永原アンディ
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主と顔と顔を合わせて (詩編 27:7-14)
悲しみの人 – アルブレヒト・デューラー
7 主よ、呼び求めるわたしの声を聞き憐れんで、わたしに答えてください。8 心よ、主はお前に言われる「わたしの顔を尋ね求めよ」と。主よ、わたしは御顔を尋ね求めます。9 御顔を隠すことなく、怒ることなくあなたの僕を退けないでください。あなたはわたしの助け。救いの神よ、わたしを離れないでください見捨てないでください。10 父母はわたしを見捨てようとも主は必ず、わたしを引き寄せてくださいます11 主よ、あなたの道を示し平らな道に導いてください。わたしを陥れようとする者がいるのです。12 貪欲な敵にわたしを渡さないでください。偽りの証人、不法を言い広める者がわたしに逆らって立ちました。13 わたしは信じます命あるものの地で主の恵みを見ることを。14 主を待ち望め雄々しくあれ、心を強くせよ。主を待ち望め。
今あなたが置かれている状況はどのようなものでしょうか?困難を抱えていますか?それとも心配なことは何一つないですか?それほど深刻ではなくても、私たちは何かしら不安を抱えているものです。時にはそのようなことが心を占め、憂鬱な気持ちになります。神を信じる者であるなら、「神様が全ての事を益と変えてくださる」と頭ではわかっているはずです。しかし感情はそれに伴わないのです。しかしそれで自分の信仰が劣っていると考える必要はありません。悩まないことが信仰の強さではないのです。今日のテキストは「主のみ顔を求める」という言葉をキーワードとして、私たちの困難の主な原因とそれにどう立ち向かうべきなのかを私たちに教えてくれています。
1. 詩人が置かれている困難な状況 (10-12)
はじめに10-12節に目を向けましょう。ここに私たちが直面する困難の二つの要素が記されています。
a) 関係の破綻 (10)
10 父母はわたしを見捨てようとも主は必ず、わたしを引き寄せてくださいます
親子関係は本来、最も信頼できる人間関係の一つであるはずです。しかしこの10節で詩人は、その親子関係でさえ破綻することを認めた上で、神様だけは信頼できると告白しています。親との関係はその人の人格を作り上げる大きな要素です。普通なら、親はそのことを知っていてできる限りの事をしようとするでしょう。しかし、私たちが親との関係を省みる時、完全な親に育てられましたという人はいないはずです。私たちには安心して頼ることのできる者の存在が必要です。しかし親であっても、子供にとって完全な者であることは不可能です。
第二次世界大戦時に中国大陸に進出していた日本は、多くの民間人も開拓民などとして送られていましたが、敗戦とともに引き上げるときに引き裂かれた親子が大勢いました。親がそうしたくて子供たちを見捨てたのではありません。命を奪われるかもしれない危険の中で子供を連れて帰ろうとするより、友人の中国人にゆだねたほうが子供たちが生き延びられる可能性があるという究極の選択だったのですから誰も責めることはできません。しかし子供の側から見れば「見捨てられた」ことは事実でした。
ある状況の中では、夫婦、親子という最も強い信頼関係の中の最善の選択でさえ子供にとっては見捨てられるということが起こります。それが兄弟や親戚、友人や、上司、部下との関係ならなおさらです。そこに究極の信頼を置くことができないことは明らかです。
b) 敵の存在 (11, 12)
11 主よ、あなたの道を示し平らな道に導いてください。わたしを陥れようとする者がいるのです。
12 貪欲な敵にわたしを渡さないでください。偽りの証人、不法を言い広める者がわたしに逆らって立ちました。
私たちの周りには様々な敵がいます。親子でもただ関係が壊れるだけでなく敵となる場合があります。幼い子供の命を脅かす実の親のことがニュースでは珍しくもありません。幸い親に愛されて成長して学校に行けば早速、敵に遭遇します。自分の意志を行おうとするときに、それに反対する人が立ちはだかることは必ず起こります。理由もなく攻撃にさらされることもあります。会社でも同じでしょう。もっと広く考えれば、今私たちは、広島に落とされた原子爆弾の数倍の威力を持つミサイルが発射されれば10分で届くところに生きています。
このように考えてくれば、詩人の置かれた状況が自分には関係のないとは言えないことがわかるでしょう。楽しいことをしたり考えたりすれば、一時的に忘れることはできます。しかし、ふと我に返り不安になるとがあるのです。不安や憂鬱が心に居座れば他のことは何も考えられなくなってしまいます。辛すぎて、生きることをやめれば楽になれるという思いさえうかんでくるのです。
2. 状況が悪い時に求めるべきこと (7-9, 13, 14)
究極の信頼は主に置くことしかできません。敵の存在はなくなりませんが、敵に囲まれているような状況でも、主は共にいてくださると約束されています。私たちに必要なのはこれからお話しする二つのことを神様に求めることです。そしてこれらのことによって、状況に左右されない歩みが可能になるのです。第一のことは、「主と顔と顔を合わせる」ということです。
a) 主と顔と顔を合わせる (7-9)
7 主よ、呼び求めるわたしの声を聞き憐れんで、わたしに答えてください。
8 心よ、主はお前に言われる「わたしの顔を尋ね求めよ」と。主よ、わたしは御顔を尋ね求めます。
9 御顔を隠すことなく、怒ることなくあなたの僕を退けないでください。あなたはわたしの助け。救いの神よ、わたしを離れないでください見捨てないでください。
