2017/7/9 主の声を聞く

永原アンディ

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主の声を聞く (詩編29編)

 


 詩編詩人はワーシップリーダーでもありました。この29編も大きな祭りの中で聖歌隊や多くの人々と共に歌ったものだと考えられています。主題は3-9節に繰り返し出てくる「主の声」です。歌全体は、この主の声についての部分を中心としたサンドイッチ構造になっています。主の声についての内容はもちろん重要ですが、前後の部分にも、無視できない貴重な教えが示されています。


A. 栄光を主に帰す (1-2)

 それでは最初の2節から見てゆきましょう。形式的には主題を導くイントロダクションですが、ここに主に従う者の取るべき態度が示されていることを見逃してはいけません。この態度を持たないなら、どんなに言葉を尽くして主を賛美しても、虚しい自己満足でしかない礼拝・賛美になってしまうからです。

【賛歌。ダビデの詩。】神の子らよ、主に帰せよ栄光と力を主に帰せよ御名の栄光を主に帰せよ。聖なる輝きに満ちる主にひれ伏せ

 「主に帰せよ」という言葉に注目してください。と言っても「帰す」という言葉を使ったことのある人はほとんどいないと思います。普通の言い方をすれば「主のものと認める」ということです。つまり力も輝きも主のものであって、他の誰のものでもないということをしっかりと認めるということです。だからその力、輝きの前には誰でもひれ伏す以外に正しい態度はあり得ません。主を信じる者なら当たり前のことだと思えるかもしれません。しかし、実際にはそうでない心の状態が私たちのうちにしばしばあるので、詩人は人々にこう命じたのです。私たちにも同じことが起こります。主に従い、主の前にひれ伏す者であるはずなのに、私たちはいつの間にか自分に力、輝き、権力があるかのように思い込み、振る舞ってしまう者なのです。そうなれば教会はユアチャーチ(神様あなたの教会です、という意味で)ではなくマイチャーチ、アワチャーチに転落してしまいます。そしてイエスと会いたいと願う人に対してのユアチャーチでもなくなって、入りにくい宗教的クラブとなってしまいます。そうならないために「栄光、力、権威は主にある」ということを自分の心に刻みつけなければならないのです。このことを二つの側面に分けて整理しておきましょう。

1. 神を正しく認める

 一つは、栄光を主に帰すとは、神様を“正しく”認めるということだということです。ここにいる人のほとんどは神様を信じている人だと思います。問題は、あなたがどう信じているかではなく、神様がご自身をどう信じてほしいと願っておられるかです。
ある人々は、聖書の神様を信じていると明言していますが、実は神様を信じることによって自分の利益を得ることが最終目標です。形の上では神様の前にひれ伏していても、内側は自分中心でしかありません。つまり何も主に帰してはいないわけです。このような人々にとっては、神様が全ての人々を祝福することではなく、私が祝福されることが重要なのです。神様のことを栄光、力、権威を帰すべき方としてではなく、自分のための祝福製造機とみなしています。
神様が望まれるのは、自分を無として心から主の前にひれ伏し、栄光と力と権威は全て神様のものですと認める態度なのです。このあとお話しするBの部分は私たちが神様を正しく認めるため根拠と言える内容です。

2. 自分を正しく認める

 もう一つは、自分を正しく認めるということです。自分は何も持っていないと認めることの大切さについては、多くの宗教が勧めているところです。だから、例えば「欲望を捨てましょう、そうすれば悩みは無くなります。」と教えられます。「心を無の境地に置きましょう。そこに平安があります」確かにそうできれば心の平安は得られます。しかしそれは無理なのです。
イエスの教えはそうではありません。「罪を捨てなさい」ではないのです。罪の性質を捨てることのできる人はいません。イエスは「罪の赦し」を受け取りなさいと勧めます。与えることができるのは神様だけです。だから、私たちは単に無力であることを認めるだけでは不足です。ほっておけば自己中心に向かう性質=罪を持つものだと知らなければなりません。確かに神様は赦してくださいました。けれども自分は、いつも主の前に立ち返り、ひれ伏して、心からの礼拝を捧げていなければ霊的に健康ではいられない者であることを知りましょう。


