを示していると思います。イエス様が私たちを愛してくださっていても、私たちがイエス様を愛していなければ、私たちとイエス様の間に信頼関係はありません。でも、イエス様はすべての人のために十字架で死なれたのであり、すべての人を愛して、その手を差し伸べてくださっていることを考えれば、私たちがイエス様とつながるためにするべきことはただ、その手を取ることだけです。それだけが私たちのすべきことであり、私たちにできることの全てです。
9節では、イエス様が「私の愛にとどまりなさい」と言われています。イエス様の愛とは十字架の愛です。十字架で私たちのために命を捧げ、私たちの罪を贖ってくださった愛です。私たちがその愛にとどまるとは、イエス様が私たちのために死なれた事実の上に立ち、私たちのことを憐んで赦しておられるイエス様に、私たちの歩み全てを委ねていくことです。私たちにできることは、イエス様の前に何も持たずに出ていき、差し伸べられている手を取ることだけなのです。
でも、それさえできれば、イエス様はしっかり私たちをとらえて、私たちの必要を満たし、必ず私たちを導いてくださいます。私たちがイエス様の手を放さない限り、イエス様の方で手を引いてしまうことは決してありません。その意味で、「私につながっていなさい」という言葉は、「私の手を放さないで、私の愛を信頼して安心していなさい」という言葉に言い換えられます。
さて、この前半部分で注目したい部分がもう一つあります。それは、2節と6節で語られている厳しい言葉です。もう一度この二節を読んでみましょう。
2. 父が手入れをなさるとは?
2 私につながっている枝で実を結ばないものはみな、父が取り除き、実を結ぶものはみな、もっと豊かに実を結ぶように手入れをなさる。
6 私につながっていない人がいれば、枝のように投げ捨てられて枯れる。そして、集められ、火に投げ入れられて焼かれてしまう。
実を結ぶということがどういうことかはこの後の後半で考えていきたいのですが、この二節で語られているのは、実を結ばない枝は神様に切り捨てられるということと、実を結ぶ枝はさらに豊かに実を結ぶように神様が手入れをなさるということです。
神様に捨てられる枝があるというのは、恐ろしく感じます。イエス様の言葉遣いから、これは世界の終末に行われる最後の審判のことを指していると思われます。その時、神様はすべての人を裁いて、ある人々を地獄に落とすと言われています。その人々とは、2節では「イエス様につながっているのに実を結ばない枝」、6節では「イエス様につながっていない枝」と言われていますが、この二者は同じ人たちを指していると思います。後でお話ししていくように、イエス様と本当につながっているなら必ず実を結ぶはずで、実を結ばないということは、イエス様につながっているように見えて実際はつながっていなかったことを示しているからです。実を結んでいるかどうかは神様にしか分からないことで、誰が実を結んでいて、誰が結んでいないかを、私たちが判断することはできません。ですから、私たちはここでのイエス様の言葉を過度に恐れる必要はなく、ただ、神様はその判断を正しくなさる方で、人間には分からなくても、不正は必ず暴かれ、神様は正義を行うということを知っていれば良いと思います。
それでは、ここで語られているもう一つの点、実を結ぶ枝はさらに豊かに実を結ぶように神様が手入れをなさるということについて考えたいと思います。「手入れする」という言葉は、刈り込みを行う、剪定するという意味の言葉です。木が健康に成長して、実を実らせるためには、必要のない枝葉を落とす作業が不可欠です。それと同じように、神様は私たちに必要ないと思われるものは奪われることがあります。それは時に、なくなって楽になるものもありますが、痛みを伴うものもあります。自分も含めた人間の限界や無力さを知る、時にはとても苦しい経験かもしれません。でも、そのような経験の中で、私たちは、神様以外に頼れるものはなく、「私を離れてはあなたがたは何もできない」と言われていることの意味を、より深く知ります。そのような中で、私たちは自分では気付かないうちに、自分では思いもよらないほど大きな実を実らせているかもしれません。
それでは、私たちが実を結ぶとはどういうことなのでしょうか?後半に入っていきたいと思います。11-17節です。
B.「互いに愛し合いなさい」 (11-17)
11 これらのことを話したのは、私の喜びがあなたがたの内にあり、あなたがたの喜びが満たされるためである。 12 私があなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これが私の戒めである。 13 友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。 14 私の命じることを行うならば、あなたがたは私の友である。 15 私はもはや、あなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人のしていることを知らないからである。私はあなたがたを友と呼んだ。父から聞いたことをすべてあなたがたに知らせたからである。 16 あなたがたが私を選んだのではない。私があなたがたを選んだ。あなたがたが行って実を結び、その実が残るようにと、また、私の名によって願うなら、父が何でも与えてくださるようにと、私があなたがたを任命したのである。 17 互いに愛し合いなさい。これが私の命令である。」
1. イエス様の愛を知ったからできること