見えない神様が「私の顔を求めなさい」と言っておられると言われても、実際にどうしたらいいのかわかりにくいところです。私たちはイエスを主と信じていますが、イエスの顔だって、それが実際の顔形ということであれば知らないと言わざるを得ません。
聖書の登場人物たちは皆、神様の顔を意識していました。神様の手厚い保護を感じるとき、神様は自分を見ていると思えました。また、反対に神様の怒りを買えば、神様は顔をそむける、隠すと考えました。出エジプト記33章は「主は人がその友と語るように、顔と顔を合わせてモーセに語られた。」(11節) と記録していますが、その直後の23節では「あなたはわたしの顔を見ることはできない。人はわたしを見て、なお生きていることはできないからである。」とあります。つまりモーセは神様をその目で直接見たわけではなく、顔と顔を合わせて語り合うほどの近い関係を持ち語り合うことができたということです。そして神様は詩人にも、「わたしの顔を尋ね求めよ」と勧めました。
私たちはどうでしょう?私たちも同じように「わたしの顔を尋ね求めよ」と勧められているのでしょうか? その通りです。その証拠は、神様がイエスとしてこの世界に来てくださったことです。歴史の中のほんの短い期間でしたが、イエスはあらゆる人に隠すことなくその顔を向けられました。何人の人がイエスにじっと見つめられた経験をしたのでしょうか?イエスと共にいた弟子たちだけではありません。姦淫の罪で人々から石を投げつけられようとしていた女性、神様の祝福に与れないとされていたサマリア人の女性、罪人として軽蔑されていた税金取りのザアカイ もそうです。 私たちはこれらのイエスと同時代の人のようにイエスの顔を知りません。 しかし私たちも、旧約の人々に勧められた意味で御顔を求めることを勧められています。つまり、 私たちもモーセのように、主と顔と顔を合わせて語り合うほどの近い関係を持ち 、主と語り合うことができるということです。もう聞き飽きたかもしれませんが、礼拝は神様との双方向のコミュニケーションです。 短い時間でもいいので、毎日ただ主だけを見つめて過ごす静かな時間を持ちましょう。これこそが礼拝です。主と親しくなることのできる最高の習慣です。
ただ主との双方向のコミュニケーションは礼拝するときだけに必要なわけではありません。幼稚園児のサッカーを見ていると子どもたちの目はボールに向けられています。ボールを中心に魚の群れのように動き回ります。しかし小学生になれば、ボールではなく顔を上げて周りを見てプレーすることを教えられだいぶサッカーらしくなってきます。顔を上げてプレーできるようになると、次にコーチは仲間とコミュニケーションをとることによって、効果的なパス交換ができるように指導します。「私の顔を求めなさい」と言われる神様は日常生活の中でも、アイコンタクトを求めておられるということです。神様があなたから目を離すことは決してありません。だからあなたの方も神様の方を向いてコミュニケーションをとるなら、どんな苦難も乗り越えることができるのです。それは、ここでイエスならどう言うだろう、何をするだろうと考えたり、祈ったりするということです。
b) 主を待ち望む (13, 14)
13 わたしは信じます命あるものの地で主の恵みを見ることを。
14 主を待ち望め雄々しくあれ、心を強くせよ。主を待ち望め。
苦難の中で私たちが主に求めるべき、もう一つのことは主を待ち望むための力を求めることです。直接祈り求めることもできます。主の体の他の部分である人々に助けを求めることもできます。しかし自分の内側から出てくるものではありません。求めるべきものです。待たなければならないのは、まだ状況が変わっていないからです。恵みが見えていないからです。「私の心を強くしてください」と主に求め、この家族に助けを求め、主を信頼して時を待ち望みましょう。ヘブライ人への手紙の著者の言葉を覚えていますか?「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。」(11:1) イエスは。「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子には枕する所もない。」(マタ 8:20) と言われました。イエスに従う私たちの地上の歩みは信仰の旅です。私たちの国籍は天にあり、地上にいる限り旅人です。旅の不便なこと(苦難、問題)に目を向けず、旅をイエスと共に歩けることを楽しめるように御顔を求め、力を求めましょう。
メッセージのポイント
私たちは神様の見守られて生きています。しかし神様が与えようとしているものを確実に受け取るためには、自分も神様を見ていなければなりません。どうしたら目に見えない神様を“見る”ことができるのでしょうか?礼拝することがそれを可能にします。日曜日や週日の家族や個人での礼拝はもちろん、聖書を読むときや祈る時も一方通行ではないことを意識して、心の目を開き、耳をそばだてて主と向かい合いましょう。
話し合いのために
1) あなたの今の困難は何ですか?
2) 主のみ顔を求めるとはどういうことですか?
子供たちのために
目に見えない神様ですが、神様はいつでも一人一人を見守っていてくださいます。しかし必要な助けを確実に得るためには、自分も神様を見ていなければなりません。どうしたら目に見えない神様を“見”たら良いのでしょうか?神様の顔を求めるというのは、神様の方へ心を向けることの例えですから、実際に見ることを求めるということではなく、見守っていてくださる神様に、自分からも近づこうとするということです。心を込めて礼拝すること、祈ること、聖書を読むこと、家族と神様の話をすることがそれに当たるのです。