2017/3/26 愛する誓い

池田真理

 


ビデオ  第一礼拝(日本語 Youtube)   /  第二礼拝 (日本語 / 英語 Youtube)


オーディオ (第一礼拝 日本語)

オーディオ (第二礼拝 日本語 / 英語)


愛する誓い(ユアチャーチのメンバーシップ)


 今日はユアチャーチのメンバーシップについてお話しします。ユアチャーチのメンバーシップは自動更新ではありません。牧師やリーダーも含めて、メンバー全員が一年に1回更新するかしないかを決めることにしています。教会のメンバーシップについては教会によっていろいろな考え方があるので、他の教会から来た方の中にはこのやり方に驚く方もいるかもしれません。私たちが牧師を含めて毎年メンバーシップを更新する理由は、神様との関係に自覚的でいたいという願いからです。ユアチャーチのメンバーシップは、イエス様の命令に基づいています。マルコ12:28-31を読みます。

彼らの議論を聞いていた一人の律法学者が進み出、イエスが立派にお答えになったのを見て、尋ねた。「あらゆる掟のうちで、どれが第一でしょうか。」イエスはお答えになった。「第一の掟は、これである。『イスラエルよ、聞け、わたしたちの神である主は、唯一の主である。 心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』第二の掟は、これである。『隣人を自分のように愛しなさい。』この二つにまさる掟はほかにない。」

イエス様に従うということは、この二つの掟に従って、神様を愛し、人を愛するということです。これが守られなくなれば、私たちはイエス様に従っているとは言えないし、教会は教会でなくなります。教会は神様のもので、牧師のものでもメンバーのものでもありません。私たちは、誰か特定の人間を尊敬して集まっているのではないし、気の合う仲間で楽しくやるために集まっているわけでもありません。そういう集まりはカルト集団か社交クラブです。そうならないために、私たちは牧師を含めて一人ひとりが神様と向き合い、神様を愛するためにここにいるという自覚を定期的に改める必要があると考えています。
ですから、ユアチャーチのメンバーシップは、誓いを立てる形式になっています。神様を愛し、人々を愛しますという誓いです。人々を愛するという部分は、教会の中と外で分けているので、全体では三つの誓いになっています。
第一に神様を愛すること。第二に教会の中で互いに愛し合うこと。第三に教会から外に出て世界を愛すること。この三つは、三階建ての家のようで、入り口は1階だけです。神様を愛することなしに、私たちは互いに愛し合うことも、世界を愛することもできないということです。また、たとえ互いに愛し合っていても、神様を愛していないなら、それは教会ではありません。または、世界を愛していると言っても、教会の中で互いに愛し合っていないなら、健康ではありません。では、1階部分から確認していきましょう。もう一度、マルコ12:29だけ読みます。


1. 神様を愛し神様に仕える (マルコ 12:28-30)

イエスはお答えになった。「第一の掟は、これである。『イスラエルよ、聞け、わたしたちの神である主は、唯一の主である。 心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』

 神様は、イエス様を通して、限りない愛で私たちを愛してくださいました。私たちのために自分を犠牲にまでしてくださいました。だから私たちは、このイエス様に自分の人生全てを委ねます。「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、」つまり私たちの全力をかけても、イエス様が私たちのためにしてくださったことには及びません。でもだから、私たちは尽きない希望を持って歩み続けることができます。では、イエス様を唯一の主人として、愛するとは、具体的にどうすればよいのでしょうか?それは、礼拝を生活の中で最優先することによってです。礼拝とは日曜日の礼拝に来ることだけではありません。ルカ10:38-42を読みます。

a. 礼拝を生活の中で最優先することによって (10:38-42)

38 一行が歩いて行くうち、イエスはある村にお入りになった。すると、マルタという女が、イエスを家に迎え入れた。39 彼女にはマリアという姉妹がいた。マリアは主の足もとに座って、その話に聞き入っていた。40 マルタは、いろいろのもてなしのためせわしく立ち働いていたが、そばに近寄って言った。「主よ、わたしの姉妹はわたしだけにもてなしをさせていますが、何ともお思いになりませんか。手伝ってくれるようにおっしゃってください。」41 主はお答えになった。「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。42 しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない。」

