永原アンディ
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三位一体な願い (詩篇25:1-11)
今あなたの心にはどんな願いがありますか?願いは沢山あるのに全く満たされないという不満がくすぶってはいないでしょうか?イエスを主、神様と信じている人は、心の願いをいつでも、そして何度でも彼に訴えることができます。そして主はそれに答えてくださいます。その答えは必ずしもあなたの意向に沿ったものではないかもしれませんが、後になれば神様が最善の答えをしてくださったとわかります。イエスを知らなければ、願いの持って行き場がありません。心の中が不平不満でとっちらかってしまうのも無理はありません。ですから、もしまだであれば、何よりもまずあなたにイエスを知ってほしいのです。
今日の詩編で、詩人はまず三つの基本的な願いを神様に告白します。誰にとっても切実なこれらの願いを、私たちは神様に率直に祈る事ができます。神様は祈りに答え、平安を与え、状況を変えてくださいます。まずこれら三つの基本的な願いを順にみてゆきます。
しかし今日のメッセージの最重要ポイントは、これらでの後に出てくる四つめの願いです。それは前の三つの願いの共通のハブのような根本的な願いです。初めの三つの願いと4つ目の願いの関係は神様が父、子、聖霊であるという三位一体の関係とよく似ています。
A. 基本的な三つの願い
1. 守ってください (1-3)
【ダビデの詩。】主よ、わたしの魂はあなたを仰ぎ望み、わたしの神よ、あなたに依り頼みます。どうか、わたしが恥を受けることのないように敵が誇ることのないようにしてください。 あなたに望みをおく者はだれも決して恥を受けることはありません。いたずらに人を欺く者が恥を受けるのです
私たちは真の敵が、他人や、他民族、他国といったものではないことを知っています。しかし日々の生活の中では、それらが自分を脅かすものとして目の前に立ちはだかります。真の敵ではなくても、私たちを攻撃してくる人はいるのです。詩人もそのような人々に囲まれていたようです。そして彼は神様に「私が恥をかかないように彼らから守ってください」と願います。私たちもそのような願いを祈ることができます。私たちが「守ってください」と祈る時、私たちは神様に望みをおくのです。この詩人の恥は「神様により頼んでいるのに見捨てられているみたいだな」と言われることです。おそらくすでに、そのような言葉も聞こえていたのでしょう。それでも3節にあるように詩人は、最終的には神様に望みをおくものは誰も決して恥を受けることはないと確信していました。神様に望みを置かない生き方は結局、人を敵に回し、自分が負けないようにあらゆる手段を使って戦うことになります。誠実さよりもずる賢さを用いる生き方です。それは自分も人も誰も幸せにはなれない選択です。それより、神様を信頼して「守ってください」と願いましょう。
2. 教えてください (4, 5)
主よ、あなたの道をわたしに示しあなたに従う道を教えてください。あなたのまことにわたしを導いてください。教えてくださいあなたはわたしを救ってくださる神。絶えることなくあなたに望みをおいています。
第二に、私たちは神様に「教えてください」と願うことができます。神様はあらゆる創造物の中でユニークな地位を与えられました。先週も取り上げた、世界の支配人としての地位です。神様が極めて良いものとしてお創りになった世界を、そのまま良いものとして管理するよう期待されています。自分たち思い通りにしていくのでは、決してうまくいかないことを私たちは知っています。だから「神様、教えてください」と願い、いつも祈るのです。この願いに神様が直接声をかけてくだされば良いのですが、そのようなことはほとんど起こりません。しかし聖書を読んでいるときに、祈っているときに、私たちは教えられます。また神様は誰かの言葉や行動を通して教えてくださる事もあります。その誰かとは牧師とかリーダーに限られることではありません。あなたの言葉や行いを通して、神様が誰かに大切なことを教えることもあるのです。私は牧師ですが、小さな子供たちの祈りや言葉を聞いて「彼らのようにもっとシンプルに私を信頼しなさい」と神様に教えられることがあるのです。私たちは「あらゆる人、あらゆることを通して教えてください」「それを受け取ることのできる耳を与えてください」と祈り求めてゆきましょう。。
3. 忘れないでください (6, 7)
主よ思い起こしてくださいあなたのとこしえの憐れみと慈しみを。わたしの若いときの罪と背きは思い起こさず慈しみ深く、御恵みのために主よ、わたしを御心に留めてください。
