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日曜礼拝・英語通訳付
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聞くこと、伝えること
(箴言13章より)
永原アンディ
今日は箴言の13章から「言葉」という単語に注目して、イエスを神と信じる私たちの在り方について考えてゆきましょう。きょうのお話しする事柄の中心となる箴言を読むことから始めましょう。 13節です。
言葉を侮る者は滅ぼされ戒めを畏れる者は報われる。
A. 聖書が伝える「言葉」の概念
ここに出てる「言葉」をNIVは意訳して、(神様の)指示としています。また新共同訳以前の多くの日本語訳では「みことば」としています。私たちが使っている協会共同訳や、多くの英語訳は、原語にならって単に「言葉」としています。その理由は、聖書が伝える言葉の概念の広さ、深さを損なわないためだと思います。
もちろん、ここでいう言葉は神様の「言葉」です。しかし「神様の言葉」は、多くの人が思っているほど狭い概念ではありません。 多くの人は「神様の言葉」と言われれば聖書のことを連想するするのではないでしょうか?それを反映しているのが「神様の指示、教え、みことば」という訳です。
けれども皆さんは「神様の言葉」の意味が聖書にとどまらないことをよく知っているはずです。聖書自体がそれを物語っています。
1 初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。2 この言は、初めに神と共にあった。 (中略)10 言は世にあった。世は言によって成ったが、世は言を認めなかった。11 言は自分のところへ来たが、民は言を受け入れなかった。12 しかし、言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には、神の子となる権能を与えた。(ヨハネによる福音書1:1,2,10-12)
ここでわかることは、「言葉」の本質は神様・イエスご自身であって書かれた文字ではないということです。
イエスが当時の権力者、宗教者たちを厳しく批判したのはなぜだったのでしょうか。それは彼らが、旧約聖書に記されている律法を守ると言いながら、神様の心に背き、律法をもとに自分たちの解釈で勝手に築き上げた体系を律法として人々に押し付け、苦しめていたからです。
残念なことに、現代のキリスト教でも、彼らと同じ過ちを繰り返している人々がいて、教会だけでなく社会全体を混乱させています。自分たちは聖書を神様の言葉と信じる正しいクリスチャンだといいながら、自分たちの願望を神様の戒めと偽り、寄留者や少数者の人権を奪っています。一方的な攻撃を神様の命じる聖戦だと兵士を鼓舞し、自分たちの胎児の命は母親や医師を罰しても守らなければならないと言いながら、敵国の子供なら、百六十人以上の命を一瞬のうちに奪っても、反省するどころか何の心の痛みも感じない人々です。
イエスの時代でも現代でも、聖書の読み方を間違えて、神様に従っていると固く信じながら、悪魔の手先になってしまうことがあるということです。パウロはこう言っています。
神は私たちに、新しい契約に仕える資格を与えてくださいました。文字ではなく霊に仕える資格です。文字は殺し、霊は生かします。(コリントの信徒への手紙2 3:6)
言葉の本質である神様ではなく、聖書の文字に従っている人々、正確に言えば聖書の文字を偶像にして自分勝手に教えている人々が人々を苦しめています。しかし、今日の箴言にある通りに彼らは長く支配し続けることはできません。
文字は殺し霊は生かします。
あなたは文字に仕える人ですか、それとも霊に仕える人ですか。霊に仕える人の聖書の正しい読み方とは、それは書かれた文字の時間的、文化的限界、翻訳の限界を知った上で、聖書を神様の言葉として受け取るということです。それでは言葉の本質である神様の本質を皆さんはご存知しょうか?ヨハネの第一の手紙からクイズを出しましょう。
私たちは、神が私たちに抱いておられる愛を知り、信じています。
神は_です。 _の内にとどまる人は、神の内にとどまり、神もその人の内にとどまってくださいます。
(1ヨハ 4:16 私たちは、神が私たちに抱いておられる愛を知り、信じています。
神は愛です。愛の内にとどまる人は、神の内にとどまり、神もその人の内にとどまってくださいます。)
「神様は愛」です。言葉と神様と愛はイコールでつながるのです。聖書の伝える「言葉」は神様であり愛です。しかしこのテキストが告げていることはそれだけではありません。神様は目に見えず、その声を聞くこともできませんが、「愛」として私たちに働きかけ、私たちのうちにとどまり、私たちから出て人々に伝わる存在だと言っているのです。
このことに気づくと、福音書に記されているイエスの言葉に今まで以上に深いリアリティーを感じられるはずです。たとえばイエスはこう言われました。
二人または三人が私の名によって集まるところには、私もその中にいるのである。」 (マタイによる福音書 18:20)
イエスのこの言葉を、昔はクリスチャンが集まって何かを話し合う時に、「そこにイエスがいることにする」事だと感じていなかったでしょうか。でも、そのままではなかなか実感が湧かないので、ミーティングの時に、わざわざ椅子を一つ加えてイエスの席を作るという話を聞いたことがあります。そんなことをする必要はないのです。
イエスの名によって集っている人々なら、そこで交わされる「言葉」はイエスであり、イエスの言葉であり、イエスの愛だからです。そのことを認めずに「あなたのために椅子を用意したから、黙ってそこに座っていてください」と言われることをイエスは喜ばないでしょう。言葉は伝わることによって現実となります。神様を源とする言葉を受け取り、伝えることによって、イエスは、言葉は、愛は私たちのながで現実となるのです。
