池田真理
(ルカによる福音書 22:24-30)
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イエス様のような王になろう
クリスマスと年始でルカのシリーズから一旦離れていましたが、今日から戻りたいと思います。先週の話は、年の初めのメッセージとして「王として歩もう」というタイトルでした。今日のタイトルは「イエス様のような王になろう」です。先週も今週も、クリスマス前のシリーズの続きの箇所を読んでいるだけですが、詩編でもルカ福音書でも、たまたま内容が似ていました。早速読んでいきましょう。最初に24-27節です。
A. 王・祭司・預言者
24 また、使徒たちの間に、自分たちのうちでだれがいちばん偉いだろうか、という議論も起こった。25 そこで、イエスは言われた。「異邦人の間では、王が民を支配し、民の上に権力を振るう者が守護者と呼ばれている。26 しかし、あなたがたはそれではいけない。あなたがたの中でいちばん偉い人は、いちばん若い者のようになり、上に立つ人は、仕える者のようになりなさい。27 食事の席に着く人と給仕する者とは、どちらが偉いか。食事の席に着く人ではないか。しかし、わたしはあなたがたの中で、いわば給仕する者である。
使徒たちの間で「自分たちのうちで誰がいちばん偉いか」という議論が起こったと言われています。この直前の箇所は、最後の晩餐、最初の聖餐式です。この使徒たちの議論は聖餐式を含む食事の席で起こったということです。このことは、この福音書を記録したルカにとってはとても実際的な問題でした。同じ一つのイエス様の体に属しているのに、内部に上下関係があるという問題です。パウロが書いたコリントの人たちへの手紙に、この問題が詳しく書かれています。ルカはパウロと旅を共にしたと言われているので、パウロが頭を悩ませていたこの問題についてもよく知っていたはずです。1コリント11:17-22のパウロの言葉を読んでみましょう。
a. 悪い兆候 (コリントの信徒への第一の手紙11:17-22)
17 次のことを指示するにあたって、わたしはあなたがたをほめるわけにはいきません。あなたがたの集まりが、良い結果よりは、むしろ悪い結果を招いているからです。18 まず第一に、あなたがたが教会で集まる際、お互いの間に仲間割れがあると聞いています。わたしもある程度そういうことがあろうかと思います。19 あなたがたの間で、だれが適格者かはっきりするためには、仲間争いも避けられないかもしれません。20 それでは、一緒に集まっても、主の晩餐を食べることにならないのです。21 なぜなら、食事のとき各自が勝手に自分の分を食べてしまい、空腹の者がいるかと思えば、酔っている者もいるという始末だからです。22 あなたがたには、飲んだり食べたりする家がないのですか。それとも、神の教会を見くびり、貧しい人々に恥をかかせようというのですか。わたしはあなたがたに何と言ったらよいのだろう。ほめることにしようか。この点については、ほめるわけにはいきません。
コリントの教会では、礼拝と聖餐式の前に食事を共にしていたようです。教会といっても、当時は教会堂などないので、中庭のある広い家に集まっていたと言われています。そういう広い家を持っているのはもちろん裕福な人たちです。彼らは礼拝の場所を提供するのと同時に、集まる人たちに食事も提供しました。でもそれは誰にでも分け隔てなく提供されていたのではなく、身分によって区別されていました。主人と同じくらい裕福な人たちはリビングで良い食事をし、身分の低い他の人たちは中庭で簡単な食事をするか、ただ待たされるだけという状態です。それが当時の社会での習慣だからです。でもそれによって、イエス様を信じる仲間として集まっているにもかかわらず、仲間としての一致はなく、分裂が鮮明になるだけでした。
誰が一番偉いか言い争った弟子たちも、このコリントの人たちと同じ問題を持っていました。12人の弟子たちの間では社会的な身分の差や貧富の差はそれほどありませんでしたが、上下関係をつけようとすれば、様々な基準が考えられたでしょう。年齢はまず一つです。あとはイエス様にどれくらい気に入られているかという主観的な判断もあったかもしれません。そういう他人と自分を比べる基準というのは、私たちもたくさん持っていると思います。年齢、性別、職業、民族、経済力、身体能力など、数え切れません。意識的にも無意識的にも、私たちは自分と他人との違いによって力関係を判断しています。
