池田真理
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罪人はだれか?(ガラテヤ 2:11-21)
今日のメッセージのタイトルは「罪人(つみびと)はだれか」です。みなさんはなんて答えるでしょうか。その答えは、私たちそれぞれが罪というものをどう考えているかによって違ってきます。犯罪が罪なら、犯罪者が罪人です。神様を信じていないのが罪なら、神様を信じていない人が罪人です。でも、犯罪を犯して逮捕されていなくても、人を苦しめ悲しませる人たちもいます。その人たちは罪人ではないのでしょうか。そして、神様を信じていても、残念ながら犯罪を犯す人もいます。罪とは何かいう問題は、簡単なようで複雑です。でも、この問題につきあわなければ、私たちは2千年の間に教会が繰り返してきた間違いをまた繰り返すことになります。
教会では、少なくとも基本的には、すべての人間が罪人なのだと教えてきました。でもどういうわけか、罪人の中にもランクがあるかのような勘違いが今でも起こっています。クリスチャンはノンクリスチャンにイエス様のことを教えてあげなければいけないというような上から目線の感覚は、まさにその勘違いです。救われた、救われていない、という言葉も、私にはとても抵抗があります。私たちはみんな一生、神様に救われ続けなければいけない罪人だったはずではないでしょうか。
こういう間違いが特定の人たちに向けられると、問題はさらに深刻になってしまいます。今、世界中で分裂の危機にある、またはすでに分裂してしまった教会や教派が増えています。LGBTQ、性的少数者の人たちを教会にどう迎えるかという課題で、教会の意見は分裂しています。聖書には同性愛が罪だと書かれているから、彼らは罪人だと主張する人たちがいます。私の立場は反対です。私は、同性愛は罪ではなく、性的少数者はそれぞれの性的指向性を大事にしていいし、そのままで神様に愛されていると信じています。このことは機会があればみんなでよく話してみたいと思いますが、今は最初の問いに戻りたいと思います。
罪人はだれか、罪とは何か。この問題を間違えると、排除しなくていい人に罪人というレッテルをはって排除し、苦しめることになります。今日は、この問題を間違えてしまったペトロの失敗談から始まります。これを報告するパウロは、ペトロの失敗が私たちの信仰に関わる根本的な間違いだということを見抜いていました。ガラテヤ2:11-14です。
1. 失敗談 (11-14)
11 さて、ケファがアンティオキアに来たとき、非難すべきところがあったので、わたしは面と向かって反対しました。12 なぜなら、ケファは、ヤコブのもとからある人々が来るまでは、異邦人と一緒に食事をしていたのに、彼らがやって来ると、割礼を受けている者たちを恐れてしり込みし、身を引こうとしだしたからです。13 そして、ほかのユダヤ人も、ケファと一緒にこのような心にもないことを行い、バルナバさえも彼らの見せかけの行いに引きずり込まれてしまいました。14 しかし、わたしは、彼らが福音の真理にのっとってまっすぐ歩いていないのを見たとき、皆の前でケファに向かってこう言いました。「あなたはユダヤ人でありながら、ユダヤ人らしい生き方をしないで、異邦人のように生活しているのに、どうして異邦人にユダヤ人のように生活することを強要するのですか。」
ケファというのはペトロのアラム語読みです。ペトロはギリシャ語読みです。どちらもイエス様が彼を「岩」と呼んだことからついた岩という意味の言葉です。彼の元々の名前はシモンです。はっきりした理由は分かっていませんが、パウロは彼のことをペトロと呼ぶよりもケファと呼んでいました。ただ私たちにはペトロの方がなじみ深いので、ここではペトロと呼ぶことにします。
ここでパウロが報告している問題は、アンティオキアの教会の中で起こりました。アンティオキアはそれまでパウロとバルナバが活動の拠点にしていた教会です。彼らの活動の結果、異邦人もユダヤ人も関係なくイエス様を信じる人たちが集まっていました。そこにペトロが訪ねて来ました。前回読んだように、パウロとペトロはそれぞれ異邦人宣教とユダヤ人宣教という役割分担をしたことになっていました。でも、イエス様を伝えたいという同じ情熱を共有している友人であることに変わりありません。ですから、ペトロがアンティオキアを訪ねてきて、パウロやバルナバと共に励まし合うのは何も不思議ではありませんでした。ただ、前回も読んだユダヤ人と異邦人の関係の問題は、ここでも再燃しました。異邦人に対する態度が、パウロとペトロではやはり違ってしまったのです。