神様を礼拝するということは、神様と時間を過ごすことです。やらなければならないことに追われていたとしても、神様と過ごすために時間を割くことです。そして、ただイエス様の声に耳を傾けることです。マルタはイエス様のために忙しく働いていましたが、マリアはただイエス様の足元に座って話を聞こうとしていました。私たちはマルタのようになりがちです。いつも「多くのことに思い悩み、心を乱して」います。日曜日の礼拝に来ても、心が別のところにあるなら、神様と時間を過ごしていることにはなりません。私たちが日曜日の礼拝で歌う時間を大切にしている理由は、歌うことを通して一人ひとりが神様に出会い、必要なことを教えられ、癒されるという経験をしてきたからです。だから、その時間は周りの人を気にしないで、できるだけ神様と一対一の関係に集中していただきたいと願っています。神様と時間を過ごすということは、自分の悩みや思いを神様に打ち明け、神様が自分に何を望まれているのか、何を教えようとしているのか、よく耳を澄ますことです。これは、通勤中でも、勉強中でも、パジャマのままでもできます。それぞれが置かれた状況の中で、自分に合った方法ですることができます。1日に5分でもいいと思います。他のことすべてを脇において、神様とだけ過ごしましょう。私たちが24時間全てを神様のことだけを考えていられないことは、神様はもちろん知っています。でも、私たちに生きる力を与えることができるものは、そんなに多くありません。42節「必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない。few things are needed—or indeed only one. Mary has chosen what is better, and it will not be taken away from her.」イエス様の声に耳を傾け、あなたは愛されていると確かめてください。そして、生きる力をいただいてください。それが、礼拝を生活の中で最優先するということです。

b. 十分の一の献げ物によって (マラキ 3:10, 2コリント 3:7)

 さて、神様を愛するということは、時間だけでなく、自分の収入の一部を神様に割くということでもあります。教会では伝統的に十分の一献金と呼んできました。十分の一というのは旧約聖書の時代から守られてきた基準で、当時はお金ではなく、家畜や収穫物の十分の一を神殿に捧げていました。マラキ3:10を読みます
十分の一の献げ物をすべて倉に運び、わたしの家に食物があるようにせよ。これによって、わたしを試してみよと万軍の主は言われる。必ず、わたしはあなたたちのために天の窓を開き、祝福を限りなく注ぐであろう。

ユアチャーチでも、この決まりに従って、メンバーには自分の収入の十分の一を教会に捧げるように求めます。この世界にいる限り、誰でも生きていくためにお金がかかりますが、教会にもお金がかかります。ユアチャーチが神様の働きを担っており、ここが自分に与えられた家族だと思うメンバーには、共にこの負担を負うことを求めます。メンバーでない人にはこの責任はありません。だからユアチャーチでは、礼拝中に献金の時間は作っていません。献金は、メンバー一人ひとりが神様との関係の中で、喜んで捧げることが一番重要です。十分の一という基準はあくまで目安です。それよりも少なくても多くても構いません。新約聖書でパウロはこう言っています。2コリント3:7です。

各自、不承不承ではなく、強制されてでもなく、こうしようと心に決めたとおりにしなさい。喜んで与える人を神は愛してくださるからです。
だからユアチャーチでは、誰がいくら捧げているのか、ちゃんと収入の十分の一かどうかなんて、誰も知りません。牧師もリーダーもそれを知る必要もないし、知るべきではないと信じています。神様が知っていればいいと信じているからです。そして、集められた献金は神様の働きのためだけに有意義に使われるようにリーダーで注意深く扱います。メンバーには毎月会計の報告して、できるだけ透明性を保つようにしています。メンバーでなくても、ユアチャーチの収支報告はいつでも見られるようにしています。ユアチャーチが神様の働きを担っていて、自分もそこに加わっていると思われる方は、どうぞメンバーとしてこの責任を果たしてください。そう思われなければ、全く気にする必要はありません。
それでは2階部分に上がります。教会の中で互いに愛し合うということについてです。1ヨハネ3:16-18を読みます。