三つ目は「忘れないでください」という願いです。決して神様に忘れられていないという安心感を持っていますか?神様は私を完全に見放したのではないかと感じたことがありますか?この詩にはダビデの名が記されています。詩編の多くは伝統的にダビデによるものとされてきました。実際には彼自身のものではなく後代のものも多いのですが、それらにも、少なくともダビデの神様に対する思いは受け継がれています。ダビデは、それまでの自分の生涯の歩みが、神様から見捨てられても当然のものだと知っていました。自分は神様に見捨てられたのかと思えるような辛い境遇にも置かれました。しかし、それにも優って神様の憐れみ、慈しみが大きいことを期待して願ったのです。ダビデは欠点だらけで、神様を悲しませることを多くしてきましたが、苦労の多い生涯でもありました。しかし、ダビデの歩みがいつも神様に憶えられていました。ダビデの生涯はサムエル記上から列王記上にかけて、あるいは歴代誌上1-29章で詳しく読むことができます。まだどちらも読んでいないなら、少し長いですがサムエル記の最初から列王記上2章を読むことをお勧めします。サムエルは、ダビデとその前の王、サウルを神様に教えられて任命した預言者です。サムエル記はサムエルの誕生から始まります。しばらくダビデは出てきませんが(16章)、その前も、あなたと神様との関係を考えるのに有益なエピソードが多く書かれているので、ぜひ最初から読んでみてください。
B. 基本的な三つの願い
主は恵み深く正しくいまし罪人に道を示してくださいます。裁きをして貧しい人を導き主の道を貧しい人に教えてくださいます。その契約と定めを守る人にとって主の道はすべて、慈しみとまこと。主よ、あなたの御名のために罪深いわたしをお赦しください。
さて、それでは今までの三つの願いのハブとなる4つ目の願いを見てゆきましょう。それは「罪人である私を赦してほしい」という願いです。実は赦しはもう現実なのです。イエスは私たちを赦すために十字架にかかられたからです。しかし「赦されたい」と願わなければ、イエスの十字架の効力はその人には及びません。「赦されたい」と願わなければ、「赦されている」という自覚は持てません。罪とは神様に背を向けて生きることです。そして罪が赦されるとは、あなたが神様に向き直り、神様もあなたが背を向けていたことを赦して、あなたと神様との関係が回復することを意味しています。 回復された親密な関係が、三つの願いに答えていただける根拠なのです。
詩人は、神様の慈しみ、憐れみを十分感じながらも「赦してください」と言わずにいられないのです。みなさんの多くは、詩人とは違ってイエスの十字架を知り、赦されていることを確信しています。それでも赦してくださいという願いを心に持つことがあるのではないでしょうか? それは赦されていないかもしれないという不安ではないでしょう。赦されているのは動かすことのできない事実です。しかし同時に、日々の歩みの中で、自分の行動や言葉がイエスを悲しませてしまったという反省が全くないとしたら、それは自分に嘘をついていることになります。「ああ、またやってしまった」と思った時、赦してくださいと願うのは自然です。その願いは、赦しを取り消されたかもしれないからではなく、イエスにもっと近づき共に歩んでいきたいという。良い願いからくるものです。イエスはその願いに応えてくださいます。赦してくださいと願うたびに「大丈夫、ついておいで、もっとよくできいるようになるよ」とイエスは力づけてくださいます。
メッセージのポイント
なぜ私たちは、自分の罪深さにもかかわらず、神様に大胆に願うことができるのでしょうか? それは神様が私たちの根源的な願いに答えてくださったことを知っているからです。神様は私たちの「赦してください」という願いに応えて、人となられ十字架で死の苦しみを受け、赦しを与えたのです。神様の守り、導き、共にいてくださることなしに人は正しく歩ことはできません。それらを確かに得るために必要なことは神様の「赦し」を受け入れることです。
話し合いのために
1) 今のあなたの最大の願いはなんですか?
2) どうして「赦してください」が根本的な願いなのでしょうか?
子供たちのために
神様にどんなお願いでもすることができることを教えてあげてください。でも、神様が悲しまれるお願いだと知っていれば、それをしようと思う人はいないでしょう。ぜひ子供達に、基本的な三つの願いを折に触れてすることを勧めてください。その前提として「赦される」=イエスを信じる、イエスについてゆくということがあることを伝えてください。(彼らの)お父さん、お母さんたちはそのことを一番大切に考えて、ユアチャーチという大きな家族の中にいるのです。。