2017/7/16 そのこだわりは大切か、どうでもいいことか?

池田真理

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そのこだわりは大切か、どうでもいいことか?
(ガラテヤの信徒への手紙 2:1-10)

 

 今日は最初に、使徒言行録の15:1-2を読みたいと思います。これからパウロが語っていく、ある事件のことが書かれています。


0. 事件が起こった (使徒 Acts 15:1-2)

使徒15: 1 ある人々がユダヤから下って来て、「モーセの慣習に従って割礼を受けなければ、あなたがたは救われない」と兄弟たちに教えていた。2 それで、パウロやバルナバとその人たちとの間に、激しい意見の対立と論争が生じた。この件について使徒や長老たちと協議するために、パウロとバルナバ、そのほか数名の者がエルサレムへ上ることに決まった。

 もし私たちが、「イエス様を信じているなら、割礼も受けなさい」と言われたらどうでしょうか?誰も相手にしないと思います。でも、当時は違いました。「え?そうなの?」と惑わされてしまう人たちがたくさんいました。だから、パウロやその友人たちは戦わなければいけませんでした。彼らが戦ってくれなかったら、今でも私たちは割礼という習慣を守っていたでしょうか?たぶん、守ってはいないと思います。というのは、もし彼らが戦わなかったら、キリスト教そのものが消えてしまい、私たちはイエス様を知ることもなかっただろうからです。割礼の問題は、一見私たちには何の関係もないようで、それほど重大な、私たちの信仰の核心に関わる問題なのです。
それではガラテヤ2:1-5を読んでいきましょう。


1. パウロがこだわった点:異邦人に割礼はいらない (1-5)

1 その後十四年たってから、わたしはバルナバと一緒にエルサレムに再び上りました。その際、テトスも連れて行きました。2 エルサレムに上ったのは、啓示によるものでした。わたしは、自分が異邦人に宣べ伝えている福音について、人々に、とりわけ、おもだった人たちには個人的に話して、自分は無駄に走っているのではないか、あるいは走ったのではないかと意見を求めました。3 しかし、わたしと同行したテトスでさえ、ギリシア人であったのに、割礼を受けることを強制されませんでした。4 潜り込んで来た偽の兄弟たちがいたのに、強制されなかったのです。彼らは、わたしたちを奴隷にしようとして、わたしたちがキリスト・イエスによって得ている自由を付けねらい、こっそり入り込んで来たのでした。5 福音の真理が、あなたがたのもとにいつもとどまっているように、わたしたちは、片ときもそのような者たちに屈服して譲歩するようなことはしませんでした。

a. パウロは一歩も譲らなかった

パウロは、異邦人に割礼はいらないという自分の立場を、一歩も譲りませんでした。そして、その点においては、イエス様を信じる人々すべてが一致していなければいけないとも思っていました。だから、エルサレムまで行って、エルサレム教会のリーダーたちと話さなければいけませんでした。そして、割礼を要求する人たちのことを「偽の兄弟たち」と呼んで、彼らの立場を全く認めようとはしていません。パウロと彼らはそれぞれ何を信じていたのでしょうか?