B. 言葉を聞く
まず言葉を受け取ることに注目してみましょう。いくつかの箴言を読んでみます。
1 知恵ある子は父の諭しを聞き 嘲る者は叱責を聞かない。
10 人は傲慢に振る舞うと争いを起こす 勧告を聞く者には知恵がある。
14 知恵ある人の教えは命の泉 死の罠から逃れることができる。
16 賢い人は皆知識によって行動し 愚かな者は無知をさらけ出す。
18 諭しをなおざりにする者は貧困と屈辱 懲らしめを受け入れる者は栄誉を得る。
20 知恵ある人と共に歩めば知恵を得 愚かな者と交われば災いに遭う。
イエスの語りかけを聞く方法は多様です。今私たちは聖書の言葉を通してそれぞれに語りかけてくださるイエスの言葉を聞いているところですが、そのチャンスは日曜の朝だけにあるのではありません。一人で祈っている時、聖書を読んでいる時、ミニチャーチをしている時などはもちろんですが、信仰を持っていない誰かと話をしている時にも、その人を通して神様の愛が伝わってくることがあるのです。同様に、信仰とは関係のない本を読んでいてもそうです。
10節では、諭す父を通して愛を受け取ることができるとあります。聖書の文字に限界があるように、伝える人にも限界があります。私たちの高慢と偏見は、人を見て、まさか神様はこのような人を通して語りかけることはないだろうと油断し聞く耳を閉じてしまうのです。
前にもお話ししましたが、神様は自分の子供を通してでさえ語りかけてくださいます。今週も、何をしている時でもイエスがあなたの心に、さまざまな方法で語りかけてくださることを期待して歩みましょう。
それでは最後に、伝えられた言葉や愛を、そしてイエスを誰かに伝えることについて考えてみましょう。
C. 言葉を伝える
2 人は口の言葉が結ぶ実によって良いものを裏切り者の欲望は暴虐を食べる。
3 口を自ら制する者は命を保ちいたずらに唇を開く者は滅びる。
5 正しき者は偽りの言葉を憎み悪しき者は腐臭を放ち、辱められる。
15 高い見識は恵みを与え裏切り者の道は滅びに至る。
17 悪しき使者は災いに陥り真実の使いは癒やしを与える。
24 自分の子を憎む者は杖を控え子を愛する人は努めてこれを諭す。
神様の言葉を伝えるということに関してキリスト教会では大きな誤解があります。それは、神学教育を受けた牧師だけがすることだという誤解です。しかしそれは、今までの話を聞いてお分かりになったと思いますがあまりにも狭い考えです。神様は、日曜日の朝、牧師を通してだけご自分の思いを人に伝えられるのではありません。もしそうなら、先に読んだマタイの18章は「二人、三人が集まる時・・・ただし最低一人は牧師であること」と書かなければなりません。
でも実際は、皆さん一人一人が、自分がイエスを紹介されたように、誰かにイエスを紹介するのです。そのために神学的な知識は必要ありません。皆さんが誰かを慰めたり励ましたりする時、イエスがそのひとを慰め、励ましているのです。私たちが自分の弱々しい愛を、何とか懸命に働かせようとしているところにイエスの力強い愛が働くのです。それは身近な人間関係の中でも起こることです。
24節では、親としての本当の愛は、必要な時には諌め、諭すことであり、放任するのは子供を憎むことと同じだと警告しています。それは友人の間でも、夫婦の間でも同じことでしょう。
いろいろな人からイエスの愛を受け取って、その愛で、今週共に時を過ごす人々を愛しましょう。
(祈り)神様、イエスとしてご自身を表してくださり、いつも語りかけていてくださること、聞いてくださることをありがとうございます。
私たちが、さまざまな方法で語りかけてくださる言葉を、しっかりと受け取ることができるように、心の目を、耳を開いてください。
そして、あなたのくださる恵みの言葉を惜しみなく、必要としている人に伝える者としてください。
私たちが聖書を読む時、自分の偏見によって解釈するのではなく、聖霊の助けによって正しくあなたの意図を受け取ることができるように助けてください。
イエスキリストの名によって祈ります。
要約
「神様の言葉を侮る者は滅ぼされ、戒めを畏れる者は報われる」ことは真実です。それは、イエスご自身と彼の正義と愛を携えて生きる恵みを選ぶのか、それとも自分の欲望に従って生きて滅びるのか、私たちの前に置かれた生き方の選択です。さまざまな仕方で伝えられるイエスによる言葉を受け取る、自分の内に宿るイエスを伝える、それがイエスに従う者、本当のクリスチャンです。
話し合いのために
- どのような意味で聖書は神様の言葉なのでしょう?
- あなたはどのように神様の言葉を人に伝えますか?
子どもたち(保護者)のために
1ヨハネ 4:16とマタイによる福音書 18:20を紹介してください。
大人の礼拝ではこのクイズを出すのですが、子供に考えてもらってもいいですね。
私たちは、神が私たちに抱いておられる愛を知り、信じています。
神は_です。 _の内にとどまる人は、神の内にとどまり、神もその人の内にとどまってくださいます。
神様の愛がいろいろな人を通して自分にもたらされること、自分が神様の愛を誰かに行うことができることを子どもの理解できる具体例を用いて説明してください。
私たちは、神が私たちに抱いておられる愛を知り、信じています。
神は愛です。愛の内にとどまる人は、神の内にとどまり、神もその人の内にとどまってくださいます。( 1ヨハネ 4:16)
二人または三人が私の名によって集まるところには、私もその中にいるのである。」 (マタイによる福音書 18:20)