2. 互いに愛し仕えあいます (1ヨハネ3:16-18)

イエスは、わたしたちのために、命を捨ててくださいました。そのことによって、わたしたちは愛を知りました。だから、わたしたちも兄弟のために命を捨てるべきです。 世の富を持ちながら、兄弟が必要な物に事欠くのを見て同情しない者があれば、どうして神の愛がそのような者の内にとどまるでしょう。 子たちよ、言葉や口先だけではなく、行いをもって誠実に愛し合おう。

 このヨハネの手紙は、当時の教会にあてて書かれたものです。だから私たちも、この言葉を教会の中に向けられたものとして読みます。これは教会の外にいる人たちを排除しているのではありません。でも、教会の中と外では、違わなければいけないものがあるということです。私たちは教会に属していても属していなくても、イエス様を信じていてもいなくても、同じ不完全な人間であることには変わりありません。それでも、教会の中では、神様の憐れみによって、教会の外では実現できない、より深い人間関係ができるはずだということです。なぜそう言えるのでしょうか。
ここで言われている愛するという行動の基準は、とても高いものです。イエス様が私たちのために命を捧げてくださったように、私たちも互いに自分を犠牲にしようと言われています。それが私たちに求められている「互いに愛し合う」ということです。相手からの見返りを求めずに、自分の時間やエネルギーを誰かのために使うこと。しかもそれを喜んですること。これは誰にとってもとても難しいことです。やろうと思えば思うほど、自分がいかに自分を中心にしており、愛が乏しいかに気がつき、がっかりします。私たちは誰も、一生かかってもイエス様のようにはなれません。誰かを傷つけたり、疲れてしまったりします。でも、誓いの一つ目、神様を第一に愛するということを実践しているならば、自分を犠牲にする力をいただいて、喜べるようになります。そして、それをお互いにすることで、共に喜ぶことができます。それは、私たち自身の力によらず、神様の愛が私たちの間に働いているということです。1ヨハネのもう少し先の4:12にはこうあります。

いまだかつて神を見た者はいません。わたしたちが互いに愛し合うならば、神はわたしたちの内にとどまってくださり、神の愛がわたしたちの内で全うされているのです。

これが教会のあるべき姿であり、神様の家族の姿です。皆さんは、これを経験しているでしょうか?教会の誰かと話して、神様は本当に生きておられると経験しているでしょうか?誰かを通して、神様の愛を感じたことがあるでしょうか?それは、神様の家族の中でしか味わえない、天国の味です。一人で感じるのとは次元の違う味です。
ユアチャーチは、これを皆さんに味わっていただきたいと願っています。やり方はいろいろありますが、まずは単純にお互いを知り合うところから始めるべきだと思っています。日曜日の礼拝だけでは、とても時間が足りません。ぜひ、気の合う人同士で声をかけあって、知り合ってください。牧師は必ずしも必要ありません。全員と仲良くする必要もありません。でも、メンバーの人はみんな、誰かとつながるようにしてください。つながっていない人がいるなら、気にかけるようにしてください。お茶でも食事でもいいです。お互いの時間とエネルギーを分け合いましょう。何か問題や疑問が起きたら、遠慮なく牧師やリーダーに聞いてください。そして、月に1回のメンバーのミーティング、ハドルに出て下さい。ハドルはメンバーでなくても出られますが、メンバーの方はぜひ時間を作って出てください。
それでは最後に、最上階の3階に上がります。教会の外に出て、世界を愛するということについてです。マタイ5:13-16を読みます。


3. 世界を愛し世界に仕えます (マタイ5:13-16)

