ピラトの法廷に立つイエスとバラバ
Engraving by Bernhard Rode [Public domain], via Wikimedia Commons, 1789
池田真理
(ルカによる福音書 22:63-23:25)
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私たちはその一人
今日は少し長く聖書を読みます。イエス様が逮捕されてから十字架刑を宣告されるまでの過程を追っていきます。
ここには、イエス様を自分の神様だと信じている人もいれば、まだ見極めている最中だという人もいます。どちらにしても、今日は一つのことを心に留めていただきたいと思います。イエス様を十字架につけたのは私であり、皆さんだということです。私たち一人一人がイエス様を十字架につけました。これが、聖書の中心的な教えです。私たちはみんなひとしく、神様を裏切り、神様を苦しめる罪人です。この点においては、長くイエス様を信じている人も、信じ始めたばかりの人も、信じていない人も、みんな同じです。信じているのといないのとで何が違うかというと、その罪が赦されていると知っているかいないかだけです。
今日読んでいく聖書では様々な人たちが登場しますが、その中にイエス様の味方は一人もいません。ユダヤ人の宗教指導者たちも、ローマの政治家も、民衆も弟子たちも、イエス様を十字架刑にするために貢献しました。私たちも、彼らの中の一人だと言えます。
それでは読んでいきたいと思いますが、分かりやすくするために少し順番を変えて読みたいと思います。最初に22:66-71です。
1. 神を神としない(宗教指導者たち)
a. 自分が神の側にいると思い込んでいる (22:66-71)
66 夜が明けると、民の長老会、祭司長たちや律法学者たちが集まった。そして、イエスを最高法院に連れ出して、67 「お前がメシアなら、そうだと言うがよい」と言った。イエスは言われた。「わたしが言っても、あなたたちは決して信じないだろう。68 わたしが尋ねても、決して答えないだろう。69 しかし、今から後、人の子は全能の神の右に座る。」70 そこで皆の者が、「では、お前は神の子か」と言うと、イエスは言われた。「わたしがそうだとは、あなたたちが言っている。」71 人々は、「これでもまだ証言が必要だろうか。我々は本人の口から聞いたのだ」と言った。
イエス様を捕らえて殺そうとしていた首謀者は、ここに登場するユダヤ人の宗教指導者たちです。彼らがイエス様を殺そうとした理由は、イエス様が邪魔だったからです。彼らはイエス様が何を教え、どんな奇跡を行ってきたか、知っていました。でも、イエス様の言葉も奇跡も彼らの心には届いていませんでした。宗教指導者としての彼らの立場を危うくさせるような発言をイエス様がしていたからです。
彼らとイエス様のやり取りは、とても象徴的です。宗教指導者たちはイエス様に、「お前はメシア(救い主)か」「お前は神の子か」と聞いていますが、それに対してイエス様は直接は答えていません。イエス様はこう言われています。「わたしが言っても、あなたたちは決して信じないだろう。わたしが尋ねても、決して答えないだろう。」これは、イエス様が彼らを恐れて答えるのを避けているのではありません。イエス様が救い主かどうか、神の子かどうか、という問題は、信じるかどうかの問題だということです。イエス様が自分は救い主だと宣言したところで、それを信じるかどうかは聞いた人の側の判断にかかっています。信じることもできるし、笑い飛ばすこともできます。宗教指導者たちは、最初からイエス様を信じていません。だから、イエス様が彼らの問いに答えても、何の意味もありません。
なぜ彼らが最初からイエス様を信じていなかったのか、その理由は私たちにも関係があります。彼らは、自分たちこそが正しいと信じていて、イエス様は間違っていると決めつけていました。自分が正しいと信じていると、自分を批判する人はすべて間違っていることになります。そして、その思い込みをさらに悪化させるのが、自分たちは神様を知っているという勘違いです。自分が良いと思うことは神様が良いと思っていることで、自分が悪いと思うことは神様も悪いと思っていると決めつけてしまいます。そして、自分たちは神様の味方で、自分たちの敵は神様の敵だと思い込みます。これは結局、神様の名前を利用して、自分を神様にしているだけです。
