イエス様と共に生きる喜びと苦しみ

Mike Nass / Footsteps in the sand
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日曜礼拝・英語通訳付

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イエス様と共に生きる喜びと苦しみ

(ヨハネ16:16-24)

吉野真理

 今日も先週に引き続き、ヨハネによる福音書を読んでいきます。今日は16:16-24です。ヨハネによる福音書もかなり終盤に近づいて来ました。ここしばらくは、イエス様が弟子たちに向けて語られた別れのメッセージを読んできましたが、それも次回で終わりです。今日の箇所は、少しまどろっこしく感じるイエス様と弟子たちの会話から始まります。そこにはたぶん深い意味があるのですが…。早速読んでいきましょう。まず16-20節です。

A. 「しばらくすると」って、どれくらい? (16-20)

16 「しばらくすると、あなたがたはもう私を見なくなるが、またしばらくすると、私を見るようになる。」17 そこで、弟子たちのある者は互いに言った。「『しばらくすると、あなたがたは私を見なくなるが、またしばらくすると、私を見るようになる』とか、『父のもとに行く』とか言っておられるのは、何のことだろう。」18 また、言った。「『しばらくすると』と言っておられるのは、何のことだろう。何を話しておられるのか分からない。」19 イエスは、彼らが尋ねたがっているのを知って言われた。「『しばらくすると、あなたがたは私を見なくなるが、またしばらくすると、私を見るようになる』と、私が言ったことについて、論じ合っているのか。20 よくよく言っておく。あなたがたは泣き悲しむが、世は喜ぶ。あなたがたは苦しみにさいなまれるが、その苦しみは喜びに変わる。

 弟子たちもイエス様も、全く同じ言葉を繰り返しています。中でも、「しばらくすると」というフレーズが何回も繰り返されています。これは原語に忠実な訳で、原語でも「少しの間」を意味する単語が繰り返されています。

 ここでイエス様が言われているのは、「しばらくすると」自分は逮捕され、殺されることになるが、その後また「しばらくすると」よみがえって弟子たちに会うことになる、ということです。つまり、イエス様が言われる「しばらくすると」とは、具体的には数日以内ということです。なぜイエス様は、そのように具体的な日数を言わずに「しばらく」という曖昧な表現を繰り返されたのでしょうか?それは、おそらく、神様にとっての時間と私たちの時間の感覚は違うからです。

 弟子たちにとって、イエス様が十字架で殺されてから復活されるまでの三日間はとてつもなく長く感じられたと思います。イエス様を裏切った自分自身に対する絶望と無力感と罪悪感。イエス様という師を失った悲しみ。行くべき方向を見失った不安。自分たちも逮捕されるかもしれないという恐怖。弟子たちは文字通り、ドアに鍵をかけて家の中に閉じこもりました。もし、三日目にイエス様は復活されて再会できると本当に信じられていたら、その三日間はあっという間だったかもしれません。

 神様を信じて生きるということは、この弟子たちと同じような経験を繰り返すことだと思います。神様の計画は私たちには全てが明らかにされるわけではなく、私たちは時に悲しみに支配されてしまいます。病を患って健康を失う時。人間関係が壊れて修復できない時。経済的な困難を抱える時。理不尽な理由で差別を受ける時。孤独感から抜け出せない時。私たちは、神様に「いつまで苦しめばいいのですか?なぜすぐ応えてくださらないのですか?」と叫びます。そういう時、私たちが聞かなければいけないのは、今日の箇所でイエス様が弟子たちにした宣言です。20節「その苦しみは喜びに変わる。」なぜなら、16節「あなたがたはもう私を見なくなるが、またしばらくすると、私を見るようになる」からです。

 その「しばらく」は、私たちには長く感じられるかもしれませんが、必ず来ます。私たちの苦しみが喜びに変わるのは、見失ったイエス様と再会する時だからです。私たちの具体的な状況はすぐには変わらないかもしれないし、ずっと付き合っていかなければいけない問題かもしれません。それでも、私たちの心にイエス様が共にいてくださるという確信は、私たちの悲しみを喜びに変えます。そして、その変化は、私たちがイエス様の十字架の事実に立ち、自分の力ではなく聖霊様の力に頼るなら、そんなに長くはかからないはずなのです。