b. パウロと「偽の兄弟たち」の違い

まず、パウロが信じていたのは、5節にある「福音の真理」です。それは4節では「イエス様によって与えられた自由」とも言われています。イエス様によって与えられた自由とは、罪からの解放による自由です。私たちは、自分を造られた神様のことを忘れて自分勝手に生きる性質を持っていますが、それが罪です。イエス様が私たちをこの罪から解放されたというのは、イエス様が私たちの身代わりになって罪の苦しみを引き受けられたということです。この世界を創り、私たちを造られた神様が、自らイエスという一人の人となって、私たちのために苦しまれたということです。なぜなら、神様は私たちが自分の罪の奴隷になったままで苦しんで死んでいくままにはしたくなかったからです。そして、ご自分がどれだけ私たちのことを愛しているかを教えるために、自ら十字架で苦しんで死ぬという道を選ばれました。それによって私たちが、神様に愛されて、神様を愛して生きることができるようになるためです。それが、イエス様が実現された神様の愛であり、私たちの自由です。だから、このイエス様を信じれば、神様の愛と罪からの自由を得られるというのが福音です。パウロが異邦人たちに伝えていた福音も、この福音です。
でも、偽の兄弟たちと呼ばれている人たちは、神様の愛を得るためには、イエス様を信じるだけでは不十分だと言い始めました。イエス様はあくまでユダヤ人の神様なのだから、イエス様を信じるならユダヤ人の一員にならなければいけないと教えました。ユダヤ人である証は、割礼と律法です。だから、本当に神様に愛されて生きるためには、イエス様を信じるだけではなく、割礼と律法を守らなければ不完全だと教えたということです。この偽の兄弟たちの言い分は、つきつめれば、イエス様を信じる信仰よりも、ユダヤ人であることの方が重要だということになります。だからパウロは、彼らを偽の兄弟と呼びました。彼らはイエス様を信じていながら、その信仰は偽物でした。

c. イエス様を信じるだけで十分。他に何もいらない

パウロが持っていた信仰、そして私たちの信仰は、ただイエス様を信じる信仰です。それは、それだけで完成しています。他に私たちの方で付け加えるものはなにもありません。イエス様の死と復活によって、神様の愛は全ての人にすでに注がれています。それは太陽の光のようで、私たち人間の側でできるのは、それをいっぱいに浴びていくか、日陰に入って避けるかの選択だけです。その光を私たちの方で途中で屈折させたり陰らせたりはできません。また神様の愛は、道とも言えます。神様に愛されるという道がすでに誰の目の前にも広がっていて、そこを歩くかどうかだけが私たちに残されている選択だということです。イエス様が私たちの目の前に切り開いてくださったその道を、壊すことも工事することも私たちにはできません。神様の愛という光が自分に注がれていると信じること、そしてその道が自分の前に広がっていると信じて歩み始めること、それだけが私たちにできることです。それがイエス様を信じる信仰です。
ですから、イエス様を信じるだけでは不十分だと言うことは、イエス様の十字架は不十分だと言うことになります。光が届くために、私たちの方で雲を取り払わなければいけないということになります。道で言うなら、それはイエス様は完成して下さらなかったから、私たちが工事を完成しなければいけないということになります。それは裏返せば、私たち人間が神様のすることに手出しができて、神様にはできなかったことを私たちはできるのだという、とんでもない間違いです。それでは、結局私たちは自分で自分を救うしかないということになります。そして、イエス様が十字架で苦しまれたのは、結局無駄だったということになってしまいます。それは、福音ではありません。
パウロが戦った異邦人の割礼の問題は、こういう性質のものでした。神様の働きに、人間が協力する余地があるという間違いです。これは形を変えて、いつの時代も現れる問題です。神様に愛されるためには、イエス様を信じること以外に、私たちにするべきことがあると思い始めるところから、福音の真理は失われていきます。それは本当に様々な形で、私たちの間に入り込んできます。日曜日には必ず教会に来なければクリスチャンじゃないとか、毎日聖書を読まなければいけないとか。クリスチャンならいつもハッピーでなければいけないとか、人から尊敬されなければいけないとか。こういうこと自体は悪いわけではありませんが、これができなければ神様は愛して下さらないと思うなら、間違っているということです。

さて、ここまでの前半では、パウロがこだわって一歩も譲らなかったことについてお話ししてきました。異邦人に割礼を求めるのは絶対にあってはならないという主張でした。でも、ここから後半は、パウロがこだわらなかった点をお話ししたいと思います。6-10節を読んでいきましょう。


2. パウロがこだわらなかった点:ユダヤ人の割礼 (6-10)