パウロの報告をもう一度読みます。(12節)「ケファは、ヤコブのもとからある人々が来るまでは、異邦人と一緒に食事をしていたのに、彼らがやって来ると、割礼を受けている者たちを恐れてしり込みし、身を引こうとしだした …」そして、アンティオキア教会のユダヤ人たちだけでなく、パウロと活動を共にしてきたバルナバでさえ、流されてしまったとあります。
ユダヤ人が異邦人と食事を共にするのがなぜそんなに問題だったのかというと、ユダヤ人にとって異邦人は罪人だったからです。神様を信じない罪人。神様に与えられたモーセの律法を守らない罪人。偶像崇拝をする罪人。汚れた肉を食べる罪人。そんな罪人でも割礼を受けて律法を守るなら受け入れよう、というのが、異邦人に対するユダヤ人の基本的な態度でした。イエス様が現れて、神様は異邦人のことも受け入れたのだと分かった後も、このユダヤ人の感覚は残っていました。ペトロやバルナバはおそらく元々穏やかな人たちで、そこまで異邦人に対して厳しくしなくてもいいと思っていたので、厳格な態度のユダヤ人たちがやって来るまでは異邦人たちと対等に仲良くしていました。でも、パウロのようにそれが福音の真理に関わることだという確信を持ってそうしていたわけではありませんでした。だから、異邦人は罪人だろう、罪人と一緒に食事をするならお前たちも汚れていると言われれば、言い返すことができませんでした。
パウロはこのアンティオキアで起こった問題と同じことがガラテヤで起こっていると感じていました。なぜ異邦人は罪人扱いされるのか、なぜユダヤ人は異邦人にユダヤ人になることを強制するのか。それは、彼らが罪とは何かということを正しく理解していないからでした。そしてそれは、本当の罪からの解放というものをまだ分かっていないということになります。15-16節に入っていきましょう。
2. 罪とは (15-16)
15 わたしたちは生まれながらのユダヤ人であって、異邦人のような罪人ではありません。16 けれども、人は律法の実行ではなく、ただイエス・キリストへの信仰によって義とされると知って、わたしたちもキリスト・イエスを信じました。これは、律法の実行ではなく、キリストへの信仰によって義としていただくためでした。なぜなら、律法の実行によっては、だれ一人として義とされないからです。
a. 人間の視点:行い中心
15節は問題発言です。「わたしたちは生まれながらのユダヤ人であって、異邦人のような罪人ではありません。」これはパウロの考え方ではなく、ユダヤ人の一般的な考え方です。パウロはそれをよく知っていて、これから自分の考えを展開していくためにわざとここに挿入しているのだと考えられます。ユダヤ人は異邦人とは違う。異邦人は罪人だが、私たちは違う。それは、イエス様に出会うまではパウロも信じて疑わなかったことです。でもそれは間違いでした。
ユダヤ人たちの間違いは、罪を人間の視点でしかとらえなかったところにあります。当時のユダヤ人にとって罪とは、律法を守らないことでした。それは、本来良いものとして与えられた律法の役割を、ユダヤ人が忘れてしまった結果です。律法自体は神様が彼らに与えたもので、それ自体は悪いものではありません。そして、その律法を守らない生活をすることは、確かに神様の悲しまれることだというのも本当です。でも、ユダヤ人たちは、そもそもなぜ律法が与えられたのか、本来の役割を忘れてしまいました。律法の目的は本来、すでに神様に選ばれ愛された民であるユダヤ人が神様に感謝を示すためです。それを守っているから神様に愛されるのではなく、守る前にすでに愛されていることが前提だったのです。それなのに、いつの間にかユダヤ人は律法を神様に愛されているかどうかの基準にしていしまいました。律法を守っていれば愛されているし、守っていなければ愛されていないという基準です。そして、律法を守っているユダヤ人は神様に愛されている民で、守っていない異邦人は罪人で、神様に愛されていないという間違った考えを持つようになってしまいました。