 もし今、ご自分の苦しみの中で神様を信頼できないと感じられているとしたら、一番してはいけないことはご自分を責めることです。神様を信頼したいのにできないあなたを、神様はよく知っておられるはずです。イエス様の言葉の続きを読んでいきましょう。21-22節です。

B. 新しい命を与えられる喜び (21-22)

21 女が子供を産むときには、苦しみがある。その時が来たからである。しかし、子どもが生まれると、一人の人が世に生まれ出た喜びのために、もはやその苦痛を思い出さない。22 このように、あなたがたにも、今は苦しみがある。しかし、私は再びあなたがたと会い、あなたがたは心から喜ぶことになる。その喜びをあなたがたから奪い去る者はいない。

 これは、具体的には、イエス様が死から復活された後に弟子たちと再会する時のことを指しています。でも、イエス様との再会によって心の中に尽きない喜びが与えられるのは、私たちも同じです。イエス様が私たちのために死なれ、そしてよみがえられたと知ることが、神様の愛と憐れみに対する確信を私たちの心に与えるからです。そして、弟子たちの人生がそこから新しく始まったように、私たちの人生もイエス様との出会いによって新しく始まります。何度も新しくされるとも言えます。

 イエス様はこれを産みの苦しみにたとえられました。苦しみの中で「それでも神様が私たちを忘れておられない」という確信を得ることは、それ自体が産みの苦しみです。イエス様を見失って苦しむことは、それ自体がイエス様に再会する喜びにつながっているということです。

 その意味で、私たちはそれぞれの試練を通らされると言えます。イエス様のことが分からなくなり、神様の愛が分からなくなる試練です。神様は意地悪で私たちに試練を与えるのではなく、私たちを試そうとしているのでもありません。ただ、神様のことが分からなくなるときこそ、「もっと私に頼りなさい」と言っておられるのだと思います。

 弟子たちは、イエス様の死から三日後にイエス様にまた会えるとは誰も思っていませんでした。自分たちが取り返しのつかない過ちを犯したという後悔と無力感の中にあった弟子たちのところに、復活されたイエス様は来られました。私たちも同じです。イエス様は、動けないでいる私たちのところに会いに来てくださいます。私たちが必死になってイエス様を探して、ようやく出会えるというものではありません。イエス様が私たちを見つけ出してくださいます。それは、一人ひとりが個人的に体験するもので、聖霊様の助けによって分かるものです。前回お話ししたように、聖霊様は私たちにイエス様の十字架の意味を教え、神様の愛に対する確信を与えてくださいます。その確信が瞬間的に与えられる場合もあれば、いろいろな出来事や人の言葉を通して少しずつ確信になっていく場合もあると思います。どちらにしても、イエス様が実はずっと一番近くにいてくださったのだという確信は、私たちの心に深い喜びと希望を与えます。この喜びと希望は、どんな状況においても、誰にも奪えません。

 このように、イエス様と共に生きることは、イエス様を見失っては、またイエス様に見つけ出していただく、その繰り返しだと思います。それは、古い自分に死に、イエス様と共に生きる新しい命を与えられるプロセスです。産みの苦しみがありますが、新しい命を与えられる喜びは、古い自分が死ぬ苦しみを忘れさせてしまいます。

 それでは、今日最後のイエス様の言葉に進みましょう。23-24節です。

C. 神様が私たちの願いに応えて下さる喜び (23-24)

23 その日には、あなたがたは私に尋ねることは、何もない。よくよく言っておく。あなたがたが私の名によって願うなら、父は何でも与えてくださる。24 今までは、あなたがたは私の名によっては何も願わなかった。願いなさい。そうすれば与えられ、あなたがたは喜びで満たされる。」