6 おもだった人たちからも強制されませんでした。——この人たちがそもそもどんな人であったにせよ、それは、わたしにはどうでもよいことです。神は人を分け隔てなさいません。——実際、そのおもだった人たちは、わたしにどんな義務も負わせませんでした。7 それどころか、彼らは、ペトロには割礼を受けた人々に対する福音が任されたように、わたしには割礼を受けていない人々に対する福音が任されていることを知りました。8 割礼を受けた人々に対する使徒としての任務のためにペトロに働きかけた方は、異邦人に対する使徒としての任務のためにわたしにも働きかけられたのです。9 また、彼らはわたしに与えられた恵みを認め、ヤコブとケファとヨハネ、つまり柱と目されるおもだった人たちは、わたしとバルナバに一致のしるしとして右手を差し出しました。それで、わたしたちは異邦人へ、彼らは割礼を受けた人々のところに行くことになったのです。10 ただ、わたしたちが貧しい人たちのことを忘れないようにとのことでしたが、これは、ちょうどわたしも心がけてきた点です。

a. パウロは妥協した?

ここにはエルサレムでの話し合いの結果が書かれています。それは、一言で言うならペテロとパウロで宣教の役割分担をしたというものです。そして、パウロは異邦人に割礼を求めないで宣教を続けるということが認められました。異邦人には割礼を受けさせる必要はないと、エルサレム教会のリーダーたちも一応同意したということです。でも、ひっかかるのは、ペテロには割礼を受けた人たちへの福音が任せられたという点です。つまり、話し合いの結果、ペテロの割礼を認める宣教と、パウロの割礼を認めない宣教が同時に認められたということです。ということは、割礼そのものが必要ないとされたわけではなかったということです。これは大きな矛盾です。私たちの信仰は、イエス様を信じるだけで十分で、それに何も付け加えられないはずではなかったでしょうか?そのことを徹底するつもりなら、もう割礼という習慣そのものを廃止にすればよかったはずです。「ユダヤ人の皆さんも、もう割礼はやめましょう」と言えばよかったのです。そうすれば、ペテロとパウロで役割分担をする必要もありません。なぜそうしなかったのでしょうか?パウロは前半であれだけ偽の兄弟たちに対抗して、自分の立場にこだわってイエス様の福音を守ろうとしていたのに、最後には妥協してしまったということでしょうか?そうともいえますが、パウロの真意は1コリントの9章で分かります。9:19-23を読んでみましょう。

b. イエス様の愛が伝わるなら、他は全てどうでもいい (1コリント9:19-23)

1コリント9: 19 わたしは、だれに対しても自由な者ですが、すべての人の奴隷になりました。できるだけ多くの人を得るためです。20 ユダヤ人に対しては、ユダヤ人のようになりました。ユダヤ人を得るためです。律法に支配されている人に対しては、わたし自身はそうではないのですが、律法に支配されている人のようになりました。律法に支配されている人を得るためです。21 また、わたしは神の律法を持っていないわけではなく、キリストの律法に従っているのですが、律法を持たない人に対しては、律法を持たない人のようになりました。律法を持たない人を得るためです。22 弱い人に対しては、弱い人のようになりました。弱い人を得るためです。すべての人に対してすべてのものになりました。何とかして何人かでも救うためです。23 福音のためなら、わたしはどんなことでもします。それは、わたしが福音に共にあずかる者となるためです。