なぜこんな間違いをユダヤ人が犯してしまったのか、その理由は単純に人間は弱いということだと思います。何ができるかできないか、何をしたのかしなかったのかという行動によって人の価値を決めるのは、私たち人間にとって、とても分かりやすい基準です。何か悪いことをしたから罰を受ける、良いことをしたから報いを受ける、それはとても分かりやすい因果応報の法則です。そして、悪い行いをする人は悪い人、良い行いをする人は良い人と評価するのは当然だと思えます。それがさらに進めば、何か不幸に見舞われるのはその人が悪いことをしたからだし、幸運に恵まれるのは何か良いことをしたからだということになります。人間は、行いによってお互いの評価を定めたがるということです。そして誰も、悪い人の側には行きたくありません。罪人というレッテルを貼られた人たちからは身を引いて、自分はあの人たちとは違うと言いたくなるのが人間です。差別され、排除される恐怖は誰にでもあります。罪を人間中心の視点で、行いによって判断しようとすると、そうなってしまいます。
神様は私たちのこの弱さをよく知っていました。だから、イエス様としてきてくださいました。もう一度16節だけ読みます。
b. 神様の視点:信仰中心
けれども、人は律法の実行ではなく、ただイエス・キリストへの信仰によって義とされると知って、わたしたちもキリスト・イエスを信じました。これは、律法の実行ではなく、キリストへの信仰によって義としていただくためでした。なぜなら、律法の実行によっては、だれ一人として義とされないからです。
イエス様がこの世界に来られたのは、十字架に架けられて死ぬためでした。十字架で死なれたのは、神様が私たちのことを愛しておられると教えるためでした。それは、私たちが良いことをしたからではありませんでした。私たちが何もする前から、神様は愛してくださっているのだということを、私たちに分かる形で証明してくださったということです。だから私たちは、自分で神様に愛されていることを証明する必要はありません。
この神様と私たちの関係は、恋愛関係に例えられます。神様はずっと、私たちに片思いをしていました。預言者や王たちを通して、そのことをずっと伝え続けてきました。それで伝わった時もありました。でも、人間はいつも疑いました。そして、浮気をしたり、忘れてしまったりしました。そんな関係を終わらせるために、神様はイエス様として自らこの世界に来られました。そんな関係を終わらせるというのは、片思いをやめるのではなく、それが揺るぎない思いであるとはっきり示すということです。イエス様の十字架は、神様が私たちと両想いになるために命をかけた告白だということです。告白されたら、私たちにできるのはそれにどう応えるかだけです。だから、イエス様を信じることだけが、私たちが神様と両想いになるために必要な唯一のことです。それ以外に私たちにしなければいけないことはありません。では、神様から見る私たちの罪とはなんでしょうか。それは、私たちが神様に片思いをさせたままにしておくことです。また、神様の思いを知りながら浮気をすることです。私たちそれぞれが神様に誠実に答えているかどうか、知っているのは神様です。
神様は私たちの行いではなく、心を見ています。そして、神様の前に完璧に正しい心を持てる人は誰もいません。それでも、神様は私たちのために命を捧げてくださいました。それがイエス様の十字架です。だから、私たちはイエス様を信じるしかありません。正しい心を持てなくても、イエス様が示してくれた神様の愛を信じることはできます。神様の思いにどこまで誠実にこたえられるかは、私たちがイエス様のことをどこまで真剣に信じられるかにかかっています。それは、生活の中心を自分ではなく神様にするということで、行い中心ではなく信仰中心の生き方をするということです。
でも、行いよりも信仰が大切だというのは誤解も招きます。17-18節です。
3. 良い行いはいらないのか?(17-18)