B. 主の声を聞く

 今日の主題である主の声についての部分に移ります。実はこの部分もまたサンドイッチ構造になっています。つまりこの詩全体は二重のサンドイッチになっているということです。4-9節の主題をハムとすれば、それを包むように3節と10節のチーズがあり、それを1-2節と11節がパンのように包んでいます。

1. 神は初めから今まで全てを支配して来た(3)

主の御声は水の上に響く。栄光の神の雷鳴はとどろく。主は大水の上にいます。

 この部分から、聖書の他の箇所を思い浮かべませんか?これは創世記の第一章の1,2節、つまり聖書の最初の言葉、世界の創造の最初のシーンを表現しています。

初めに、神は天地を創造された。地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。

 人々は雷鳴を主の声と受け止めていますが、その声はあらゆるものの創造に先立って初めから発せられていたものだったのです。

2. 雷鳴や稲光のような主の声 (4-9)

主の御声は力をもって響き主の御声は輝きをもって響く。主の御声は杉の木を砕き主はレバノンの杉の木を砕きレバノンを子牛のようにシルヨンを野牛の子のように躍らせる。主の御声は炎を裂いて走らせる。主の御声は荒れ野をもだえさせ主はカデシュの荒れ野をもだえさせる。主の御声は雌鹿をもだえさせ月満ちぬうちに子を産ませる。神殿のものみなは唱える「栄光あれ」と。

 詩編の時代の人々はまだ雷のできるメカニズムを知りません。轟く音も、輝く稲光も比べるもののないほどすざまじいものでした。ですから、神様のものであると考えたのです。しかもただ大きい、ただ眩しいだけでなく実際に大きな力を発揮するものであることで人々は神様の怖いほどの偉大さを感じていたのです。雷は時に天高くそびえ立つ杉の木を真っ二つに割いたり、山火事を起こし、動物たちにも多きな動揺を与えました。人々は自然災害について、因果関係を知ることなく、神様の声としてひれ伏すしかありませんでした。私たちは彼らの無知を笑うこともできます。しかし雷は教会史の中で大きな役割を果たしているのです。その時そこで雷が起きなければプロテスタント教会は存在していなかったかもしれません。1505年ドイツのほぼ真ん中に位置するエアフルトの郊外でのことでした。そこの通りかかったのはエアフルト大学のロースクールに向かう新入生、のちの宗教改革者ルターだったのです。突然の雷に恐ろしくなったルターは聖アンナ(母マリアの母)に「修道士になるから助けて」と叫びました。ルターは法律家への道を捨てすぐに修道院に入り、やがて神学者となりプロテスタント教会を誕生させたのです。

今、人々があまりにもわかりすぎたつもりになって、神様の声を意識することなく生きてきた結果が、世界にいくつもの大きなひずみを生み出してしまったのではありませんか?人間が自然や社会を立派にコントロールできるという思い上がりが、環境問題、飢餓の問題、格差の問題、紛争をもたらしているのです。私たちにとっては、主の声は、雷鳴のように聞こえてきて圧倒するものではなく、注意深く聞き耳を立てて聞かなければならないものです。私たちは主の言葉の響きをどう受け取ったら良いのでしょうか? 聖霊にできないことはありません。今でも必要なら、この耳にはっきりと語ってくださることもあると私は信じています。もちろん、それを求めるあまりに、勝手な自分の思い込みを「主の声」と言い張ってしまう危険もあることは知っておかなければならないでしょう。けれども、もっと頼りになる声を私たちは聞くことができるのです。それは福音書に記されているイエスの言葉です。私たちは聖書に記されているイエスの言葉を、今受け取ることのできるイエスの声として聞くのです。イエスは

わたしの羊はわたしの声を聞き分ける。わたしは彼らを知っており、彼らはわたしに従う。(ヨハネ 10:27)

と言っていますがそれを可能にするのはイエスの言葉です。

イエスは、御自分を信じたユダヤ人たちに言われた。「わたしの言葉にとどまるならば、あなたたちは本当にわたしの弟子である。 (ヨハネ 8:31)