パウロにとって一番大切だったのは、一人ひとりが自分に注がれている神様の愛を受け取ることでした。それが達成できるなら、他のことはどうでもよかったのです。パウロ自身のユダヤ人としての誇りはもちろん、他人からどう誤解されようと、重要ではありませんでした。そして、自分と違う考え方をする人たちをできる限り尊重しました。できる限りというのは、その違う考え方というのが、福音の真理を歪めない限りです。ユダヤ人にとって、割礼と律法を守るということが、神様を愛する一つの表現だということを、パウロは知っていました。倫理的に良い生活をし、神様に喜んでいただくために割礼と律法を守るなら、それは何も悪いことではありません。だから、そう信じているユダヤ人に割礼と律法を捨てろと言うことは、良い生活を捨てて、無法状態に好き勝手に生きなさいと言うようなものです。それでは、イエス様に対する感謝よりも、むしろ誤解を招きます。それをパウロは分かっていたので、ユダヤ人がイエス様を知った後も律法を守り続けることに反論はしませんでした。ユダヤ人はユダヤ人の生き方の中で、今までよりもっと神様に愛されていると知ることができると信じていました。同じように、異邦人は異邦人の生き方で、それぞれが神様に愛されているのだと信じていました。だから、あの偽の兄弟たちのように、ユダヤ人の生き方だけが神様に愛される方法だと言うなら、それは福音を歪める主張なので、容赦なく反論しました。
私たちにも、イエス様のことを知ってほしい多くの人たちがいます。その人たちのために私たちができることは、ただ、イエス様がその人を愛しておられるように、私たちもその人のことを愛することだけです。その人の生き方が私たちの期待とは違っていたり、時には理解できなかったりしたとしても、神様がその人のことを愛しているのは変わりありません。だから、それを知ってもらうためなら、その人の何かが間違っていようと、関係ありません。今日お話ししてきたように、イエス様の愛は、私たちの罪深さに関わらず、一方的に注がれた光であり、一方的に開拓された道です。そしてそれは、神様が人間となられ、死なれたという、大きな立場の逆転と苦しみによるものでした。パウロが「 わたしは、だれに対しても自由な者ですが、すべての人の奴隷になりました。できるだけ多くの人を得るためです。」と言うのは、イエス様自身のことでもあります。このイエス様の愛に従うなら、私たちは決して自分の生き方を他人に押し付けることはできないはずです。そして、自分とは違う生き方や考え方でも、受け入れることができるはずです。


3. 無条件の愛:あらゆる「壁」への挑戦状

私たちは、他人との間に自分でも気がつかない壁を何層も持っています。イエス様の愛は、その壁への挑戦状と言えます。イエス様を愛して生きていきたいと思うなら、私たちの中にある壁は壊されていかなければいけません。割礼を要求したユダヤ人たちは、その壁を壊せませんでした。それが壁だとも思いませんでした。その結果、異邦人たちにその壁を乗り越えてくるように強制したと言えます。そして、その壁が、異邦人たちとイエス様の間を隔ててしまいました。イエス様の愛は無条件なのに、人間が条件をつけたために、イエス様の愛が伝わらなかったということです。では反対に、なぜパウロは同じユダヤ人でありながら、それが壊されなければいけない壁だと気がつくことができたのでしょうか?それは、彼は、大切なことは一つだけだと知っていたからです。それは、無条件に私たちに注がれたイエス様の愛です。それを邪魔するものには絶対に反対しなければいけませんが、邪魔でなければこだわる必要はありません。「そのこだわりは大切か、どうでもいいことか?」私たちは、イエス様に聞き、自分を調べてみる必要があります。そうすれば、私たちは他の多くの人たちと一緒に、イエス様の愛をもっと深く受け取って、共に喜ぶことができるでしょう。


メッセージのポイント

私たちがイエス様と共に人生を歩むために必要なことは、イエス様を信頼することだけです。聖書を研究することでも、教会の活動に参加することでもありません。それらは助けにはなりますが、イエス様への信頼がなければ何の意味もありません。また、私たちが誰かにイエス様を紹介するために必要なことは、イエス様が自分を愛して下さっているようにその人を愛することだけです。そのためには、私たちの中にある、自分でも気が付いていない「こだわり」を捨てなければいけません。私たちがこだわらなければいけないのは、イエス様の愛だけです。

話し合いのために

1)どうやって、大切なこととどうでもいいことを見分けますか?
2)どうやって自分の中の「壁」に気が付けますか?

子供たちのために

ガラテヤの箇所は子供達には難しいと思うので、読むとしたら1コリントがいいと思います。イエス様がみんなのことを愛しているのは、みんなが一生懸命お祈りするからでも、教会に来ているからでも、誰にでも優しい子だからでもありません。そういうことは大切なことですが、そういうことがなくても、イエス様の愛は変わりません。そういうことができなくても、神様はみんなのことを責めたりはしません。何ができるかできないかではなくて、みんながイエス様のことを好きかどうかが一番大切です。