17 もしわたしたちが、キリストによって義とされるように努めながら、自分自身も罪人であるなら、キリストは罪に仕える者ということになるのでしょうか。決してそうではない。18 もし自分で打ち壊したものを再び建てるとすれば、わたしは自分が違犯者であると証明することになります。
これは、ユダヤ人から起こった反論に対するパウロの答えです。行いよりも信仰が重要だと言うなら、信仰があれば律法違反も許されるのかという反論です。私たちは、信仰があれば何をやっても許されるというわけではないと分かっていますが、当時のユダヤ人にとって律法をどう扱うかは、そう単純な問題ではありませんでした。このことはこの後の3章でパウロが詳しく語っていくので、私もその時にお話ししたいと思います。今日は先を急いで最後の19-21節に入っていきたいと思います。
4. 生き方の根本的な転換 (19-21)
19 わたしは神に対して生きるために、律法に対しては律法によって死んだのです。わたしは、キリストと共に十字架につけられています。20 生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。わたしが今、肉において生きているのは、わたしを愛し、わたしのために身を献げられた神の子に対する信仰によるものです。21 わたしは、神の恵みを無にはしません。もし、人が律法のお陰で義とされるとすれば、それこそ、キリストの死は無意味になってしまいます。
罪とは何か、罪人は誰かという話をしていたはずでしたが、パウロの言葉はいつの間にか生きるか死ぬかという話に変わっています。それは、罪を正しく理解するということは、新しい命を理解するということでもあるからです。神様がイエス様を通して示してくださった愛は、私たちの生き方を根本的に変えます。イエス様は私たちと神様の壊れた関係を修復してくださいました。だから私たちは、神様に愛されている者として生きることができます。神様は、私たちに何ができるかできないか、できたかできなかったかで愛するかどうかを決める方ではないと分かりました。昨日まで私たちがどう生きてきたかによって態度を変える方でもありません。今これから、なにを目指して生きていこうとするのか、私たちの心の向きを見ておられる方です。神様が私たちに目指してほしいと願っている方向はただ一つ、神様の方です。神様の片思いではなく、私たちと両想いになることです。迷いや疑いがすぐに出てくる私たちですが、イエス様を見つめ続けて、生きていくことはできます。それが神様が自分の命と引き換えに私たちに与えてくださった、新しい命です。人間の視点ではなく神様の視点から、行くべき方向を見ること。イエス様がきてくださったから、それが私たちにもできるようになりました。だから、パウロの言葉は真実です。「生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。」
罪人が誰か、正しく答えられるのは、イエス様の愛に生きている人です。そして、イエス様の愛に生きている人は、イエス様の愛が罪人のためだと知っています。では、罪人は誰か、考えることに意味はあるでしょうか?
メッセージのポイント
私たちは、「罪」を正しく理解しないために、誰が「罪人」であるのかを間違えてしまいます。そして、お互いの間に必要のない敵意と対立を生み出してしまいます。私たちが考える罪と神様の考える(解決した)罪は次元が違います。私たちは何ができるかできないかという行いを中心に考えがちですが、神様はなぜ私たちがそれをするのかしないのかという私たちの心に注目しています。人間中心の生き方ではなく、キリスト中心の生き方に方向転換しましょう。
話し合いのために
1) 罪とは何ですか?(何ではありませんか?)
2) 罪人は誰ですか?
子供たちのために
子供たちは大人よりも良いことと悪いことに敏感だと思います。「良い子」と「悪い子」はどうやって分けられるのでしょうか?みんなは自分がどっちだと思うでしょうか?友達で「悪い子」はなぜ悪いのでしょうか?そんなことを話し合ってみてください。神様は、みんなが良い子だから愛しているのではなく、悪い子だから愛さないという方ではありません。それは子供たちには不公平に思えるかもしれませんが、それがイエス様の死なれた意味だと教えてください。