2017/2/19 羊飼いの約束

永原アンディ(詩編23)

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羊飼いの約束

福音書を読むと、多くの箇所でイエスはご自身を羊飼いに例えています。しかも「私こそ本当の羊飼い、良い羊飼い、指導者です」と言ったのです。「当時の世の中は、羊飼いのように装って実は羊のためにならない羊飼い=指導者によって、羊たち=人々は苦しめられている。」というのがイエスの認識でした。イエスはラディカルでリベラルで、当時の宗教的、政治的指導者にとっては最も危険な人物とみなされました。そして、ついに十字架にかけられてしまいます。そこまでは指導者たちの思い通りに事が運んだかのように見えました。しかしそれは神様の大きな計画の一部にすぎませんでした。イエスが地上にこられたのは、迷子の羊のように神様のもとからさまよい出て、苦しみ、悲しむ私たちを見つけ出すためだったのです。そして、一見敗北に見えるような仕方で、罪に縛り付けられていた私たちを見つけ、解放し、彼の群れに入れてくださったのです。イエスは今でも同じ働きを続けているのです。しかし、イエスの働きは、あなたを群れに放り込む事で終わるのではありません。それだけでは羊飼いではなくて、「羊狩り」です。羊飼いの仕事は、むしろ羊を群れの中に入れてから始まるのです。今日の詩篇からは、そのイエスが、実際に何をしてくださるのかということを学ぶことができます。それではまず全体を読んで見ましょう。

主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない。主はわたしを青草の原に休ませ憩いの水のほとりに伴い魂を生き返らせてくださる。(1-3a)
主は御名にふさわしくわたしを正しい道に導かれる。(3b)
死の陰の谷を行くときもわたしは災いを恐れない。あなたがわたしと共にいてくださる。あなたの鞭、あなたの杖それがわたしを力づける。(4)
わたしを苦しめる者を前にしてもあなたはわたしに食卓を整えてくださる。わたしの頭に香油を注ぎわたしの杯を溢れさせてくださる。(5)
命のある限り恵みと慈しみはいつもわたしを追う。(6a)
主の家にわたしは帰り 生涯、そこにとどまるであろう。(6b)

 詩人は神様を理想的な羊飼いと想像しています。この詩はまだイエスが世に来られる数百年前に書かれていますが、この人は神様を心から信頼していることがわかります。しかし旧約聖書の民イスラエルの多くが、この人のように神様を信頼していたわけではありませんでした。イスラエル社会自体も、イスラエルを取り巻く国際情勢も不安定で、救い主=メシアが待ち望まれていました。神様が良い羊飼いだとしても、どう従ってゆけば良いのか、誰も教えてはくれなかったのです。イエスはそのような待望の中で、この世界に来られました。イスラエルは、ただ敵国を打ち破り国を栄えさせる、軍事的、政治的指導者を待ち望んでいましたが、実際にこられたイエスはもっとスケールの大きい方で、全ての人の良い羊飼いとしてこられたのです。しかしスケールが大きすぎて、イスラエルはイエスを受け入れることができませんでした。イエスこそ主、私の羊飼いと受け入れたごく少数の人々が、根気強く人々にイエスを紹介し、今ではイエスの羊たちは世界中に広がりました。今日は、イエスが具体的にその羊にしてくださる三つの事と、これからの歩みのために与えられている三つの約束を紹介します。


1. イエスは羊飼いとして

a. あなたを養う (1-3a)

第一にイエスは羊飼いとしてあなたを養います。1-3a までをもう一度読みましょう。

主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない。主はわたしを青草の原に休ませ憩いの水のほとりに伴い魂を生き返らせてくださる。

イエスは私たちがその命を維持し、成長するために必要なものを全て与えてくださっています。羊は自分で美味しい草が豊かにあるところや、安全な水場に行くことができません。私たちは肉体を健全に保つ方法、心を楽します方法については研究熱心ですが、魂については無関心です。イエスは私たちの体の健康も心の健康も気にかけていて下さいますが、何よりも魂のことを心配しておられます。魂が健康な状態にあるなら、肉体に不都合があっても、心が悲しみの中にあっても、平安でいることができるからです。イエスが私たちに与える霊的な栄養は、魂を生き返らす力があります。別の見方をすれば、イエスにいただかなければ死んでいたということです。臓器移植の関連で脳死という状態が話題になることがあります。他の臓器は機能しているが脳は活動をやめてしまった状態です。聖書は人間にとってもっと深刻な状態を警告します。体も心も生きているけれど魂が死んでいる「魂死(こんし)」の状態です。なぜ深刻かといえば、体は元気だし、喜怒哀楽もあり、その人は自分が十分健康であると思い込んでいるからです。人生の意味や目的を考えることなく、あるいは自分勝手に考えて動き回っています。社会が憎しみと暴力、不平等、不正義に満たされているのも無理はありません。世界で上から63人の持つ財産と下位50%、36億人の財産と同額という世界です。革命家なら、その63人から富を奪って再配分しようとするでしょう。しかし、イエスのやり方はそうではありません。イエスはあなたの魂を生き返らせることによって世界を変えようとなさいます。魂が生き返り、健康にされ、成長するなら、あなたの周りは良いもので充たされます。それは愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実と呼ばれるものです。どこかで聞いたことがあるでしょう。パウロがガラテアの信徒への手紙(5:22)の中で、霊の結ぶ実として紹介しているものです。それらは、人々に生きる希望を与えるだけではなく、実際の飢え渇きを癒し、不正義、不平等をなくしていく力にもなるのです。

b. あなたを導く (3b)