この思い込みから自由になるには、私たちはただ神様の憐れみに頼るしかありません。イエス様と長く人生を歩んでいても、いつの間にか自分を神様にして、イエス様を悲しませていることがあります。教会に通っているからといって安全ではありません。むしろ、ここで宗教指導者という立場にあった人たちがこの罪に陥っていたように、神様を知っていると思っている私たちの方が危ないかもしれません。私たちは、本当の神様を神様としなければ、簡単に神様以外のものを神様に仕立て上げてしまいます。神様という言葉よりも、自分が何を一番大切にして生きているか、と考える方が分かりやすいかもしれません。自分が何を一番大切にしているのか、正直に考えられるなら、私たちは自分がいかに常に不安定に色々なものに手を伸ばそうとしているか気がつくと思います。他人からの評価だったり、自己満足だったり、経済的な安定だったり、それ自体が悪いわけではありませんが、それが一番大事になっているなら気を付けた方がいいということです。
今日はこれから、まだたくさん聖書を読んでいきますが、今お話ししたことが、すべての根底にあります。神様を神様としないということが、すべての罪の根底にあります。それは、私たち全員が持っている罪の性質です。これによって、私たちは様々な苦しみを引き起こし、また苦しみから逃れられなくなってしまいます。続きを読んでいきましょう。
b. 神に罪があると主張する (23:1-5)
23:1 そこで、全会衆が立ち上がり、イエスをピラトのもとに連れて行った。2 そして、イエスをこう訴え始めた。「この男はわが民族を惑わし、皇帝に税を納めるのを禁じ、また、自分が王たるメシアだと言っていることが分かりました。」3 そこで、ピラトがイエスに、「お前がユダヤ人の王なのか」と尋問すると、イエスは、「それは、あなたが言っていることです」とお答えになった。4 ピラトは祭司長たちと群衆に、「わたしはこの男に何の罪も見いだせない」と言った。5 しかし彼らは、「この男は、ガリラヤから始めてこの都に至るまで、ユダヤ全土で教えながら、民衆を扇動しているのです」と言い張った。
宗教指導者たちは、無罪のイエス様を犯罪人にするために、社会の秩序を乱したという罪をイエス様に着せています。昔も今も、権力者が自分に都合の悪い思想家を弾圧するために使う方法は、社会の秩序を乱したという罪をその人に負わせることです。日本にも戦時中は治安維持法 があって、その法律の名の下に軍国主義に反する宗教家や思想家が投獄されました。社会を混乱させたと言えば、どんなに正しい主張をしていた人でも捕らえられました。社会の方が間違っていて、その人たちは社会を良くしようとしていただけなのに、権力がその人たちを踏み潰しました。イエス様に起こったことも同じです。ただ、イエス様は単なる一人の人間ではなく、神様でもあります。そのことを考えると、ここでユダヤ人たちがしたことは、単に一人の思想家の弾圧というのではなくて、神様を排除しようとしたということになります。先にお話ししたように、彼らは自分たちが神様の側にいると思い込んでいたので、イエス様が神様だとは信じられませんでした。その結果、彼らは、まさか自分たちが神様に罪を着せようとしているとも気が付きませんでした。でも、それが現実に起こったことです。
私たちも、気付かないうちに神様を排除しようとしていることがあります。自分の成功のために、名誉のために、立場を守るために、誰かの犠牲は仕方がないと思う時、私たちは神様を排除しています。今、世界では移民の問題が大きくなっています。彼らが自分の国を出なければならなかった理由は、彼らの責任ではありません。でも、移民が社会の秩序を乱すという理由で、彼らを排除する傾向が強まっています。既に自分が持っている権利や財産が移民に脅かされるかもしれないという恐怖は、ユダヤ人の宗教指導者たちがイエス様に感じていた不安と同じではないでしょうか。そして、その不安から彼らを排除しようとすることは、罪のない人たちに罪を負わせることになります。このやり方にとどまるなら、私たちは結局自分の罪に囚われているままで、最終的には神様を排除していることになります。