イエス様は25-26節で弟子たちにこう言いました。「異邦人の間では、王が民を支配し、民の上に権力を振るう者が守護者と呼ばれている。しかし、あなたがたはそれではいけない。」この「あなたがたはそれではいけない」がポイントです。社会的に地位の高い人というのは権力を持っていて当然ですが、イエス様を信じる人たちの中では、それではいけないということです。そういう社会の見方にとらわれて自分たちの間で上下関係を持つこと自体が、イエス様を信じる者の群れとしては失格だということです。パウロの言葉で言うなら、「それでは、一緒に集まっても、主の晩餐を食べることにならないのです。」それはイエス様を信じると言いながら信じることになっていない、悪い兆候です。では何を目指せば良いのか、次にお話ししていきたいと思います。
b. 目指すべき方向 (ガラテアの信徒への手紙 3:26-28)
26節でイエス様は「あなたがたの中でいちばん偉い人は、いちばん若い者のようになり、上に立つ人は、仕える者のようになりなさい」と言っています。人の上に立つということは、他の人々を支配する権力があるのではなく、他の人々のために働く責任があるということです。これは私たちの普通の感覚とは反対です。私たちは普通、王様でも社長でも政治家でも、権力者というのは自分の思い通りに他の人々を動かし、支配する権利が与えられている人たちだと考えます。でも、イエス様はその権力者の定義を変えてしまいました。権力というのは権利ではなく、責任です。また、支配するという言葉は人間同士では使えない言葉になりました。
なぜこんな逆転が起こったかというと、27節です。「食事の席に着く人と給仕する者とは、どちらが偉いか。食事の席に着く人ではないか。しかし、わたしはあなたがたの中で、いわば給仕する者である。」イエス様は神様でありながら人間となりました。それだけでも大きな権力の逆転ですが、なによりも私たちのために死なれたということが、神様という絶対の権力者が人間を救う僕になったという大逆転でした。そして、イエス様は私たちに必要な糧を常に給仕してくれる召使であると同時に、その糧そのものでもあります。私たちはイエス様の血と肉をいただいて、新しい命を与えられています。イエス様は、私たちのためにご自分のすべてを捧げ尽くしてくださったと言えます。
私たちはこのイエス様に従って、お互いに自分の願いを通すよりも他人のために自分を捧げるように言われています。イエス様の前では、私たちはみんな罪を赦された罪人にすぎません。社会的にどんな名誉を得ていたとしても、それは関係ありません。イエス様は、私たち全員が自分を犠牲にしてお互いに仕え合う責任を与えられました。その責任が全うされているところでは、内部に上下関係が生まれることはなく、お互いに競争したり差別したりすることもありません。パウロはガラテヤの人々への手紙(3章)でこう言っています。
26 あなたがたは皆、信仰により、キリスト・イエスに結ばれて神の子なのです。27 洗礼を受けてキリストに結ばれたあなたがたは皆、キリストを着ているからです。28 そこではもはや、ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もありません。あなたがたは皆、キリスト・イエスにおいて一つだからです。
私たちが目指すべきなのは、ここで言われているような関係です。民族や身分や性別を超えて、イエス様によって一つに結び合わされている関係です。イエス様が私たちのために僕となり、糧となってくださったように、私たちも周りの人々のために僕となるなら、この関係を広げていくことができます。
c. イエス様の求める「リーダー」
では、実際に教会のリーダーはどのように人に仕える僕になればいいのでしょうか? それは、お互いの間で出てくる悪い兆候を見分け、良い方向に導く責任を果たすことによります。私たちは誰も完全ではなく、間違いを犯しますが、何がイエス様の望みなのかをよく見分けて判断していく責任があります。弟子たちが一番偉いのは誰かという議論を始めた時、イエス様が「あなたがたはそれではいけない」と諭したように。コリントの人たちの間で身分差別があることをパウロが「それでは主の晩餐を食べることにはならない」とはっきり言ったように。間違いにははっきりと間違いであると言わなければいけません。そのためには、自分の願いや常識によらずに、何がイエス様の望みなのかをよく聞く必要があります。
このことは時には教会に分裂をもたらすことさえあるかもしれません。私たちの間にはどんな形の上下関係も差別もあってはいけませんが、それはどんな言い争いも起こってはいけないという意味ではありません。何が神様の望みなのか、その解釈には違いが出てくる時があります。何が正しいのか、私たちはよく考えて話し合って、判断していかなければなりません。今年は1517年から始まった宗教改革からちょうど500年になります。カトリック教会とプロテスタント教会の分裂は今となっては起こるべくして起こったのだと言えますが、当時のルターにとっては命がけのことでした。カトリック教会の過ちを訴えたために、それまでの自分の地位や名誉を失い、カトリック教会から破門されて犯罪人扱いされました。でも結局、宗教改革は当時のヨーロッパ社会全体を発展させることになり、カトリック教会の改革も進むことになりました。ルターの指摘は、今日のテキストにも関係があります。当時のヨーロッパの教会で「誰がいちばん偉いか」という議論をしたら、教皇をトップに一番下が平信徒というピラミッド構造がすぐに出てきたでしょう。ルターは、「あなたがたはそれはいけない」というイエス様の言葉に耳を傾けて、その通りに修正しようとした人でした。教会の歴史では、こういう分岐点がいくつもありました。その一つ一つは、自分の生きている時代や文化の価値観によらずに、ただイエス様に耳を傾けた人たちがもたらしたものです。