主は御名にふさわしくわたしを正しい道に導かれる。

イエスが羊飼いとして私たちにしてくださる第二のことは、正しい道に導いてくださるということです。主の名はヤーウェです。厄介なことに、イスラエルは十戒の教えおに従って、みだりにその名を唱えないように「アドナイ」(私の主の意)と読み替えてきました。現代語訳では私たちの使っている新共同訳だけが、たった一箇所ヤーウェの名を記しています(ヤーウェ・イルエ=主は備えてくださる 創世記22:14)。モーセがその名を問うと神様が答えているように「わたしはある」という意味です。この意味にふさわしくとは、どこか遠くから指令するような導き方ではなく、羊を共に歩いて導く羊飼いのように、人生の歩みを共にしてくださるということです。ひと時も離れることなくいてくださる。神様は人となられ、あらゆる悲しみと苦しみを知っている方です。人生は旅に例えられます。人生の旅には色々なシーズンがあります。しかし、何年先に何があるかといったことは誰にもわかりません。わからない方がいいのです。険しい峠を越えるのに、急な坂道が目の前に立ちはだかれば、気絶してしまうかもしれませんが、私たちは幸いなことに数歩先しか見通せません。ただその数歩をイエスは導いてくださるのです。イエスと共に必死に登ってゆくうちに、いつの間にかピークを乗り越えているのです。私たちは遠くの困難を想像するより、イエスの背中を見ながら一歩一歩進んで行くのです。イエスは、あなたが進めない道を案内したりなさいません。信頼してついてゆきましょう。
ところでどう導きの声を聞くことができるでしょうか?神様は必要な時にはいつでも心に語りかけてくださいます。それを聞く霊の耳を敏感にするために、礼拝を生活の中心において心から捧げ続けること、祈る時も聞くことを意識しながら祈ること、、聖書を読む時も神様がその時聞かせてくださる声を意識しながら読んでください。一人で歩いている時、運転している時に、イエスに話しかけてみてください。感度は絶対良くなります!

c. あなたを守る (4)

死の陰の谷を行くときもわたしは災いを恐れない。あなたがわたしと共にいてくださる。あなたの鞭、あなたの杖それがわたしを力づける。

イエスは群衆を飼い主のいない羊のように憐れまれました。信頼して従える羊飼いがいなければ、羊の群れは互いに争いはじめたり、外敵から無防備になって襲われたり、群集心理からあらぬ方向へ暴走してしまうことさえ起こります。私たちは普段は忘れていても折に触れて死を意識します。人生全体が死の陰の谷とも言えるのです。イエスを信じた者の人生は決して快適なハイウエーを天国に向かって乗り心地の良い車で突っ走るようなものではありません。むしろ、ごついタイヤを履いたオフロードかーで道無き道を進んでいくようなアドヴェンチャーです。しかしもちろんイエスがナヴィゲーターとしていつもあなたの隣にいてくださいます。鞭は外敵を追い払うものです。杖は羊の数を数えるものです。このことから私たちは、イエスと共に歩んでいるのだけれど、イエスと二人だけではない、群れの仲間がいるということを知ります。
いつも皆さんにお話をするときに、私が迷うのは「あなた」と言うべきか「私たち」と言うべきか「皆さん」と言うべきかと言う事です。例えば今日のここまでお話ししてきた、「あなたを養う」「あなたを導く」「あなたを守る」は全て「私たちを」「皆さんを」に言い換えてもおかしくありません。イエスとの関係は、イエスと私たちとの関係であると同時にイエスとたった一人のあなたとの関係の両面があるからです。皆さんにはその両方を意識してもらいたいのです。「共に生きる生活・Life Together 」デートリッヒ・ボンヘッファー Dietrich Bonhoefferに教えられたことですが、イエスに導かれる群れの中でこそ、私たちは正しく一人であることを学ぶのです。そして、一人でイエスの前に立つことによってのみ、正しく群れの中にあることを学びます。この二つのことはイエスに従い始めることによって同時に起こるのです。イエスは私たちに互いに愛し合うことを教えられました。他人の世話はイエスにお任せではないのです。大人の羊は、子供の羊を守ります。さっき第一のこととしてお話しした。イエスが成長させてくださるというのは、互いにケアし合うことができるようになるためでもあります。教会は家族ということを言ってきましたが、イエスを羊飼いとする群でもあるということです。


2. 従う者への約束(5,6)

a. いつでもあなたと共にいる (5)