私たちの罪は、このように神様を神様とせず、自分を神様とすることから始まります。それは、自分を神様より上に置くということでもあります。このことを、次に読んでいきたいと思います。22:63-65と23:6-12を続けて読みます。
2. 「神ならその力を見せてみろ」(見張り・ヘロデ)
(22:63-65, 23:6-12)
22:63 さて、見張りをしていた者たちは、イエスを侮辱したり殴ったりした。64 そして目隠しをして、「お前を殴ったのはだれか。言い当ててみろ」と尋ねた。65 そのほか、さまざまなことを言ってイエスをののしった。
23:6 これを聞いたピラトは、この人はガリラヤ人かと尋ね、7 ヘロデの支配下にあることを知ると、イエスをヘロデのもとに送った。ヘロデも当時、エルサレムに滞在していたのである。8 彼はイエスを見ると、非常に喜んだ。というのは、イエスのうわさを聞いて、ずっと以前から会いたいと思っていたし、イエスが何かしるしを行うのを見たいと望んでいたからである。9 それで、いろいろと尋問したが、イエスは何もお答えにならなかった。10 祭司長たちと律法学者たちはそこにいて、イエスを激しく訴えた。11 ヘロデも自分の兵士たちと一緒にイエスをあざけり、侮辱したあげく、派手な衣を着せてピラトに送り返した。12 この日、ヘロデとピラトは仲がよくなった。それまでは互いに敵対していたのである。
イエス様を殴って侮辱した見張りたちと、イエス様がなにか奇跡を行わないかと期待したヘロデは、基本的には同じ態度です。「お前が神ならその力を見せてみろ」という態度です。それも、真剣にそれを求めていたのではありません。ヘロデが期待したのは、魔法の一つを見せてもらいたいというくらいの娯楽的な興味でした。私たちはヘロデほどお気楽ではないかもしれませんが、間違った興味と期待を神様にかける点では同じです。もし神様が私たちに自分を信じさせるために自分の力を見せつけるような方なら、とっくにそうしているはずです。でも、そうしてくださることを私たちは時々真剣に期待してしまいます。そして、そうしてくださらないことに怒りを感じたり、失望したりしてしまうこともあります。世界の状況を良くしてくださるように、自分の問題を解決してくださるように、願い続けても叶わない時、私たちは神様に失望します。でも、それは神様がいないことの証明にはなりません。神様、いるならその力を見せてください、と祈って、答えてくださる時も、答えてくださらない時もあります。そんな時は、その苦しみを誰かに打ち明けてください。必ずその苦しみを一緒に苦しんでくれる人がいるはずです。神様が近くに感じられない時、神様は私たちがそう感じることを知っていて、ちゃんと目に見える仲間をそばに置いてくださっているはずです。ほら、やっぱり神様はいない、神様に力はないんだ、という声に負けないでください。
それでは最後に23:13-25を読みましょう。
3. 神を殺してしまう (23:13-25)
13 ピラトは、祭司長たちと議員たちと民衆とを呼び集めて、14 言った。「あなたたちは、この男を民衆を惑わす者としてわたしのところに連れて来た。わたしはあなたたちの前で取り調べたが、訴えているような犯罪はこの男には何も見つからなかった。15 ヘロデとても同じであった。それで、我々のもとに送り返してきたのだが、この男は死刑に当たるようなことは何もしていない。16 だから、鞭で懲らしめて釈放しよう。」†17(底本に節が欠けている個所の異本による訳文)18 しかし、人々は一斉に、「その男を殺せ。バラバを釈放しろ」と叫んだ。19 このバラバは、都に起こった暴動と殺人のかどで投獄されていたのである。20 ピラトはイエスを釈放しようと思って、改めて呼びかけた。21 しかし人々は、「十字架につけろ、十字架につけろ」と叫び続けた。22 ピラトは三度目に言った。「いったい、どんな悪事を働いたと言うのか。この男には死刑に当たる犯罪は何も見つからなかった。だから、鞭で懲らしめて釈放しよう。」23 ところが人々は、イエスを十字架につけるようにあくまでも大声で要求し続けた。その声はますます強くなった。24 そこで、ピラトは彼らの要求をいれる決定を下した。25 そして、暴動と殺人のかどで投獄されていたバラバを要求どおりに釈放し、イエスの方は彼らに引き渡して、好きなようにさせた