超自然的な現象として聞こえてこなくても、福音書のイエスの言葉に親しんでいる人なら、心にその声を聞くことができます。このイエスの声に耳を傾けて歩みましょう。

ここで混乱しないように説明しておいた方が良いことがあるので簡単に説明しておきます。9節前半なのですが、新共同訳とNIVとは明らかに違っています。新改訳、英語のESVは新共同訳と同じで、口語訳とほとんどの英語訳はNIVと同じです。

主の御声は雌鹿をもだえさせ月満ちぬうちに子を産ませる。(新共同訳)
主のみ声はかしの木を巻きあげ、また林を裸にする。(口語訳)
The voice of the LORD twists the oaks and strips the forests bare. (NIV)
The voice of the LORD makes the deer give birth and strips the forests bare (ESV)

樫の木/雌鹿と異なって訳されているヘブル語の言語はどちらに訳すべきか決定的にはわかっていないのでこういうことが起こります。聖書、特に旧約聖書ではそのような箇所が多くあります。また、残されている写本(manuscripts)によって全く別の語が使われていることもあり。訳す時には選択しなければなりません。このことは私たちに、大切なのは自分の言葉に訳された聖書の一言一句ではなく、聖書全体から聞くことのできる主の言葉だということです。

3. 神はこれからも永久に支配する(10)

主は洪水の上に御座をおく。とこしえの王として、主は御座をおく。

 この10節は3節によく似ています。違うのは水ではなく洪水ということと、過去や現在ではなく未来、しかも永遠にその支配が続くというところです。3節と10節はセットで「主の声」という主題を包み、主が始めから永遠におられて、その声を響かせていてくださることを示しています。水や洪水は世界の創造の始めの混沌とした状態ですが、その上に神様の支配があって変わることはありません。今の世界も秩序のない混沌と思えるようなものですが、主の声を聞く者には神様の秩序が確立して恐れることは何もありません。


C. 神様に求めるべき二つのもの (11)

 最後に11節がこの歌をどのように締めくくっているかを見てゆきます。

どうか主が民に力をお与えになるように。主が民を祝福して平和をお与えになるように。

力も、祝福も、主が与えてくださるものです。私たちにはそれらを求める権利があります。求めるべきなのは自分で作り出すことのできないものだからです。これらを自分で持とうとすることが、世界に不幸をもたらすものだということを私たちは今日学んできました。人のもたらす力は不完全で破壊をもたらしますが、神様の与える力は平和をもたらすのです。

1. 力

 主の下さる力は、人を圧倒して自分の意を通すためのものではありません。しかしこのことは、キリスト教国と言われている国で誤解されています。自分をクリスチャンとみなす政治家だけではなく、宗教指導者までもが他の宗教を基盤とする国々、民族を圧倒するために神様の力が与えられると勘違いしているのです。私たちが求めるのはそんな力ではありません。
主の力は主の声を意識して聴き続けるものに与えられます。生きる力、正しいことをする力、人を助ける力です。

2. 平和

 ですから主の声がもたらす力は、争いではなく平和をもたらす力です。心の平和と世界の平和は別のものではなく、それぞれが神様のくださる完全な平和の一部分です。自分の心にも、他の人々の心にも、この世界のいたるところに住む人々にも、神様の平和があるように祈り求めてゆきましょう。


メッセージのポイント

様々な情報が神様の声を聞き取りにくいものにしている時代ですが、注意深くその声を聞いて従うことができます。世界の始めから終わりまで神様の語りかけが消えることはありません。神様と共に生きることによってのみ本当の力と平和を得ることができるのです。

話し合いのために

1) 栄光を主に帰すとは?
2) 主の声を聞いた経験をシェアしてください

子供たちのために

昔の人が雷鳴や稲光を神様の声や輝きと受け取り。神様を実感していたことを話してあげてください。もちろん現代では雷のメカニズムも解明されていますが、それでも自然は人がコントロールできないものであることには変わりありません。私たちにはコントロールできないものであっても、神様はコントロールしています。だから神様を信頼することによって、思いがけないこと、自分ではどうすることのできないことも恐れずに行きてゆくことができます。