私たちがイエス様につながっていることによって実らせる実が何か、ここを読むと分かります。それは、互いに愛し合うことです。それも、13節で言われているように、「友のために自分の命を捨てる」ほどに大きな愛を持つことです。それは、イエス様が十字架でご自分の命を捧げて、私たちに教えてくださった愛です。イエス様は、自分を苦しめる敵も自分を裏切った友も赦し、彼らと関わり続けることを願われました。その中に私たちもいます。ですから、先にもお話ししたように、私たちは何も持たずにイエス様の前に出て、罪の赦しと無条件の愛という贈り物をイエス様から受け取るだけです。イエス様は、先にそれを受け取った私たちが、イエス様に倣い、イエス様が私たちを赦してくださっているように互いに許し合い、イエス様が愛してくださっているように互いに愛し合って生きていくことを望まれました。イエス様を知っているなら、私たちにはそのような生き方ができるはずです。そして、誰かのために自分の命を捨てるほどの大きな愛を持つことさえ可能なのです。
16節もとても印象深い言葉なので、もう一度読んでみましょう。
16 あなたがたが私を選んだのではない。私があなたがたを選んだ。あなたがたが行って実を結び、その実が残るようにと、また、私の名によって願うなら、父が何でも与えてくださるようにと、私があなたがたを任命したのである。
私たちは自分でイエス様を選んだような感覚を持ちがちですが、実際は、ここでイエス様が言われている通り、イエス様が私たちを選んでくださいました。繰り返しになりますが、私たちが選ばれたのは私たちが他の人たちより優れていたからではありません。私たちが選ばれたのに理由があるとすれば、私たちが何者でもなく、間違いを犯しやすく、無力な存在だったからです。イエス様は、そのような私たちが実を結ぶことができるように、そしてその実が残るように、そのために必要なものは何でも私たちに与えると、約束してくださっています。私たち自身には何の力もなくて構いません。私たちがイエス様の愛を自分で受け取って、イエス様を信頼しているなら、イエス様が私たちの生き方を変えてくださり、私たちの人との関係のあり方も変えてくださいます。そして、そのようにして、私たちは互いを利用し合うのではなく、見返りを求めずに愛し合うことができるようにされていきます。
2. 私たちの喜びが満たされるため
それでは、今日最後に注目したいポイントです。11節をもう一度読みます。
11 これらのことを話したのは、私の喜びがあなたがたの内にあり、あなたがたの喜びが満たされるためである。
イエス様の喜びとは何でしょうか?それは、今日の箇所全体で考えると、おそらく二つの側面があります。まず、父である神様に愛され、その愛に留まって神様に従って生きる喜びです。もう一つは、私たちを愛して、私たちのためにご自分の命を捧げる喜びです。そして、私たちがそのイエス様の愛を受け取ってイエス様を愛して生きるようになる喜びです。
イエス様は、私たちにも同じ喜びを味わってほしいと願われました。その喜びとは、神様と人に愛され、神様と人を愛して生きる喜びです。それ以上に大きな喜びはこの世界にないと思います。今日お話ししてきたように、神様を愛するとは、神様の前で自分の罪と無力さを認めるところから始まります。でもそれは、神様の愛が私たちに無条件に注がれていることを発見する恵みの時でもあります。また、イエス様が愛しているように人を愛するということは、私たちの努力でできるようになることではなく、イエス様が私たちを造り変えてくださることによります。でもその過程は、私たちの力ではなく、神様の力が私たちの人間関係に働かれて、私たちの間で神様の赦しと愛が実現する奇跡を目撃する機会になります。
これからの新しい1年の中で、私たちはそれぞれに様々なことを経験すると思います。どんな時でも、今日のイエス様の言葉を思い起こしましょう。「私につながっていなさい。私もあなたがたにつながっている。」このイエス様の語りかけを聞くから全てが始まります。
(祈り)主イエス様、どうか私たち一人ひとりがあなたのことをもっとよく知り、自分の歩みをあなたに導いていただけるように、あなたを信頼して委ねていけるように、助けてください。自分勝手に歩むのではなく、あなたの語りかけに耳を傾けることができるように、あなたの言葉をよく聞くことができるように、助けてください。あなたが愛しておられる人々のことを、私たちも心を込めて愛することができますように。私たちにできることを示してください。これからの1年を、できるだけいつも、あなたのそばで歩んでいくことができますように。主イエス様、あなたのお名前によってお祈りします。アーメン。
要約
「イエス様につながっていること」が私たちの生きる土台です。それは、イエス様の愛を信頼して、イエス様が差し伸べてくださっている手を取って、イエス様に導かれて生きていくことを意味します。それはまた、イエス様が私たちのために十字架で命を捧げられたように、私たちが自分の時間や労力を惜しまずに他人のために用いる生き方をすることを意味します。新しい一年が、皆さん一人ひとりにとって、神様と人に愛される喜びと、神様と人を愛して生きる喜びを、さらに知る年になりますように。
話し合いのために
1) イエス様につながるために私たちがしなければいけないこと(しなくていいこと)は何でしょうか?
2) イエス様は私たちにどのような実を結んでほしいのでしょうか?
3) 互いに愛し合うとは、今のあなたにとって具体的に誰に何をすることを意味しますか?
子どもたち(保護者)のために
4−5節を一緒に読んでみてください。「イエス様につながる」とは、「イエス様の愛の中にとどまる」とも言い換えられます。子どもたちには、イエス様に愛されている安心と喜びがあるでしょうか?自分が大切な存在だという確信はあるでしょうか?それは子どもたちがどう感じていようと事実であり、私たちがどんな失敗をしても、自分のことが嫌いでも、イエス様は私たちのことを愛しておられ、手を差し伸べてくださっていることを伝えてください。イエス様につながっているとは、そのイエス様の手を取ることで、私たちの側でその手を振りほどかない限り、イエス様の側ではずっと離さないでいてくださいます。