a. 憎しみの感情に流される(群衆)
1週間前にはイエス様を喜んで迎えたエルサレムの人々が、なぜここまでイエス様を憎むようになってしまったのかを考えると、人間の感情の恐ろしさを感じます。おそらく、人々はイエス様が新しい王様になることを勝手に期待していて、それが裏切られたことに失望しました。そこに、宗教指導者たちがつけ込み、「あいつは嘘つきだ」と触れ回って、憎しみを煽りました。もともと勝手な期待をかけていた人々は、イエス様を心から喜んでいたわけではなかったので、その場の雰囲気に簡単に流されたでしょう。殺人を犯したバラバの方がましに思えるほど、イエス様が極悪人であるかのように思えてきました。そして、嘘つきの裏切り者は罰して当然だし、どうせなら一番残酷な方法で処刑した方が盛り上がると思いつきました。それは、憎しみを通り越して、快感でもあったのかもしれません。彼らの勢いは誰にも止められず、イエス様の十字架刑が決定しました。
私たちは、この群衆の中に自分もいる、と信じられるでしょうか?狂っているようにも思える残酷さを、自分も持っていると言えるでしょうか?それは、人間なら誰でもそうなんだとイエス様は教えています。平和で穏やかな社会の中でも、いじめや集団暴行の事件を耳にします。まして、戦争の中では聞くのも恐ろしいような残酷なことが人間の手によって起こされます。それは直接そこに関わっている人以外にも、そのことを知りながら何もしない人たちによっても助長されています。この場面で言えば、ピラト、そして書かれてはいませんが、この全てを影から見ていた弟子たちです。
b. 保身のため(ピラト・弟子たち)
ピラトは、イエス様に何の罪もないことを確認しながら、結局は自分の保身のためにイエス様を彼らに引き渡しました。弟子たちは葛藤しながらも、結局は傍観者で終わってしまいました。彼らも、間接的にイエス様の処刑に関わったと言えます。私たちも、直接的に悲劇に関わっていなくても、それを見て見ぬ振りをすることによって、間接的に関わっているということは山ほどあります。誰かの苦しみに無関心であることによって、また関心があっても何もしないことによって、です。私たちには限界があるので、そうなってしまうことは仕方ないことでもあります。それでも、自分のことに精一杯で他人のことまで構っていられないと言い続けるなら、それは単なる言い訳になってしまいます。そして、誰かを苦しめ続け、誰かを見殺しにすることになるかもしれません。
こう話していると、自分の罪にとらわれず、神様の憐れみによって生きるということは、とても難しいことのようです。私にはできないと思うかもしれません。そう思われるなら、どうぞ喜んでください。自分の罪の重さを感じる皆さんは、イエス様に関係がある人です。今日お話ししてきた罪深い人間たちのためにこそ、イエス様は死なれました。自分を殺そうとしたすべての人を救うために、イエス様は死なれました。私たちのすべての罪を、イエス様が負ってくださいました。だから、私たちの罪はもう私たちを支配することはできません。罪の力に怯えずに、神様に愛されている者として、日々新しく作りかえられていることに希望を持ちましょう。
メッセージのポイント
私たちはイエス様の十字架を通して、自分が罪人であること、けれども赦されていることを知りました。それでも、私たちの罪の性質がなくなったわけではありません。イエス様を十字架につけて殺した人々の罪の性質を、私たちも同じように持っています。それは、神様を神様とせず、自分を神様にして、人を傷つけ、神様を苦しませ、神様を殺す罪です。この罪の性質によれば、私たちは決して幸せになることはできません。
話し合いのために
1) あなたは自分の罪をどのようなものだと理解していますか?
2) この罪の性質に抵抗するためにはどうすれば良いですか?
子供たちのために
大人のメッセージでは、神様を信じているからといって、教会に来ているからといって、私たちはそうでない人たちよりも優れているわけではないということを伝えたいと思っています。イエス様に出会って自分が罪人だと知っても、私たちは何度でもイエス様に出会い直し、罪を教えていただいて、方向転換する必要があります。そのことを子供達にも分かるように話してあげてください。この聖書箇所を使う必要はありません。