これは教会のことだけではなくて社会全体にも言えることです。私たちはイエス様を知っている者として、世界が神様の望む良い方向に行くように求める責任があります。私たちは、イエス様が命を捧げなければならなかったほど罪深いと同時に、命を捧げて下さるほど価値ある存在です。私たちは、神様によってこの世界に派遣された僕として、この真実に反するものには抵抗していかなければいけません。
今日は王様になる話だったはずなのに、僕の責任のことばかり出てきました。でも、残りの26-30節は本当に王様になる話です。
B. すべての人の王になろう (28-30)
28 あなたがたは、わたしが種々の試練に遭ったとき、絶えずわたしと一緒に踏みとどまってくれた。29 だから、わたしの父がわたしに支配権をゆだねてくださったように、わたしもあなたがたにそれをゆだねる。30 あなたがたは、わたしの国でわたしの食事の席に着いて飲み食いを共にし、王座に座ってイスラエルの十二部族を治めることになる。」
28節のイエス様の言葉に私はとても励まされました。「あなたがたは、わたしが種々の試練に遭ったとき、絶えずわたしと一緒に踏みとどまってくれた。」これまでの弟子たちの歩みは、こんなふうに言えるほどのものではありませんでした。今この場面でも、誰が一番偉いかが気になって、イエス様に諭されているところです。弟子たちは、イエス様に怒られながら、戸惑いながらイエス様についてきました。その弟子たちに対して、イエス様は「絶えず私と一緒に踏みとどまってくれた」と言います。そして、だからあなたたちに支配権を与えると言われています。この支配権という日本語は少し誤解を生む言葉ですが、本当は英語のように「王国」とか「王権」を意味する言葉です。神様の王権を、私たちは約束されているということです。それは、やがて来る神様の国で、私たちはイエス様と共に食事の席に着き、世界を治めるようになるという約束です。その時、私たちはイエス様と共に喜び、永遠に共に生きるようになります。そんな約束を、イエス様は頼りない弟子たちに与えました。そして、私たちにも与えてくださっています。
私たちがイエス様にならって良い僕になろうとし、自分を犠牲にして人に仕えようとしても、私たちはどこまでいってもイエス様になることはできません。悪い兆候を見分けて、良い方向に人を導こうとしても、間違えることもうまくいかないこともあります。でも、イエス様に怒られながら、戸惑いながら、それでも共に旅を続けたいと願うことを、イエス様は喜んでくださいます。そしていつか、驚くべきことに、そんな私たちに「絶えず私と一緒に踏みとどまってくれた」と言って、共に喜び、食事の席に招いてくださるでしょう。その時、私たちは本当の王になることができます。それは人間の考えるような王様ではありません。罪の力に勝利し、神様と一体となった王様です。それは今の私たちには想像もつかないものですが、確かにイエス様が約束してくださっているものです。だから、ただイエス様によく聞いて、共に歩むことを求め続けましょう。
メッセージのポイント
イエス様は、神様(他に並ぶ者のいない王様)でありながら、すべての人に仕える僕になり、すべての人を生かす糧になりました。このイエス様を信じて従っていくということは、私たちもすべての人に仕える僕になり、自分のためではなく他人のために生きるということです。その生き方には、他人に対するどんな差別も偏見もあってはならず、何が神様の目に正しいのか、よく判断する責任があります。私たちは決していつも正しくいることはできませんが、イエス様に怒られながらも喜ばれた弟子たちのように、ただイエス様に聞いて、共に歩むことを願い続けましょう。
話し合いのために
1) イエス様の求めるリーダーとは?
2) 私たちが王になるとは?
子供たちのために
「偉い」ということを、子供たちがどういうふうにとらえているか、聞いてみてください。家族の中で、学校で、友達の中で、教会で、偉いと思うのはどういう人たちでしょうか?その上で、私たちが一般的に「偉い人」と考えることと、イエス様の考えは違うことを話してみてください。ヨハネ13章の、イエス様が弟子の足を洗うという話を読んでもいいと思います。