 「その日には、あなたがたは私に尋ねることは何もない」というのは、イエス様の死と復活の意味を知り、聖霊様によって神様の愛を確信するなら、それで私たちが知るべきことは全てだという意味だと思います。そして、それが、イエス様の名によって父である神様に願うということにもつながっています。イエス様の名によって祈るとは、イエス様の犠牲の上に私たちが生かされていることを覚えて、イエス様を通して神様とつながるということです。神様から見れば矛盾と間違いだらけの私たちですが、それでも恐れずにありのままで神様の前に出ていけるのは、イエス様が私たちの代わりに私たちの罪を背負ってくださったからです。

 イエス様はここで、私たちがイエス様の名によって願うなら何を願ってもいいし、神様は何でも与えてくださって、それが私たちの喜びになるだろうと言われています。これは、私たちが願うことは何でも神様が叶えてくださるという意味ではないことは、私よりも皆さんの方が経験としてご存知だと思います。では、イエス様は何を意味されたのかというと、私たちの願いと神様の願いが一致していく喜びを知りなさいということだと思います。別の言い方で言うなら、イエス様の十字架によって神様の愛を信頼して、自分の願いが叶うことよりも神様の願いが実現していく方が良いことなのだと知りなさいということです。それは、私たちが自分の願いを何でも神様に打ち明けながら、それが叶うか叶わないかの結果を求めずに、神様は良い方であるということを信頼することです。私たちの願いと神様の願いが違っているとするなら、それがどんなに私たちには理解が及ばないことだとしても、私たちには見えない神様の計画の中では良いことに用いられます。私たちがその確信を持てるようになるために、神様は何でも与えてくださるでしょう。

 どうぞ、どんな状況においても、苦しみや悲しみからの解放を求めて願うことは何も間違っていませんが、神様の愛への確信を持てるようにしてくださいと願ってみてください。神様はそのためなら何でもしてくださると思います。人を通して、出来事を通して、一人でいる時間を通して、聖書の言葉を通して、聖霊様を用いて、私たちの心に働きかけてくださいます。そしてその時には、あなたのために十字架に架かられたイエス様のことを覚えてください。イエス様は、いつでも、私たちの一番そばにおられます。そして、確かに私たちの声を聞いてくださっているのだと教えてくださいます。

(祈り)主イエス様、どうぞ今、一人ひとりの心の中に、あなたが一番近くにおられるという確信を与えてください。どんな状況においても、あなたは私たちを見捨てることはなく、忘れることはなく、共にいてくださいます。私たちはそれが分からなくなったり、目の前の苦しみに支配されてしまったりしますが、あなたを信頼して、希望と喜びを失わずに生きていきたいと願っています。ですから、どうかあなたの霊を送って、私たちを助けて強めてください。私たちには見えない神様の計画を、それは良いものであると、信じることができるように助けてください。主イエス様、あなたのお名前によってお祈りします。アーメン。


要約

私たちは、イエス様の死と復活を通して、神様の憐れみと愛の大きさを確信することができます。私たちは様々な苦しみによってその確信が揺らいで苦しみますが、その度に、ただイエス様の十字架と聖霊様の働きに頼ればいいのだということを知ります。そして、どんな状況においても神様は私たちの祈りを聞いておられる確信を持つことができます。イエス様と共に生きることが、どんな苦しみも喜びに変える、私たちの喜びと希望の源なのです。

話し合いのために
  1. あなたの悲しみや苦しみが喜びに変えられた経験を教えてください。
  2. イエス様と共に生きる喜びとは?苦しみとは?
  3. イエス様の名前によって神様に祈るとは、ただ「祈る」「願う」とどう違いますか?
子どもたち(保護者)のために

私たちは、イエス様の死と復活を通して、神様の憐れみと愛の大きさを確信することができます。私たちは様々な苦しみによってその確信が揺らいで苦しみますが、その度に、ただイエス様の十字架と聖霊様の働きに頼ればいいのだということを知ります。そして、どんな状況においても神様は私たちの祈りを聞いておられる確信を持つことができます。イエス様と共に生きることが、どんな苦しみも喜びに変える、私たちの喜びと希望の源なのです。