わたしを苦しめる者を前にしてもあなたはわたしに食卓を整えてくださる。わたしの頭に香油を注ぎわたしの杯を溢れさせてくださる。

皆さんは、前回紹介した映画「沈黙」を御覧になりましたか?是非御覧になって下さい。まだの方のためにネタバレしないように、詳しいことは言いませんが、信仰を棄てると言わなければ生き延びられない状況でも、イエスが生きて働かれることがわかる映画です。踏み絵を踏む、キリスト教を棄てるというショッキング事柄が扱われていますが、それでもイエスは共にいるというのがスコセッシの結論です。恐ろしい拷問でイエスを信じないと口で言わせることはできても、心の中からイエスを消すことはできません。イエスは、踏み絵を踏んだ瞬間に、イエスを知らないと言った瞬間に、離れ去るようなお方ではないのです。イエスは、3回もイエスなんか知らないと言ったペトロを、私たちの最初の牧師とされた方です。

b. 恵みと慈しみが追ってくる (6a)

命のある限り恵みと慈しみはいつもわたしを追う。

大抵の人は、これらのものを追い求めようとしています。そして奪い合いになります。しかし主に従う人は、追い求める必要はありません。恵みも慈しみも勝手について来るからです。それらを自分に誘導しようと考える必要は全くないのです。それよりも、その人の祝福のために、あなたは誰かを追いかけてあげてください。そうするとあなたについてくる恵みと祝福がその人にも及ぶということです。

c. 永遠に主の家に住む (6b)

主の家にわたしは帰り 生涯、そこにとどまるであろう。

人生は100年たらず。事故や急な病気は、平均寿命よりはるかに短い時間で人生の幕を下ろしてしまいます。人の存在がこの世限りなら、なんと不公平なことだろうと思います。しかし聖書は、私たちの魂が永遠の存在であることを教えています。それ約束の1でお話ししたイエスは、この地上で生きている間だけ共にいてくださるのではなく、そのあともずっと永遠にいることができるということなのです。死は誰にでも平等に一度だけやってきます。1年足らずで天に帰る人もいれば100年以上生きる人もいますが、どちらも永遠に比べれば、ほんの一瞬です。また、つまらない死に方、残念な死に方という言い方で私たちは、悲惨な事故の犠牲者や、災害や事件に巻き込まれた人ことを考えてしまいがちですが、それは私たちがそう思うだけであって、神様はその人の魂をしっかりと受け取ってくださり、永遠の憩いに入れてくださいます。私たちがいくら思い煩ったところで、命の長さを決めることはできません。どんな死に方をするかも決められません。ですから、約束された永遠を思い、いつその日が来ても、悔いを残さないように、一日一日羊飼いに導かれて、一歩一歩、歩みを進めてゆきましょう。

イエスは、これらの恵みを、たった一つのことを除いては、何の条件も問わずに与えてくださいます。たった一つのこととは「イエスに従って歩む」ということです。イエスは私たちを羊の群れのように導かれます。迷子になっても探し出して連れ帰ってさえくれます。でも、自分の意思でイエスに従わない自由もあるのです。私たちは鵜飼とか犬ぞりのように繋がれてではなく、自由な意思で従っているということです。その自由な意思で群れを離れれば、羊飼いの保護が期待できないのは当然のことです。
私は何に従って生きているのだろうか?長く教会生活をしている人も自分に問いかけてみる必要があります。自分は本当にイエスに従って生きているのだろうか?自分の魂は死にかけているのではないだろうか?イエスに従っているつもりで、実は特定の聖書解釈、教会の人間関係、誰かの考え方に従っていて、イエスとは違う道を進んでしまっていることもあるのです。
今までイエスを知らずにこられた方には、良い人生を楽しく後悔なく生きるために、人間には「本物の」羊飼いが必要なことを是非知っていただきたいと思います。破滅をもたらす偽の羊飼いに大切な人生を弄ばれた人は大勢います。自分には何の導きも必要ないと考える人も多いのですが、実際には何かに、誰かに導かれていない人は一人もいません。例えば自分の欲望を羊飼いと思い従うこともできます。思想や信条や主義に従う人もいます。よく考えてみてください。それらが本当にあなたを養い導き、守れるのか?どんな時にも一番近くにいてくれるのか?恵みと慈しみをもたらすのか?永遠に共にいてくれるのか?この条件にかなう羊飼いは、イエスの他にはいないのです。


メッセージのポイント

 イエスは私たちを養い、導き、守って下さる羊飼い。私たちは迷子になりやすい羊です。何に従って人生を歩むのか?選択するのは私たちですが、誰がイエス以上に良いものをもたらしてくれるでしょうか?

話し合いのために

1) なぜイエスは羊飼いに例えられるのでしょう?
2) 死の陰の谷とはどのような状態を指すのでしょう?

子供たちのために

久しぶりに、子供達にとってもわかりやすい箇所です。どうぞイエスの私たちにしてくださる三つの働きと三つの約束を、ストレートに話してあげてください。