「あなたがたは地の塩である。だが、塩に塩気がなくなれば、その塩は何によって塩味が付けられよう。もはや、何の役にも立たず、外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけである。 あなたがたは世の光である。山の上にある町は、隠れることができない。 また、ともし火をともして升の下に置く者はいない。燭台の上に置く。そうすれば、家の中のものすべてを照らすのである。 そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである。」

 私たちがこの世界に置かれている理由がここにあります。神様の愛をこの世界に伝えるという目的です。それはとても身近なところから始まります。日曜日の礼拝の運営を支えるというのも一つです。日曜日の礼拝は、メンバーのためでもありますが、世界に向けて開かれている場所です。直接人と関わらなくても、日曜日の活動を支える方法はたくさんあります。朝早く来て掃除をしてくれる人、週報を印刷してくれる人、音響やパソコン操作をしてくれる人、礼拝後に片づけをしてくれる人。それは牧師やリーダーたちではありません。アナウンス、通訳、音楽をする人。新しく来た人に必ず声をかけてくれる人もいます。小さい子供達と遊んでくれる人。子供のミニチャーチをリードしたり、サポートしてくれたりする人。皆さんそれぞれに都合があり、無理なことは決してしていただきたくありませんが、喜んでできるものがあればぜひやっていただきたいと思います。状況が変わって、喜んでできない状況になったら、遠慮なくそう言ってやめてください。

 そして、これはいつもお話しすることですが、神様の愛を世界に届けるのは、皆さん一人ひとりの役割です。家族の中で、職場で、学校で、神様が愛するように、身近な人を愛してください。私たちは、自分に一番近い家族を愛することの方が、遠い国の貧しい子供を愛するよりも、難しいことがあります。家族だからといって、必ず愛し合わなければいけないわけではありません。でも、家族の問題は複雑なので、自分の感情ではなく、神様が何を望まれているのかを求めて向き合うことが大切だと思います。同じように、私たちの周りにいる様々な難しい人たち、困った人たちと付き合う時、私たちは神様がその人のことも愛しているということを忘れてはいけません。愛せない人も愛せることが、神様の愛です。

 そして最後に、文字通り、世界に目を向けて、様々な支援に加わることも私たちの務めです。この教会がずっとインドネシアの働きを支援してきたのも、この確信があるからです。

 さて、このようにユアチャーチのメンバーになるということは、三つの愛する誓いを立てるということです。自分を犠牲にして、神様のために、人々のために、使っていただきましょう。それを喜べる人は、どうぞ誓いを立てて、メンバーとなってください。


メッセージのポイント

神様はイエス様を通して、限りない愛で私たちを愛してくださいました。だから私たちは、神様を愛することを何よりも第一に大切にします。神様によく聞き、自分の願いではなく、神様の思いを喜び、それに従うということです。それが私たちの生きる力の源です。でも、私たちは誰も一人でそれを続けることはできません。教会の中で、同じ神様を喜ぶ仲間と共に助け合う必要があります。不完全でも、愛し合うことができると学ぶ必要があります。その上で、教会の外に出て、全ての人を神様が愛しているように愛する役割を与えられています。このように神様を愛し、人を愛して生きていきますという誓いが、ユアチャーチのメンバーに求められていることです。


話し合いのために

1) なぜ教会のメンバーになることが必要なのですか?
2) なぜユアチャーチのメンバーになりたいと(なりたくないと)思いますか?


子供たちのために

みんながなぜいつもユアチャーチに来るのか、なぜお父さんやお母さんは教会に通っていると思うか、聞いてみてください。私たちはどんなに自分は神様のことが大好きだと思っていたとしても、一人でそれを保つことはできません。神様はそれを知っているから、私たちを集めて神様の家族としてくださっています。子供達も大切な家族の一員で、自分では気がつかないかもしれませんが、誰かの役に立っています。そして、家族の中にはいろんな人がいるので、みんなが困った時にはいつでも誰かが助けてくれるはずです。